母の家を売る前に、婚約が終わった
冷たい風がリューゼナの手首を掠めた。母の椅子のすぐ後ろで、閉めたはずの窓が口を開けている。
「お母様、少しだけ動かないで」
留め具を指で押した。裏返っていた金具を戻すと、窓は今度こそ閉まった。母は本を開いたまま、肩だけを娘へ寄せてくる。
「これで続きが読めるわ。ありがとう」
擦れた表紙が手に当たるのか、母が指を持ち替えた。リューゼナは脱いだ手袋を折り、表紙に添えて渡した。
扉の方から、小さな拍手が来た。
「君は本当に、お母上を一人にできないんだね」
訪ねてきたヴェルマーは、彼女が椅子を引くより早く座った。
「結婚したら、お母上も連れてくるといい。うちの離れが空いているよ」
離れなら、母も好きなだけ本を広げられる。結婚しても近くで暮らせるのは嬉しい。リューゼナは母を振り返ろうとした。
「その代わり、この家を僕に売ってくれないかな。セルマが気に入っていてね」
母の指が、頁の間から抜けた。
「セルマ様が、こちらへ?」
「親元を出たいそうなんだよ。僕の家からも近いだろう。広すぎないし、庭も手入れが行き届いている」
指輪の石が椅子に触れた。こつ、と小さく鳴った音に、リューゼナは左手を膝へ戻した。
この小屋敷は父の遺産を分けた際に、自分が相続したものだった。婚資に入れる話はしていない。母の暮らしが変わるとも思っていなかった。
「買値はきちんと払うよ。夫人のお荷物も僕の方で運ばせるから、君が困ることはないね」
「ありがたいお話ですけれど……」
礼を言えば、すぐ次の返事も求められる。母の本へ目をやった。開いた頁の端が、膝の上で少したわんでいる。
「お返事は、待っていただけますか」
「君の家だろう? お母上のことは僕も考えているよ」
「母が暮らしている家ですので。母とも話したいのです」
ヴェルマーは背を椅子に預けた。
「分かったよ。セルマには、まだ返事を待っていると伝えよう」
彼が帰ったあと、母は本の向きを直した。続きを読もうとしていたはずの指が、今度は表紙を撫でている。
「お母様。どちらまでお読みになったの?」
「せっかく旅に出た主人公が、帽子を忘れて戻ったところよ」
母は笑った。リューゼナも笑いかけたが、本は開かれなかった。
翌日、リューゼナは母に頼まれた本を返しに出かけた。近所で貸し借りしている本で、持ち主へ渡せば、寄り道せず帰るつもりだった。
収穫祭の広場に行き当たるまでは。
焼いた林檎の甘い匂いが、冷えた頬にまとわりついた。屋台の軒に束ねた麦が揺れている。その下で、見覚えのある男が袖口を丁寧に折っていた。
「ディートラン様?」
隣家の次男が顔を上げた。母同士の付き合いで顔を合わせることはあったが、いつもは本を届けたり、門前で挨拶をしたりするだけだった。
彼の足元には、外れた木の輪が転がっている。
「リューゼナ様。ちょうどよかった。今のは、ご覧になりました?」
「袖を折っていらしたところなら」
「それなら、まだ間に合いますね」
何に間に合うのかと聞く前に、彼は輪を取って投げた。棒の上を大きく飛び越え、敷布の端へ落ちる。
リューゼナは彼の折った袖を見た。
「先ほども、そちらへ?」
「先ほどは袖が引っ掛かったんです。今のは、折った分だけ腕が軽くなって」
「次は何が起こるのかしら」
口にしてから、はっとした。相手の失敗を数えるつもりなどなかったのに。
ディートランは輪を彼女へ差し出した。
「一緒に確かめていただけませんか。僕だけでは、なかなか分からなくて」
断ろうとした手に、輪の滑らかな縁が触れた。楽しみに買い物へ出た母を待たせる用事もない。リューゼナは店先へ銅貨を置いた。
棒を狙い、腕を上げる。袖が手首へ落ちてきた。
輪は棒の手前で跳ねた。
隣でディートランの唇が内側へ引っ込んだ。
「お笑いになるのなら、どうぞ」
「いえ。袖は、本当に引っ掛かるんですね」
「わたくしの場合は本当です」
「僕の場合もですよ」
今度はリューゼナが笑ってしまった。笑うと腹に力が入らず、次の輪を取り落とした。しゃがんで拾う彼と、指が同じ木の縁を掴む。
彼が手を緩めたので、輪は彼女の手に残った。
「最後の一投ですね。どちらが先に入れるか、勝負にしませんか」
「勝ったら、どうなります?」
問いながら、リューゼナは彼の折った袖を指した。
「負けた方は、言い訳を一つ聞くのでは?」
「それはもう、ずいぶん聞いていただいた気がします」
結局どちらも入らなかった。ディートランが外した輪を戻し、彼女へ帽子を取って挨拶しかける。
リューゼナは、店主が引き出しへしまいかけた輪を見た。
「もう一度だけ、お付き合いいただけません?」
帽子を胸に置いたまま、彼は笑った。
「僕も、そうお願いしようかと」
帰る頃には指先が冷えきっていた。手袋は母の本に添えたままだった。それでも手のひらには、木を握った丸い当たりが残っていた。
婚約指輪をもらった日は、ヴェルマーと庭で茶を飲んだ。
あれは、まだ父の喪が明けて間もない春のことだった。リューゼナは茶碗を持つたび、指を傾けて石の光を確かめた。
「お二人で使う居間には、どんな椅子を置きましょう」
「君が好きなのを選ぶといいよ」
「それなら、背の低いものを。向かい合っている顔が隠れませんから」
「そんなに僕を眺めたいのかな」
からかわれて、茶碗の縁が唇に当たった。返す言葉を考えている間に、彼が笑った。
その笑顔と一緒に暮らすのだと思っていた。
だが、婚約後の茶会にセルマが来るようになった。初めて紹介された時は、昔からの幼馴染だと聞いた。
雨が降った晩にヴェルマーが彼女を送っていったこともある。リューゼナはそのあとで知った。
「わたくしには、何も仰らなかったのですね」
次に会った時、どうにかそう尋ねた。
「昔からのことだよ。雨の中、一人で帰すわけにもいかないだろう?」
「それは、そうですけれど」
「君は僕の妻になるんだから。これから先は、いつでも会えるじゃないか」
妻になる。幼馴染とは違うのだと、その言葉を何度もなぞった。せっかく寄せてもらった婚約の話を、寂しかったというだけで曇らせたくなかった。
秋になった今も、指輪は同じところにある。
リューゼナは自分の部屋で手紙を広げた。家の話の続きをしたいとヴェルマーに送った手紙への返事だった。セルマと一緒に来るという。彼女は寝室を見たいそうだ、と添えてあった。
約束の日には、母が近所の知人を訪ねる予定だった。
向こうが決めた刻限へ合わせて、自分だけが家で二人を迎える。そう書こうとしたペンが、紙の上で止まった。
母がいない間に、母の寝室を見せるのか。
閉じた扉の前に立ち、どちらの手で開ければよいのか考えた。母は朝、この部屋で髪を梳く。窓のそばの小卓へ肘をついて、庭へ来る鳥を眺める。父を亡くした頃、食事の席へ出られなかった母が、ようやく朝食を取りたいと言った部屋でもある。
家を売ってもよいと、一度も答えていない。
ペン先の墨が丸く膨らんだ。リューゼナは紙を替えた。
母は椅子の肘掛けを拭いていた。父が倒した燭台の跡に、磨き布が引っ掛かる。
「お母様は、ここに住んでいたいですか」
母の手が止まった。
「ええ。好きな本屋も近いし、庭には来年も球根を植えたいわ」
言ってから、母は布を畳んだ。
「でも、わたしのせいであなたの結婚が難しくなるのなら——」
「先に、お母様のお話を聞かせてください」
リューゼナは母の隣へ腰掛けた。布で磨いた木が、掌にまだ湿っていた。
父を亡くしたあと、二人ともこの家を出る話をしなかった。外へ出たくない日には、代わりに林檎を選んできた。母が庭へ出るようになると、自分も花鋏を持ち出した。今では母が一人で買い物に行き、自分の留守にも本を読んで笑う。
「こちらで暮らすのが好きよ。あなたの帰りを待つだけではないの。でも、あちらへ移る方があなたは安心でしょう?」
「近くにいられたら嬉しいと思いました。けれど、お母様はこちらで暮らしたいのですね」
「そうね。わがままを言ってもいいのなら」
母が畳んだ布に手を載せた。頼まれていないのに、リューゼナはそれを受け取りかけていた。手を戻し、机に用意した便箋を引き寄せる。
「お母様にも、次の話にいていただきたいです。ヴェルマー様とセルマ様にも、そうお伝えします」
「わたしから、お断りするの?」
「わたくしからお返事をします。お母様がここにお住みなのに、いない間に決めたくありません」
母は少し考えたあと、訪問の予定を替えると答えた。
リューゼナは手紙を書いた。すぐに寝室を案内するとは記さなかった。売るとはまだ決めていないことを、今度は書き落とさなかった。
祭りの最終日、リューゼナは広場へ足を向けた。
母への土産を買うのなら、家の近くの菓子屋でもよかった。それなのに空になった屋台が見えると、歩みが速くなった。
輪投げの店はまだあった。その前で、ディートランが輪の縁を指でこすっていた。
「今日は、袖のせいにはできませんね」
声をかけると、彼は自分の短い袖口を見せてきた。
「用心しましたから。リューゼナ様は?」
「こちらも、今日は引っ掛かりません」
素手のまま、袖を引いてみせる。前の失敗を二人とも覚えていたのが可笑しかった。彼は持っていた輪を差し出し、彼女が受け取るのを待った。
輪は棒の根元へ落ちた。縁が跳ね上がり、もう一度まわって、今度は棒を囲んで止まった。
リューゼナは次の輪を握ったまま、動けなくなった。
「入りましたね」
「まだ、動くかもしれません」
ディートランが棒を見た。彼女も見た。輪はもう跳ねなかった。
「わたくしの勝ちです」
「ええ。言い訳をお聞きしようと思っていたのに」
そう返されると、ようやく笑えた。上げた腕の袖が肘まで落ちたが、今度はそのせいにしなくてよかった。
彼は棒から輪を抜き、店主の籠へ戻した。リューゼナも手に残った輪を返した。勝負はついた。袖を直し、帰りの挨拶をすればよかった。
「もう一つ、よろしいでしょうか」
彼が籠へ伸ばしかけた手を、彼女は慌てて止めた。
「輪ではありません。次は、あなたと町を歩いてみたいです」
言ってから、自分が彼の隣へ足を出していたことに気づいた。袖を押さえた左手に、指輪の石が当たる。
まだ、この人を誘える身ではなかった。
「……いえ。今、お約束はできません」
ディートランは籠から手を離した。
「分かりました。今日は、こちらで」
帽子を取った彼へ、リューゼナも挨拶を返した。次の日も、その次の日も、二人は決めなかった。
店を離れてから振り返った。彼はまだその場にいて、帽子を持ち直した。
リューゼナは左手を胸元へ寄せた。指輪の石が布を押す。勝ったのに足取りは軽くならず、さっき隣へ出した一歩ばかりが思い出された。
話合いの日、椅子の肘掛けの傷を、リューゼナは親指でなぞった。父が倒した燭台の跡。母は今も、ここに座って本を読む。
窓の留め具はきちんとはまっていた。指で確かめてから、二人の客を迎えた。
「セルマが越してくるまでには、お母上のお荷物を運び出してほしいんだ」
ヴェルマーは卓上に家の絵を広げた。
セルマが窓際の部屋を指した。母の寝室だった。
「ここを寝室にしたいの。朝の光が入るでしょう?」
母の膝で、開いていた本が閉じられた。
「家を買うのは、あなたではなかったのですか」
「僕が払うよ。セルマが住むだけだ」
「お二人は、どういうおつもりで?」
ヴェルマーはセルマの手に自分の手を重ねた。
「セルマは僕の恋人だ。昔からの付き合いなんだよ。君と結婚するからって、放り出せないだろう」
リューゼナは重なった手を見た。茶会では、幼馴染だからと紹介された。雨の夜に彼が送っていったことも、その後で聞かされた。
「わたくしと結婚してからも、ですか」
「だから家を分けるんだ。君には子爵夫人として、母屋にいてもらう。お母上にも離れを用意するよ」
「こちらで暮らすことはできないのね」
母の声に、彼は気遣うように頷いた。
「もちろん、いつでも遊びに来られます」
セルマが困った顔をした。
「でも、先に知らせていただけると助かります。彼が来る日もありますから」
母は本を抱えて立ち上がった。リューゼナは袖を引かず、その手に触れた。
「お母様。まだ、お客様のお話は終わっておりません」
売ると答えていない家から、母を退かせるところだった。
彼女は自分の椅子を母の隣へ寄せた。
「この家は、お売りしません」
セルマがヴェルマーを見た。
「もうこちらへ越すと、父に話したのよ」
「リューゼナ。君の結婚で、お母上を一人にしないためにも考えたんだよ。家を売るのが嫌なら、セルマには貸して——」
「あなたの恋人を住まわせるために、母を引っ越させません」
「それなら、僕たちはどうするんだ」
彼女は指輪を抜いた。指のつけ根に、白い跡が残った。
「婚約を解消してください」
「家を売る話をやめれば、いいんだろう?」
ヴェルマーが絵を畳もうとした。セルマは、その端を押さえたまま彼の顔を見上げていた。
母屋。離れ。この家。
彼の指が示していたどこにも、二人で向かい合う椅子はなかった。
「わたくしは、あなたの妻にはなりたくありません」
彼の手が止まった。
リューゼナは指輪を、彼の開いた手へ返した。握ろうとしてきた指から、自分の手を抜く。
肘掛けに母の手が戻った。母は腰を下ろし、膝へ本を置き直した。
「続きは、ここで読みたいですね」
しおりを抜いた母の指が、さっきの頁を開いた。
ヴェルマーが帰る前に、リューゼナはもう一度解消の返事を求めた。
「両家へ、婚約を解消するとお知らせします。ヴェルマー様も、了承されたとお伝えしてよろしいですか」
「少し考え直してくれないか。僕は、二人とも困らないように——」
「わたくしはこの結婚を望みません。家のお話を戻していただいても、お返事は変わりません」
彼は指輪を握ったままセルマを見た。彼女も立ち上がったが、彼の腕へ手を添えることはしなかった。
「……分かったよ。婚約を解消しよう。僕からも父に知らせる」
「それでは、そのように」
扉が閉まってから、リューゼナはようやく椅子へ座った。
指輪の跡をこすると、少しひりついた。今朝まで妻になるつもりでいた相手だった。母の隣に座ったまま、向かいの空いた椅子を見た。
母は続きを急かさず、本を膝で閉じずに待っていた。
「今夜は、お母様のお部屋で休んでもいいですか」
「もちろんよ。夕食は何がいいかしら」
「温かいものを。お母様と一緒に食べたいです」
母の手が、指輪のなくなった手を包んだ。
両家への書状は、翌朝使者に託した。母と暮らす家を売る話も、婚約を続ける話も、もうしないと書いた。ヴェルマーの了承を添え、リューゼナ自身も署名した。
数日後には、両家から解消を受け取ったとの返書が届いた。ヴェルマーも父へ伝えたと書いてよこした。その便りをしまってから、彼女は母の家を出た。
隣家の門へ手を掛ける前に、リューゼナは袖口を引き延ばした。まだ、入ってもいない。
庭にいたディートランが先に気づき、門を開けに来た。
「今日は、お母様のご用ではありません」
「では、僕に?」
頷くと、彼は門を開けたまま動かなくなった。
「通していただけます?」
「ああ、すみません。そう言っていらしてくださるとは、思っていなくて」
彼女は敷石へ一歩入った。庭の隅に、祭りで見たのと似た木の棒が立っている。
「お一人で練習を?」
「そのつもりでした。けれど、お顔を見たら先に一緒に歩きたくなりました」
「練習よりも?」
「ええ。また会えたのに、足元ばかり見ていたくありません」
リューゼナは棒へ目を戻した。抜け駆けを責めるつもりで来たわけでもないのに、少し惜しかった。
「……明日は、わたくしも練習いたしますから」
彼が笑って隣へ来た。二人で門を出てから、行き先をまだ決めていないことに気づいた。
「その前に、お伝えしたいことがあるのです」
リューゼナは足を止めた。ヴェルマーとの婚約を解消し、両家へも知らせ終えたことを話した。
ディートランは帽子の縁を持ったまま聞いていた。
「ですから今日、わたくしが会いたくて来たのは」
顔が熱くなった。輪投げでは、笑わせる相手を責められたのに。今は一人で赤くなっている。
「あなたです」
「僕も、お会いしたかったです。祭りが終わってから、ずっと」
帽子を持つ彼の手まで赤い。リューゼナは、その手に自分の指を添えた。
「明日も、こちらへ来てよろしいでしょうか」
「僕からも伺いたいです。明日は、迎えに行っても?」
遠くまで歩こうと二人で決めたのに、その日は町の角へ着くたび話の続きができた。家へ戻った時、母には土産を買い忘れた。
話を聞いた母が笑うので、リューゼナは明日は忘れないと約束した。
庭の土が朝ごとに硬くなる頃、ディートランは輪投げが上手になった。
リューゼナは彼の庭で輪を握り直した。掌にすっぽり収まるようになった木の丸みが、少し憎らしい。
「お一人での練習が、多すぎるのではありません?」
「一緒にいる時に練習をすると、ついお話をしてしまうので」
「わたくしに勝つためのお話では?」
「困りましたね。黙っていても、そう仰る気がします」
リューゼナは彼に背を向けて投げた。
輪は棒の脇を掠めた。続けて投げられた彼の輪は、棒のまわりへ滑り落ちた。
彼女の輪は、土の上で横倒しになっている。
「見なかったことには、なりませんか」
「もうご覧になったのでは?」
「わたくしが外した方をです」
彼は転がった輪を拾い、土を払った。
輪を差し出したまま、彼は投げる位置へ戻らなかった。
「先に、お話ししてもよろしいでしょうか」
「勝負の途中ですのに?」
「門を閉めてからでは、また言いそびれそうで。今日も帰っていただくのが惜しくなりました」
リューゼナは輪を受け取り損ねた。彼が落とさず、そのまま二人で持つ形になった。
「これからは、一緒に暮らしたいです。僕と、結婚していただけませんか」
返事をしなくては。けれど、急いで整えなくても、この人は待ってくれる。
彼女は輪から手を離し、空いた彼の手を取った。
「はい。わたくしも、あなたと暮らしたいです」
彼は大きく息を吐き、握った手へ額を近づけかけた。片手にまだ輪があった。
「それは、置いてもよろしいのでは?」
言い終えるより早く、彼は輪を草の上へ置いた。
両手で包まれてから、リューゼナはようやく笑った。彼も、あの輪投げの店で見た笑い方をした。
「名前で、お呼びしてもよろしいでしょうか」
「今も呼んでくださっているのでは?」
「様を取って。リューゼナと」
頷くと、彼はすぐには言わなかった。繋いだ手の内側が熱くなる。待ちきれなくて顔を上げた時、初めてその名だけが唇からこぼれた。
「リューゼナ」
彼女は、もう片方の手もしっかり握った。
母に結婚の話をした日も、窓はきちんと閉まっていた。
母は椅子から立たずに本を卓へ置き、庭での出来事を最後まで聞いた。
「では、輪投げのお店も祝宴に呼ばなくてはね」
「お母様まで。あの方は、もう十分にお上手なのですよ」
「あなたも練習するのでしょう?」
笑う母に、リューゼナはあえて答えなかった。明日は彼の投げる位置から、もう少し離れたところで試そうと思っている。
迎えの馬車が止まった。母は本に挟んであった手袋を取り、娘の両手へ重ねた。
「今日は、あなたが使ってね。わたしはここで続きを読んでいるわ」
表紙の擦れた角には、柔らかな布が被せてあった。母が自分で縫ったものだった。
リューゼナは手袋へ指を通した。外へ出ると、冷たい風が手首を掠めた。袖を押さえるより早く、迎えに出た彼の手が重なる。
彼女はその手を取り、馬車へ足を掛けた。
重ねた手袋の袖口が、風の中へふくらんだ。




