満月
真夜中、誰かに呼ばれた気がして、シャリはぽっかりと意識を浮上させた。
今度こそゴトルーの目を覚まさない様に、そうっとそうっと注意を払いつつ、シャリは上体を起こすだけでなく、寝台からも下りる。
シャリを呼んだのは月だったのだろうか?
空を見上げると、まるで待ってくれていたかの様に輝いていた。
そういえばカジュ家に来てからというもの、ゴトルーの手で朝まで眠ってしまうので、こうして月に照らされる時間がかなり減っている……にも関わらず、長時間の変化が出来ていた。
ユイナに試してみましょうと言われた時、あまり意味がないだろうと思っていた食事の量を増やす事。
それから、もしかするとシャリは王宮では深く眠れていなかったのかも知れない。
外見的には変わっていないが、これまで無意識に身体の生命維持へ回していた魔力を使わずに済んでいる。
考えるとそんな気がした。
つまり魔力の容量が増えたとしても、食事と睡眠が元に戻れば、変化時間も前とそう変わらなくなるに違いない。
それでもシャリは生きていくのだが……。
魔力を充足させ、シャリは眠るゴトルーの横へ戻った。
せっかくこうして目が覚めたのだから、前に猫の姿では分からなかった事を試したくなったのだ。
王宮の庭でした時は、ゴトルーに剣呑な顔をされたので、もしそうする事で起こしてしまったら同じ表情を浮かべられてしまうだろうが、せっかくの機会だ。
シャリはゴトルーの手に触れた。
規則的に行われている寝息だけに注意しつつ、全ての指の縁をなぞってみる。
シャリのものとは違う、太く硬い節。
皮も爪も、シャリの様にカサカサとしてはいないが、柔らかいという言葉とは正反対に出来ている。
舐めたら起きてしまうだろうかとも思ったが、結局実際の行動に移した。
まずはゴトルーの指先をペロペロと。
目が覚めないと分かり、次いで指の付け根まで辿り、それから猫の姿の時にもした様に、ゆっくりと口に含んでみる。
王宮の庭でもらった小さな砂糖菓子を舐めるみたいに、舌で味わおうとした。
……が、結局分からず仕舞いだった。
月の光を浴びて、今の時点ではこれ以上の魔力を有せない状態でこうしたのに、やっぱり何も感じられない。
それとも見方の方法が間違っているのか……。
シャリはゴトルーの指を舐めるのを止めて、眠る顔を見つめる。
この口でゴトルーはシャリと呼ぶ。
残念ながらカジュ家の面々の中でも、そう呼んでくれるのはゴトルーだけだ。
「その様な悲しそうなお顔をなされても、わたくしには……」
「旦那様が恐ろしいもので……」
「お仕えしている身ですからな……」
こんな具合に首を横に振られ、短く呼んでくれる様にはなったのだが、様付けを止めてもらうのは無理らしい。
黒を気にしないカジュ家の面々がこうなのだから、きっとこの先もゴトルーしか名を呼んでくれる人はいないかも知れない。
ここを出る事になったら、その一人もいなくなる。
今はまだ大丈夫だ。
けれど後十年、そして二十年経っても、まだ一人だったら……。
考えても仕方のない寂しさに捕まりそうになって、シャリはゴトルーの唇に指の腹で触れてみた。
始めて呼ばれた時、ただ嬉しかった。
心に灯が燈される気持ちは残っている。
それからその後、ゴトルーの手と同じで眠たくなる効能があるのも知って。
更にたぶんゴトルーが怒っている時に呼ばれたら、今まで以上に怖いと感じる日も来るだろうとシャリは思う。
指へそうした様に舐めてみようか、と考えて顔を近付け……止めた。
きっとどこを舐めても、ゴトルーから魔力は感じられない。
灯が燈って、眠たくなって、例えゴトルー自身が自己申告通りに魔の属性でも。
どんなに期待しても、ゴトルーは人間でシャリと同じモノではない。
シャリはゴトルーの唇から指を離した。
身にある魔力は充分だが、心から寂しさは抜けてくれない。
こんな夜は寝るに限る!
とシャリが横になろうとした時、名を呼ばれた。
「シャリ。遠慮せずに、唇も舐めて構いませんよ」
「ッッ!」
唇も、という事は指を舐めていたのにも気付いていたのだろうか。
寝息はずっと変わらなかったというのに。
「ゴトルー、今度は……怒らない? また起こして、しまって。ごめんなさい」
「今度は? あぁ……王宮での庭の事ですね? あの時は人の気も知らずに、こんな事をする貴女を少々恨めしく思いましたが、こうして一緒にいられる今は怒りませんし、いくらでもお好きなだけどうぞ」
シャリからの謝罪はアッサリ流され、これで晴れてゴトルーの許可も下りたわけだが……。
「もう、舐めない。ゴトルーに、魔力がないか……見たかっただけ」
「ない、でしょう。……もし、あったなら舐め取ろうとするのですか?」
その言葉にシャリの方が驚いて、首を横に振った。
「そういうものではないのか。それは良かった」
「良かった……?」
「私以外は舐めて欲しくないもので。今まで私以外に誰か……?」
「黒を、近付けようとしたのは。ゴトルーしかいない」
シャリは触れたり、舐めたりしてみた理由を説明した。
「なるほど。シャリ……私に魔力はありませんが、力を持っているとするならば、貴女への愛ですね。愛の力は何物にも勝るそうですから?」
いつもなら聞き流している言葉なのだが、始めに名前を呼ばれたせいで、どうにも注意を引き寄せられてしまい、シャリはしっかり聞いてしまった。
ゴトルーの外見に全くそぐわないその言葉は、やはり魔女に対するものとしては非常に勿体無く。
けれど確かに自分へと向けられた言葉に違いなくて、勿体無いという以外の気持ちが体中にぼわっと広がったのを感じた。
本当? それとも嘘? 疑わしい、信じてる。嬉しい? 照れ? 感謝? 恥ずかしい?
的確な言葉に変換出来なかったその感情は、そのまま体をなぜか熱くさせた。
「シャリ」
「……っ?」
そんな時にそれを悪化させるかの様な声音で名を呼ばれ、シャリはうろたえる。
「舐めて下さい。貴女になら、愛を感じ取れるかも知れませんよ? ほら、シャリ。私の上に跨って……、そうそう」
月に呼ばれた気がして目が覚めて、その月光の青の瞳に唆されるままに、シャリはゴトルーの唇を舐めてみた。
上唇を舐め、下唇も舐め、自分の唇を使って食んでみるが、やっぱり分からない。
でも分かる事を期待してはいなかったし、始めから唆されただけで、分かる事が目的でもなかった。
だから寂しさは感じない。
ゴトルーの顔を見下ろしているうちに、魔力とか愛の力なんてものを探るのとは全く関係なく、シャリは触ってみたくなっていた。
ぺたぺたなでなで……。
ゴトルーの髪と額、頬、耳、顔の輪郭。
眉毛に、瞼、鼻。
そしてまた唇に戻る。
シャリは王宮で何度か見た事のある、光景を思い出していた。
「ゴトルー、好き。大好き」
本当は人間同士がするものなのだろうが、シャリはゴトルーの唇に自分のものを重ねた。
もしかしたら本当にずっとここにいてもいいかもと、期待するのは止めておいた方が無難だけれど。
ここにいたいなとこっそり思うくらいなら、許されるかなと思う。
たぶん力を探る為の行為じゃないと気付いたのだろう、ゴトルーの表情が変わっていた。
でも、この強張った顔は驚いた時のゴトルーの表情。
だから大丈夫だと、もう一度口付けた。
ゴトルーの独占欲は臆面なしです。