夢
シャリがいなくなった王宮では本当に些細な変化が起きていた。
王宮で生きていく以上、シャリは自分の身の上がどうなるかといった話がないかを、ただ聞くだけではなく、いつしか我が身に向けられる王宮での不満のとばっちりが少しでも減る様に気を付けていた。
例えば苛立ちや塞いだ気分を抱えた者がいたり、仲の悪い者同士を会わせない様にする為に、鳥の姿で美しく囀ったり、嘴で咥えられる小さな花を一つ落としたりして。
心を静め、慰め、そして気を引いて足止めをしたりし。
実際の気候ではなく、空を見上げては季節を先取りし、細々と備品に気を配って……出入りの商人のものは無理なので、王宮の買い物リストにちょこっと数字なんかを書き加えたり。
そんな具合に。
それらは絶対に必要な事や物ではないし、シャリだって常時気遣えるわけがないので、本当に些細な事だった。
ほんの少し、王宮の空気が悪くなった様な、働き辛くなった様な。
それが王宮から魔女がいなくなって、清々した頃からではなかっただろうかと、王宮で働く者の誰もが口には出さないけれど内心思う様になるのは、もうそろそろ……。
この数日間、シャリは食事以外を部屋に籠って過している。
シャリにちゃんと文字が読めると分かると、ユイナが約束通り地図とそれから観光案内書を数冊持って来てくれたのだ。
地図はこうして手に取って見ても、大まかな方向しか分からない代物だったが、この観光案内書は面白かった。
ゴトルーの話でシャリが興味を持っているのは、温泉だ。
温かいお風呂というのが思いの外、気持ちのいいものだと知ってしまった以上、何もせずにお湯が手に入るというのは非常に魅力的だった。
街一帯が温泉街という非常に賑やかな所もあるらしいけれど、そんな場所にシャリが行けるはずもない。
シャリの目を引いたのは秘湯と呼ばれる温泉で、中には河原の岩の間から湧く湯もあるのだそうな。
湯ばかりでなく、すぐ側に水も流れているなんて一挙両得。
そのうちの一つはターブ地方にあるのだが、別に温泉はそこだけではない。
しかも冬が厳しいらしく、その時期の食べ物を考えるとターブに拘るのは得策ではない様だ。
拠点を何ヵ所も持ったっていいだろう。
季節で移り住んでもいいし、湯の効能とやらで選んだっていい。
持って来てもらった数冊を何度も見比べて、シャリはほくほくだった。
頭の中で世界が広がって、散歩へ行く気にもなれない。
それにカジュ家から出て行く時にこの本は持って行けないのだから、しっかり覚えなくてはならない。
温泉だけではなく、湖や河川の場所も頭の中へ組み込んでおかなくては……。
しかしそんなシャリの熱心ぶりは、カジュ家の面々に心配を掛けてしまったらしい。
「シャリ。そのままの姿というわけにはいかないが、今日王宮へ一緒に行きませんか?」
正直あまり気乗りしなかった。
王宮へ行くくらいなら、外へ出掛けるくらいなら、その分色々覚えたい。
だが体も動かさず、本の内容を頭に詰め込もうとし過ぎて、確かに食欲が落ちているという自覚はあった。
「ゴトルーとは行かない。近くを散歩する」
カジュ家に来てから、シャリは大分スムーズに声を出せる様になっていた。
「今の貴女を一人で外へ出したら、もう少しだけとそのまま遠くへ行ってしまいそうだ。もしくは遠くを夢見ているところを、襲われてしまうか」
「……」
前半部分はユイナとの約束もあるからしないが、後半部分も絶対に有り得ないとは否定出来なかった。
外へ出る時はいつも変化しているので、元の姿ではない方がシャリとしては嬉しいが、でもこの前の鍛錬場での反応を思い出すに、果たしてゴトルーと一緒に行ってしまっていいのだろうか。
「ゴトルー、困らない?」
「この前、見習い騎士達に私は見張られていると言ってしまいましたから」
「じゃあ後ろから付いて行って、隅でこっそり見てる。ゴトルーのお勤めの邪魔はしない」
「私としては早く貴女を連れて、古巣へ帰りたいのだが……」
苦笑いしながら自然に漏れた言葉で、ゴトルーが本当に始めからそうしてくれるつもりだったのだと改めて知る。
シャリはゴトルーにしがみ付き、上を見上げて聞いた。
「……温泉、一緒に入れる?」
「もちろん」
この数日、一人で行く事ばかりを考えていたので、ゴトルーも一緒にという想像はますますワクワク感が増す。
「一緒に行きたいから、やっぱり離れて見てる。ゴトルーは魔女の力を封じてて、使い魔はそんなゴトルーを見張ってる。仲良く側にいたら不可解」
ゴトルーはヤレヤレと肩を竦めた。
けれど、目は笑っていない。
「シャリ。始めてお会い出来た日に、貴女を王宮へ戻してしまった時の様ですね。……今のうちに、もっと触っておきましょうか?」
あの月夜から、ゴトルーはこうしてシャリが元の姿の時にも触る。
キスという言葉も教えてもらった。
「今、朝なのに……。これから、一緒に王宮……んっ」
自分からした時、ゴトルーはそんな風にはならなかったのに。
ゴトルーと唇を重ねて、舌を差し入れられ絡められると、なぜか体がふにゃりと崩れてしまうのだ。
自然その状態になると、心が定まらないせいか変化もし辛くなる。
「私達は新婚なわけですから、これくらい。でもまぁ、続きは夜で……」
最後にぎゅっと強く抱き締められて、ゴトルーの体がシャリから離れた。
馬で家を出たゴトルーにシャリは王宮まで鳥の姿で付いて行き、前回と同じく猫の姿で鍛錬場の隅に降り立った。
この前来た時も思ったが、やはりカジュ家の面々の黒に対する許容は特殊だと、シャリは思わずにはいられない。
王宮にいた頃はシャリがこそこそしていたから、それを遠くから聞いていたものだが……黒だ魔女だ使い魔だというのが普通の反応だろう。
とはいえ、こうしてシャリが目の前にいると、面と向かっては言って来ないが。
大人しく鍛錬の様子を見ていたのだが、ふいにこれまで身体維持に魔力を使っていたという事は、逆に体力を付ければ、その分の魔力を使わずに済むのではないかと思い付いた。
という事はユイナが日々口を酸っぱくして言って来る、食事で肉が付けば魔力が増すというのも、あながちハズレていないのだろう。
本当に肉が付くかはまだお試し段階だが、鍛錬を一緒にやっていけば、体の持久力や筋力なら、魔女でももしかしたら付くかも知れない。
ゴトルーみたいに大きく太く硬い自分……いいなぁ、うん。
そうすれば例え魔力が尽きても、身一つで進んでいける。
じ~っとゴトルーの方を見つめていたら、それに気が付いた本人にそのつもりは全くないだろうが、ギロリと睨み返された。
ゴトルーが王都にいる限り、鍛錬場にはよく来る事になるだろうし、そのたびにただ見ているだけなのも暇だ。
とりあえず準備体操をした後、今行われているその場駆け足を始めてみる。
しばらくして自分の息が見習い騎士達とは違って、少しも乱れていない事にシャリは気付いた。
自分に見習い騎士達よりも体力があるはずない。
ということは、やはり無意識で身体活動の為に魔力を回しているのだろう。
魔力を使わずに体力を付けるには、どうしたらいいのか?
当たり前だが、自分の意思で体を動かしている感覚はあるから、魔力だけで動作が成り立っているわけではないだろう。
つまり本来なら辛くなっている部分を魔力で補って、一見体の状態は変わらずに済んでいるだけ……という事だろうか。
動かさないよりは動かした方がいい、と信じよう。
これも食事と同じ、試みの一つだ。
そうシャリは決めた。
何事もやり過ぎはよくない。
同じ変化の最中でも、ただの散歩とは違って、魔力を消費している感じもある。
元から一日中いるつもりのなかったシャリは昼前に屋敷へと帰った。
そして午後からは部屋に籠る。
たまに様子見でユイナがやって来る以外、午前中に比べると静かだった。
約束通りというよりは、また空から王都見学なんて事にならない様、シャリの暇を潰す為の観光案内書だったのですが。
予想以上の、のめり込みに焦ってます。