第一話 藤原光平
「ここで、いいんだよなぁ」
誰が聞いているわけでもないのに、自然と小さくなってしまう声で光平は呟いた。自分の住み慣れた地だというのに、今立っている場所は何故かよそよそしさを感じる。余所者は拒む、といった雰囲気に満ちているのだった。
左手の地図をもう一度確認する。今朝、家のポストに入れられていた物だ。いろいろあって機嫌の悪かった光平が、一度グシャグシャに丸めてしまった物を広げたので、手書きの汚い文字は所々掠れてしまっている。それでも、なんとかこの場所にたどり着くことは出来た。
「やっぱ帰ろうかな…」
後悔に満ちた光平の呟きに答えるように、夕暮れの烏が一声鳴いた。
藤原光平。一般家庭に生まれ、本当は『幸平』と名づけられるはずだったところを、母親と病院で同室だった占い師に彼是吹き込まれ、正式に名前をもらう直前に『光平』と変更された普通の男の子である。
幼い頃からの夢は「幸せになること」。もちろん今でも変わっていない。
幼稚園児時代に、一度引越しを経験。それからは市立の小学校、中学校と過程を進めてきた。その頃から、身長・体重は同年代の平均値、テストの点はいつも平均前後、運動神経も人並みと、まさに普通の人生を送ってきた。
あえて人並みではない事柄と言えば、バレンタインデーのチョコ獲得数のみ。もちろん平均以下である。
そして現在、高校三年生の光平は、さして偏差値が高いわけでもないし、低すぎるわけでもない公立高校に通い、今まで通り生きている。
そんな光平のもとに、そのビラが届いたのは今朝早くの話である。
「兄ちゃん起きろ!!」
勢いよく部屋のドアが開けられた。その音と声で夢の世界から追い出された光平は、固く両目を閉じて現実に戻ることを拒んだ。
「いつまで寝てんのさ!今何時だと思ってんだよ!」
枕より上に置いてあったはずの携帯が、自分の顔の横に移動しているのに気づき、光平はちらりと時間を確認する。そして、それはこっちのセリフだ、と思った。
なんたって今日は日曜日。学校に行く必要のない日曜日。それなのに、何が楽しくて朝の六時に叩き起こされなければならないのか。
もちろん起きる理由のない光平は、頭の上から聞こえる大声から逃げるように布団に潜り込んだ。両耳を塞いでしまうと、少しは静かな朝が戻ってきた。
「…………」
しばらくしてピタリと止んでしまった声を不思議には思ったが、諦めたものと思い、再び夢の世界への帰還を試みる…が。
「…起きろ〜!!」
「ぎゃぁっ!?」
いきなり体の上に圧し掛かってきた重さに、蛙のような声が喉から漏れた。そのまま上で足をばたつかせたりと暴れられる。
耐えられなくなった光平は、布団から飛び起きた。
「てっめぇ、智彦!何すんだよ!?」
光平が跳ね起きた弾みに飛ばされたらしく、弟の智彦は、床の上に座り込んでいた。彼の、母親譲りの茶色がかった髪の毛にいくつもの埃がついているのを見て、ちゃんと部屋の掃除をしなければいけないな、という思いが頭をよぎった。
「へっ!兄ちゃんが起きないのが悪いんだよ〜だ!」
得意げに舌を出して、智彦は光平の部屋から出て行った。階段を駆け下りていく音がする。 後を追う気にも、もう一度寝る気にもなれずに、光平は溜め息をついた。
着替えもせずに一階のリビングのドアを開けると、牛乳パックを片手に持った、姉の綾香が目の前を通り過ぎた。
テーブルに目をやると、綾香が智彦の前に置かれた皿に牛乳を注いでいるのが見えた。今日の朝食はコーンフレークらしい。
「光平遅い。あたしの料理が冷めちゃったら、どう責任とってくれるのよ」
コーンフレークに冷めるも何もないだろうとか、そもそもコーンフレークを料理と言えるのかとか、色々言ってやりたいことはあったが、あえて何も言わずに光平は椅子に座った。
今、光平の両親は、二人とも海外へ出かけている。父親は仕事で。母親は友達との旅行で。 そのため、現在この家には光平と綾香と智彦の三人だけである。
姉の綾香は、光平と六歳違いの二十三歳で、家の近くにある小さな出版社に勤めている。仕事はできる方らしく、そこで出版している雑誌で姉の担当記事を見る回数は多い。家族内でも頼れる存在であることは確かだが、何かにつけて自分を弄るのは止めて欲しいと、光平は常々思っている。
弟の智彦は、光平とは十歳も歳が離れている。現在八歳の小学三年生だ。彼はとにかく生意気で、光平にばかり悪戯を仕掛けてくる。性格は明るいのでクラスでは人気者らしいが、光平にとっては小悪魔に過ぎない。
こんな二人との生活だから、今の光平は毎日が大変である。はっきり言って疲れた。
「あのね、今日、智彦と遊園地行ってくるから」
手の届かないところに置かれた牛乳パックに悪戦苦闘していた光平に、綾香が言った。
「あぁ。昨日、智彦から聞いた。留守番してりゃいいんだろ?」
「うん。大人しく勉強でもしてて」
言いながら、綾香は牛乳パックを光平に手渡した。
「そんなもんしねぇよ…って、あれ?コレ、入ってなくない?」
渡されたパックを傾けても、乳白色の液体は少ししか零れない。何度か振ってみても、水音さえしなかった。
「ごめんね、さっきの智彦の分で切れちゃった」
「…だったら渡すなよ」
悪びれた様子もなく言ってのける綾香に呆れつつ、光平は立ちあがって冷蔵庫のある方へ向かった。その背中に向けて、智彦がコーンフレークで一杯の口を開いた。
「兄ひゃん。ひゅうにゅう、みょうにゃいよ」
「“兄ちゃん。牛乳、もうないよ”って言ってるわ」
「…大丈夫。通じてる」
最早、文句を言う気力も沸かなかった。
綾香と智彦を見送ってから、光平は誰もいなくなった家で暇を持て余していた。寝不足だということを感じてはいるのだが、一度無理矢理目覚めさせられてしまった頭は、眠る事だけを考えさせてはくれなかった。眠いのに上手く寝ることの出来ない苛立ちと、牛乳がないために砂糖で食べたコーンフレークの甘さが光平を不快にさせる。
どうして、テレビの深夜番組を最後まで見てしまったのか。
どうして、自分が甘いものが苦手だという事を忘れていたのか。
好奇心と食欲に負けた自分が、ちょっと悔しかった。
玄関のチャイムが来訪者を知らせたのは、それから約十分後だった。
「ちぇっ、何だよ。こんな朝早く」
時計の針が八時近い時刻をさしているのを見て、光平は舌打ちをした。休日という事を考えれば、他人の家を訪ねるのはまだ早いと思う。
居留守を使ってやろうかと考えたのだが、時間が経つにつれて重さを増してくる罪悪感が嫌で、光平はしぶしぶ玄関へ向かった。
「イタズラだったらタダじゃすまさねぇぞ」
呟きながらドアを開けると、案の定そこには誰も居なかった。
確認のために、家の外に出て辺りを見回してみるが、やはり人の姿はない。休日だからだろうか、道端で話し込むことが好きなおばさん達も居ない。春の暖かい光が降りそそいでいるだけだった。
「…え?本当にイタズラ?」
タダじゃすまさない、などと言いながら大した罰も考えていなかった事を残念に思った。たとえ考えていたとしても実行に移せないことは承知の上でだ。
客がいないので自分が外に立っている意味はない。大きく溜め息をついた光平は、家に入ろうとした瞬間、家のポストに違和感を感じた。何かと思い、近寄ってみる。
蜘蛛の巣がかかったポストに投函されていたのは、一枚の白い紙だった。
「何だ?コレ」
ポストから紙を取り出し眺めてみる。妙に薄い紙だった。
それはどうやら何かの宣伝用のビラらしく、少し汚れた紙の上に、天使だとも悪魔だとも言い難い羽の生えた子どもの絵がたくさん描かれていた。色は全く使われておらず、お世辞にも上手いとは言えない。ほとんどが絵で埋められていて、下の方に小さな地図が書かれている。もちろん地図と呼ぶには程遠いもので、それを地図だと認識するのに少しばかり時間がかかった。
そして、一番光平を困惑させたのは、奇妙な子どもが掲げている旗のようなものに大きく書かれた、雑な手書き文字。
『他人の妄想を叶える手助けをしませんか?』
何の説明もない。ただそれだけが書かれていた。短くまとめているのは広告を出す上で有効な手段だとは思うが、何も伝わらなければ意味はない。
「…意味分かんねぇ」
しばらく眺めてから、光平はビラを両手で握りつぶした。
とっくにイタズラの事など忘れていて、ビラを握ったまま家の中へ戻ったのだった。