初会話
目が覚めてみると、シャリは王宮の庭ではなく知らない場所にいた。
室内で、しかも窓からの光で察するに、日が傾いている。
少々うとうとするだけのつもりが、かなり深く眠ってしまったらしい。
柔らかな肌触りのいいタオルの上に起き上がり、室内の様子を窺った。
まず猫の姿のシャリが包まれたタオルは寝台の上に置かれていた。
泥の中を歩いてはいないが、土は付いているだろう、足を出すには躊躇われるほど白く洗い上げられたシーツ。
シャリの部屋よりも広く、きちんと整理整頓と掃除がされている。
非常に汚し辛い。
これなら魔女の使い魔に相応しく、タオルなしで小汚い箱にでも入れ、部屋の隅に置いてくれていた方がまだマシだった様な気がする。
しかも重大な問題がある。
シャリが変化していられる時間はもう残りわずかだろう。
魔力が尽き掛けて……というより、尽き様と……、尽きた。
一瞬で姿が元に戻る。
当然服はなく、裸だ。
とりあえず申し訳ないとも思ったが、シーツを引っぺがし、頭だけが見える様に被る。
髪の毛は隠さなかった。
目の色もそうだが、黒は魔女の証。
例え使い魔の事は知らなくたって、いくら何でも魔女として生まれた姫の話くらいは聞いた事があるはずだ。
姫を攫うのが目的なら、どんな目に合うか分からない魔女などより、正真正銘深層の姫である姉妹を標的にしただろうから、その点は心配していない。
小さな音を立てて、扉が開いた。
さすがに緊張するが、ひょっこりという擬態語は絶対に使ってもらえない大きな男が現れた。
シャリがこの人で良かったと思った時、男の方は片手に持っていた、たぶん猫用のご飯とミルクを手から落として床にぶち撒ける。
「だっ、旦那様? ゴトルー様、いかがなさいました……?」
大きな男、ゴトルーの後ろから知らない人物がシャリの方を覗き見、
「! 魔、もごっ、もごごごごっ?」
魔女と言おうとして、ゴトルーに口を塞がれた。
とりあえず、このまま睨み合っているわけにもいかない。
「申し訳、ありません。私を……王宮へ。帰して、頂けないでしょうか?」
「……」
「……」
「……あの。お手数を、お掛けしますが。出来れば、その前に……服も」
これまで猫の姿で威嚇の声を上げたり、鳥で歌ったりはあったが、人の言葉を話すのはもしかすると始めてかも知れない。
ちゃんと聞こえる様にシャリは頑張ったつもりだが、唐突にゴトルーがもう一人を押し出す形で一緒に部屋から出て行き、扉が閉まった。
そして二人が大急ぎで遠ざかって行く足音が聞こえる。
「……」
どうしよう。
悪い人ではないと思ったのだが、勘違いだったのかも知れないとシャリは不安に思う。
でも鍵は掛けられていないし、ご飯も用意してくれていた。
窓だってあるのだから、魔力さえ戻ればいつでも逃げ出せると考え直す。
外へ出れさえすれば、きっと王宮が見えるはずだから、魔力が溜まるまでの辛抱。
ただ王宮へ帰る時間が遅くなればなるほど、部屋にシャリがいない事で一騒動おきそうだ。
内心はいなくなって清々したと思われてしまいそうだが……。
その時、扉がノックされる。
「……どうぞ」
「失礼いたします」
頭を下げたまま、年嵩の女性が部屋へ入って来た。
手に持っているのは女性用の衣類等一式だ。
たった一人で魔女に近付いて、恐ろしくないのだろうか。
「こちらのお屋敷には未婚の娘がおりませんので、この様な物しかなくて……。これをお召しになられてから、マントを羽織って下さいまし」
申し訳なさそうに、その女性は言ったけれどとんでもない。
確かに襟から靴まで、少し大きそうではある。
しかし落ち着いた色合いできちんと染色がされ、細やかな飾り気もあった。
シャリが普段着ている物よりも断然いい。
「ありがとうございます。とても、……助かります」
「お手伝いいたしましょう」
その自然と言われた言葉にシャリは驚く。
王宮に勤める女官達は決して魔女に触ろうとはしなかった。
服の形状をざっと見て、シャリは答える。
「いえ。大丈夫……です」
「姫様、ご遠慮なさらずに」
「私は姫、ではなく、魔女ですから。服を、着るくらい……」
「……。……それでは部屋の外でお待ちしておりますわね」
何だか魔女である事よりも、一人で着替えられる事に驚かれた気がした。
猫とはいえ、黒をお持ち帰りしたゴトルーといい、今日は奇妙な日だとシャリは思う。
だが、ぼうっとしていては時間が勿体無い。
急いで帰れば夕食の時間には間に合いそうだから、マントを着ている事を不審に思われたとしても、シャリが王宮にいなかった事を、気付かれずに済むかも知れない。
手早く衣服を身に付け、髪だけは見える様に胸へと垂らし、深くフードを被って部屋を出た。
「あの、これ……。それとタオルと、シーツに、土が」
落とされたままの、猫用ご飯にシャリは視線を落とす。
「ゴトルー様の粗相ですもの、姫様がお気になされる必要はございませんよ。さぁ、お急ぎ下さいませ」
「……すみません」
嫌な顔一つせずに答えてくれた年嵩の女性に、シャリはぺこりと頭を下げて、付いて行った。
「姫、こちらへ」
玄関でゴトルーが呼んでいる。
そういえば始めて声を聞いた。
太い喉を通って発せられた響きは静かで低かった。
ゴトルーがシャリに手を伸ばして来て、これを取るべきものなのだろうかと戸惑う。
どうして今日は今まで有り得なかった奇妙な扱いばかりをされるのだ。
シャリの戸惑いをどう思ったか、ゴトルーが言う。
「よろしければ、手を。私は貴女の色など気にならない。そうならば連れて帰ったりはしないでしょう」
「……でも。もし、本当に……呪いが、掛かってしまったら」
「私は眠る貴女を懐に入れましたよ。手ぐらい今更だとは思いませんか?」
「……」
ゴトルーの手のひらの上に指先だけを載せると、そっと握られた。
そして馬車に乗り込むまで、そのままだった。
斜め向かいに座るゴトルーはシャリがつい可笑しくなってしまうくらい、かなり窮屈そうである。
そんな状態にも関わらず、真剣な表情でゴトルーが言った。
「申し訳ない、姫。貴女がいらっしゃらないと、もう王宮で騒ぎになっているはずです」
「まだ、そうとは……?」
「屋敷へ帰る前、私が貴女に使い魔を一匹下さいという手紙を出してしまった」
「……えっ」
シャリは驚いた。
たまに家や領地等で不幸や災害が起こると、それが魔女のせいだと呪いの手紙を寄越して来る者がおり。
その手紙を検閲した者が重い病に掛った事が何度かあった為、シャリへの手紙はそのまま部屋に届く。
だからゴトルーの手紙が誰かに見られる心配はないのだが、使い魔が欲しいなんていう内容の手紙は一度も来た事がない。
「本当にすまない。私があそこで、きちんとお願いを先にしていれば」
「あの、そうではなく。使い魔だと……承知の上で、連れて、帰られたのですか?」
「とても可愛らしく。例え使い魔だろうとも、生き物に対してこんな風に感じるのは初めてで、我慢出来なかった。だから貴女が今の姿で寝台に座っていたのを見て、私は……」
そこでゴトルーは言葉を途切れさせる。
「……がっかりさせてしまい、私の方こそ、すみません」
「……。……いえ」
謝り返したシャリにゴトルーは何か言いたそうにしていたが、返された言葉は短かった。
とにかくゴトルーはシャリを使い魔としか見ていなかったし、更に世間一般から見ればかなり悪い趣味だが、魔でも可愛いと思ってくれた事には違いない。
「……私は。見知らぬ誰かに、攫われた事にします。逃げ出すのに、魔力を使い果たし……彷徨っていた所を、貴方に保護された」
「だが……」
「王宮を……徘徊している、使い魔。が、実は私本人だと知られてしまったら、光も射さない場所に、閉じ込められてしまう……かも知れません。ですから、口裏を合わせて頂けませんか?」
確かに苦しい話だが、誰にも本当の事は分からない。
「王族をかどわかした罪に問われず、私は助かりますが。しかし貴女が何を言われるか」
「ご心配、には及びません。私は魔女ですから、噂の一つぐらい。かえって、……箔が付くくらいです」
何て事はない。
すると馬車がゆっくりと止まった。
「着いた様ですね。ここから王宮まで少々歩きます」
「はい」
王宮の庭の一角で馬や馬車を止め預け、王宮の建物には自らの足で出向かなければならないのが、身分に関わらずの決まりとされている。
こうして元の姿の足で歩くのは初めてだが、それをシャリは知っていた。
「一人で、降りられます。少し離れて、付いて行きますから」
並んで歩いたら、それこそゴトルーが何を言われるか……。
だがゴトルーはシャリに手を伸ばして来た。
「可能な限り、お送りしたい」
「私と、一緒に……顔を広めても、マイナスにしか……」
「そんな事を目的にしてはいないし、辺境にトンボ返りさせられるなら、それで構いません。むしろ王宮勤めよりも私の性に合っている」
確かに、ゴトルーは見るからにそんな感じなのだ……それでも。
これは我儘だと自覚しつつ、シャリは言う。
「魔でもいいと、言ってくれた貴方に。私は……王都にいて欲しいと、願います」
「……願い、ですか?」
「はい。叶えて、下さいますか?」
「……。……分かりました、ここは貴女の仰る通りに」
シャリは内心、ほっと安堵のため息をついた。
本当に長く喋った、と思う。
部屋に戻るとゴトルーからの手紙が届いており、封を開いてみると本当に使い魔云々と書かれている。
誰に見られるか分かったものではないので、すぐ燃やしてしまった。