「ただの幼なじみ」と言い続けた騎士団長が、私の縁談の席に乗り込んできました
縁談の相手は、侯爵家の次男だった。
クラレンス・モートン様。社交界では「銀の貴公子」と呼ばれる方で、淡い金の髪と甘い声と、それから途切れることのない噂話で有名な人だ。
そんな方が、どうして私に。
鏡の前で、私――リディア・アッシュフォードは、今朝から何度目かもわからない溜め息をついた。
鏡に映っているのは、いつもどおりの私だ。くすんだ亜麻色の髪に、灰色がかった茶色の瞳。顔立ちは「悪くはない」程度で、背も高くも低くもない。夜会に出れば必ず壁際に立つことになるので、口さがない方々からは「アッシュフォード家の壁紙」なんて呼ばれている。
(壁の花、ならまだ可愛げがあるのに。壁紙って……)
二十二歳。貴族の令嬢としては、そろそろ陰で「行き遅れ」と囁かれはじめる年齢だ。
「お嬢様、今日は思い切って、こちらの青いドレスにいたしましょう」
侍女のベティが、衣装棚から鮮やかな青のドレスを引っ張り出してくる。
「ベティ、それはちょっと派手すぎない?」
「派手なくらいがちょうどいいんです。お嬢様はいつも灰色だの茶色だの、木の皮みたいなお色ばかりお選びになるんですから」
「木の皮……」
壁紙の次は木の皮。私の印象とは、いったい。
結局、ベティの熱意に押し切られて、私は青いドレスに袖を通した。鏡の中の私は、ドレスにすっかり負けている。それでも、ベティが満足そうに頷いているので、何も言わないことにした。
モートン侯爵家からの縁談を、父は「会うだけ会ってみなさい」と言って私に渡した。
理由なら、私にもわかっている。
アッシュフォード伯爵家の領地には、小さいけれど質のいい銀の鉱山がある。最近、そこから新しい鉱脈が見つかったのだ。モートン家が欲しいのは、私ではなく、私についてくる鉱山のほうだろう。
(それでも、いいと思ったのよね)
政略結婚なんて、貴族の娘ならあたりまえのことだ。愛されなくても、大切にされなくても、家の役に立てるならそれでいい。
それに――もう、待つのはやめにしたかった。
待つ、なんて言葉を使うのもおかしな話だ。だって私は、誰とも何も約束していないのだから。
ふと窓の外へ目をやると、遠く王城の尖塔が見えた。その隣には、王国騎士団の本部がある。
ライオネル・ブライト。
王国騎士団の団長で、「黒獅子」と呼ばれる英雄。
そして、私の――ただの、幼なじみ。
ライルは、父の護衛騎士の息子だった。
アッシュフォード家の領地で、私たちは兄妹のように育った。五つ年上の彼は、木登りの下手な私を何度も枝から下ろしてくれたし、雷が怖いと泣く私の隣で、嵐が過ぎるまで黙って座っていてくれた。
「リディ、泣くな。雷は、俺が斬ってやるから」
「……雷って、斬れるの?」
「斬れる。たぶん」
たぶん、と言いながら、ライルは木の枝を剣のように構えて、窓の外をにらんでいた。そのおかしな背中を見ているうちに、私はいつも泣きやんでしまうのだった。
あの頃の私は、本気で信じていた。大きくなったら、ライルのお嫁さんになるのだと。
でも、それは子どもの夢だった。
伯爵家の娘と、平民の騎士の息子。どれだけ仲がよくても、私たちのあいだには越えられない線が引かれている。それを知ったのは、私が十二の年――ライルが十七で、王都の騎士団へ入ると決めた年だった。
「行っちゃうの?」
「ああ」
「帰ってくる?」
「……わからない」
旅立ちの前日、私は一晩かけて刺繍をしたハンカチを、ライルに押しつけた。
図案は獅子だった。強くて、勇ましくて、ライルを守ってくれるように。そう願って針を動かしたはずなのに、出来上がったのは、どう見ても丸っこい猫だった。
「……これは、猫か?」
「獅子よ!」
「そうか。獅子か」
ライルは真顔で頷いて、ハンカチを丁寧に畳み、胸の内ポケットにしまった。
「大事にする」
それが、私たちのあいだで交わされた、いちばん約束に近い言葉だったと思う。
それから十年。
ライルは、信じられないような早さで出世していった。
入団して三年で、北の砦の防衛戦で名を上げた。二十三で副団長。二十五で、史上最年少の騎士団長。今年の春からは北方の国境へ遠征していて、長く続いた小競り合いを、ついに終わらせたと聞いている。
王都の令嬢たちは、みんな彼に夢中だ。
黒髪に、鋼のような灰色の瞳。無口で、笑わなくて、けれど誰にでも礼儀正しい。そんな騎士団長に恋をしない令嬢のほうが珍しい。
そして、彼が私の幼なじみだと知った方々は、決まってこう尋ねる。
「ブライト団長と、アッシュフォード伯爵令嬢は、どういうご関係ですの?」
そのたびに、ライルは顔色ひとつ変えずに答えるのだ。
「ただの幼なじみです」
一度や二度ではない。夜会でも、園遊会でも、王宮の廊下ですれ違ったときでさえ。
ただの幼なじみ。
ただの。
(わかってるわよ。何度も言わなくたって)
いちばん堪えたのは、三年前の夜会だった。
騎士団長に就任したお祝いを言いたくて、私は勇気を振り絞ってライルに近づいた。何年ぶりかに、ちゃんと顔を見て話せると思った。
「ライル、団長就任おめでとう」
彼は一瞬だけ目を見開いて、それから、すっと視線を逸らした。
すぐそばにいた侯爵令嬢が、扇で口元を隠して笑う。
「まあ、団長様。こちらのご令嬢とはお親しいの?」
「……ただの幼なじみです」
ライルは低い声でそう言って、私に向き直った。
「祝いの言葉、ありがとうございます。アッシュフォード嬢。……それでは」
アッシュフォード嬢。
昔は「リディ」と呼んでくれていたのに。
去っていく背中を見送ったあと、私は庭園の暗がりで、ひとりで泣いた。泣いて、泣いて、そして決めたのだ。
もう、期待するのはやめよう、と。
彼にとって私は、ただの幼なじみ。故郷に置いてきた、昔の知り合い。
それなのに、三年経っても、私は誰の求婚も受けられなかった。そもそも求婚してくる方がほとんどいなかった、というのもあるけれど。
(だから、今日で終わりにするの)
鏡の中の、青いドレスに負けている私に向かって、心の中でそう言い聞かせた。
見合いの場所は、王都でいちばん格式の高い茶館「翡翠亭」の、奥の個室だった。
大きな窓からは手入れの行き届いた中庭が見え、テーブルには白磁の茶器と、宝石のような焼き菓子が並んでいる。
私の隣には父と母。向かいには、クラレンス様とモートン侯爵夫人。
「やあ、リディア嬢。噂どおり、控えめで慎ましいお嬢さんだ」
クラレンス様は、にこやかに微笑んだ。噂どおりの甘い声だった。
(控えめで慎ましい。つまり地味ってことですね)
心の中でだけ訂正して、私は淑女らしく微笑み返した。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「いやいや。僕のほうこそ、楽しみにしていたんですよ」
それから一時間ほど、クラレンス様はほとんどひとりで話し続けた。
自分が今季の狩猟大会で三位だったこと。新しく仕立てた馬車のこと。王太子殿下の茶会に招かれたこと。
そして、話は少しずつ、うちの領地のほうへ寄っていく。
「アッシュフォード領の銀山は、新しい鉱脈が出たそうですね。いや、素晴らしい。あれほどの資源を、もっと効率よく活かせば、きっと伯爵家も潤うことでしょう」
「……はあ」
「我が家には商会との繋がりもありますからね。結婚すれば、そのあたりはすべて僕に任せてくれればいい」
父が、紅茶のカップを持ったまま、窓のほうへ目をやった。
さっきから、父は何度も窓の外を気にしている。時計塔の鐘が鳴るたびに、かすかに眉を寄せるのだ。
(お父様、どうしたのかしら)
「それにね、リディア嬢」
クラレンス様が、こちらへ身を乗り出した。
「僕は、妻にあまり多くは求めないつもりなんです。華やかな社交は、僕がひとりでこなせばいい。あなたは屋敷で静かに過ごしてくれれば、それで十分です」
それは、たぶん、優しさのつもりなのだろう。
でも私には、「お前は表に出てくるな」と聞こえた。
「地味な妻のほうが、かえって家は安定するものですから。ねえ、母上」
「ええ、そうね。派手な嫁は、なにかと面倒ですもの」
侯爵夫人が、上品に笑う。
母の笑顔が、ほんの少しだけ固まったのがわかった。
(……いいのよ。最初から、わかっていたことだもの)
私は膝の上で、そっと手を握りしめた。
政略結婚なのだから。望まれているのは私じゃなくて、銀山なのだから。
それでも――。
脳裏をよぎったのは、ずっと昔の、雷の夜だった。木の枝を構えて、窓の外をにらんでいた、少年の背中。
(だめ。もう考えないって、決めたのに)
「では、話もまとまりそうですし」
クラレンス様が、満足げに手を叩いた。
「婚約の書面は、後日あらためて――」
そのときだった。
廊下のほうで、なにかがぶつかるような大きな音がした。
続いて、店の者たちの慌てた声。
「お、お待ちください! こちらは貸し切りの――」
「お客様、困ります! お客様!」
重たい足音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。
そして、個室の扉が、勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、旅装の騎士だった。
黒い外套は土埃にまみれ、裾は泥で汚れている。黒髪は乱れて額に張りつき、頬には細い擦り傷があった。
けれど、その鋼のような灰色の瞳だけは、少しも曇っていなかった。
「……ライル?」
思わず、昔の呼び方がこぼれた。
ライオネル・ブライト騎士団長は、肩で息をしながら、室内をぐるりと見渡した。父と母、モートン侯爵夫人、クラレンス様。そして最後に、私。
視線が合った瞬間、彼の肩から、ほんの少しだけ力が抜けたように見えた。
「間に合った……か」
かすれた声だった。
「な、なんだね君は!」
クラレンス様が、椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「ここはモートン侯爵家とアッシュフォード伯爵家の、大切な見合いの席だぞ! いくら騎士団長とはいえ、無礼にもほどがある!」
「承知しております」
ライルは外套の留め金を外しながら、静かに答えた。
「無礼は、後でいくらでもお詫びいたします。ですが、その縁談――少し、待っていただきたい」
「待て、だと?」
クラレンス様の顔が、みるみる赤くなっていく。
「何の権利があって、そんなことを言う! 君はたしか、リディア嬢とは……そう、『ただの幼なじみ』なのだろう? 社交界では有名な話だ。君自身が、何度もそう言っているそうじゃないか」
ただの幼なじみ。
その言葉が、胸の奥の古い傷をまた引っかいた。
ライルは、ゆっくりとクラレンス様のほうを向いた。
「ええ。言いました」
そして、私を見た。
「十年間、言い続けてきました。……今日で、やめます」
(……え?)
意味が、わからなかった。
やめる、とはどういうことだろう。ただの幼なじみをやめる、ということは、もう幼なじみでもない、ということ? それとも――。
頭の中で同じ問いがぐるぐると回って、私は息をするのも忘れていた。
「アッシュフォード伯爵」
ライルは父の前まで進み出ると、片膝をつき、懐から一通の書状を取り出した。
深い緋色の封蝋。そこに押されているのは――王家の紋章だった。
「本日付で、陛下より叙爵の勅書を賜りました。北方国境の平定の功により、ライオネル・ブライトを伯爵に叙し、ノルトヴァルト領を与える、と」
部屋の中が、しんと静まりかえった。
(伯爵……? ライルが?)
父は勅書を受け取り、封蝋を確かめてから、ふうっと長い息を吐いた。
「……三日かかる道だぞ」
「二日で駆けました。馬を四頭、乗り潰しかけましたが」
「陛下への謁見は」
「今朝、王都に着いてすぐに。勅書を受け取って、そのままこちらへ」
父は、なぜか少し笑っていた。困ったような、ほっとしたような、そんな笑い方だった。
「期限は、今日の日没までだったな」
「はい」
「ぎりぎりではないか」
「申し訳ありません」
「まったく……十年も待たせておいて、最後の最後でこれか」
父とライルのあいだで交わされる会話が、私には何ひとつ理解できなかった。
「お父様……? 期限って、なんのことですか?」
父は私を見て、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「ライオネル。お前の口から話しなさい。……もう、黙っている必要はない」
ライルは立ち上がり、私の前に来た。
近い。こんなに近くでライルの顔を見るのは、何年ぶりだろう。
記憶の中の少年より、ずっと背が高くなっていた。肩幅も広くて、顔つきも精悍で、知らない男の人みたいだった。
それなのに、ほんの少し困ったように眉を下げる癖だけは、昔のままだった。
「十年前、騎士団に入る前の晩に」
ライルは、低い声で話しはじめた。
「俺は、伯爵様に頭を下げに行った。リディアを、いつか妻に迎えたい、と」
(――え)
「笑われると思った。叩き出されても、文句は言えなかった。平民の騎士の息子が、伯爵家の令嬢を望むなんて、身の程知らずにもほどがあるから」
父が、静かに口を挟む。
「笑いはしなかったよ。ただ、条件を出した」
「……はい」
ライルは頷いた。
「身分が釣り合う男になって来い。期限は十年。それまでは、娘には何も言うな。娘の名に、決して傷をつけるな。もし十年のうちに、娘が誰かを選んだなら、そのときは黙って身を引け、と」
十年。
ただの幼なじみ、と言い続けた十年。
「平民上がりの騎士が、伯爵令嬢に近づけば、どんな噂が立つかはわかっていた。身分違いの騎士に懸想された令嬢。それだけで、リディアの縁談に響く。だから……俺は、あなたに近づかなかった」
ライルは、少しだけ視線を落とした。
「誰に聞かれても、ただの幼なじみだと答えた。そう言っておけば、誰もあなたを悪く言わない。俺が勝手に功績を積み上げて、勝手に身分を得て、それで間に合わなければ……それは俺の力が足りなかったというだけの話だ」
「三年前の、夜会でも……?」
声が震えた。
「あのとき、あなた、私のことを『アッシュフォード嬢』って……」
「……あの夜は」
ライルは、一度、言葉を切った。
「あなたが、俺に笑いかけてくれた。おめでとう、と言ってくれた。……あのまま隣にいたら、俺はきっと全部言ってしまうと思った。約束も、期限も、何もかも放り出して」
彼は、右の手袋を外した。
大きな手のひらに、白い三日月のような傷跡が、いくつも並んでいた。
「拳を握りしめすぎて、爪が手袋ごと掌に食い込んだ。翌日の剣の稽古で、副団長に何をしたんだと呆れられた」
「……ばか」
思わず、言葉がこぼれた。
ばか。ほんとうに、ばか。
あの夜、私は庭園の暗がりでひとりで泣いていた。そのあいだ、この人は、手のひらに血をにじませて立っていたのだ。
「どうして、何も言ってくれなかったの」
「言えなかった。言えば、約束を破ることになる」
「約束なんて……!」
「破れば、伯爵様は二度と俺を信用しない。そうなれば、どれだけ功績を立てても、あなたの隣には立てない」
ライルの声は静かだった。けれど、その静けさの奥に、十年分のなにかが張りつめているのがわかった。
「お父様は……知っていたのね。ずっと」
父を見ると、父は咳払いをした。
「……娘を任せる男が、口先だけでないかどうか、確かめたかったのだよ。十年は長いと思った。途中で諦めるだろうとも思った。だが、この男は、一度も諦めなかった」
母が、ハンカチで目元を押さえている。
「あなた、私にまで黙っていたのね」
「すまない。お前に話せば、リディアに伝わってしまうと思って……」
「ええ、伝えていましたとも。三年前、あの子が夜会から泣いて帰ってきた晩に、絶対に」
母の声には、珍しく棘があった。父は小さくなって、もう一度咳払いをした。
「でも、それならどうして、今日のお見合いを……」
私が尋ねると、父は窓の外の時計塔を見た。
「期限が今日までだったからだ。モートン家から縁談の話が来たとき、私は北方の騎士団へ早馬を出した。『娘に縁談が来た。見合いは十月十日。約束の期限も、その日の日没までだ』とな」
「……そんな」
「間に合わなければ、それまでの男だということだ。間に合えば――」
父は、ライルを見た。
「まあ、こうなる」
私は、言葉を失っていた。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。十年分の「ただの幼なじみ」が、ひとつずつ、まったく違う意味に塗り替えられていく。
(ただの、じゃなかった)
夜会で目を逸らされたのも。
名前で呼んでもらえなかったのも。
すれ違うたびに、すぐに背を向けられたのも。
全部、全部――。
「ちょっと待ってくれ!」
沈黙を破ったのは、クラレンス様だった。
「感動的な話のようだが、僕を置き去りにしないでもらいたいね。この縁談は、すでにまとまりかけていたんだ。いくら伯爵位を得たとはいえ、成り上がりの騎士が、モートン侯爵家の縁談に横から割り込むなど――」
「モートン殿」
ライルが振り返った。
それだけで、クラレンス様の言葉が止まった。
声を荒らげたわけではない。睨みつけたわけでもない。ただ、静かに名前を呼んだだけだ。それなのに、部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
さすがは、戦場で「黒獅子」と呼ばれた人だ。
「縁談を壊したことについては、正式にお詫びいたします。ですが、ひとつだけ」
「な、なんだ」
「さきほど、アッシュフォード領の銀山の話をなさっていましたね。商会との繋がりがある、と」
「それが、どうした」
「北方から戻る途中、ある商会の不正な取引について、騎士団に報告が上がってきました。王都の賭博場に多額の借金を抱えた貴族の子弟が、婚約者の家の資産を担保に、商会から金を借りようとしていた、と」
クラレンス様の顔から、さっと血の気が引いた。
侯爵夫人が、扇を取り落とす。
「……クラレンス?」
「は、母上、それは、その」
「まだ調べの途中です。名前も、正式には上がっていません」
ライルは淡々と続けた。
「ですが、もしこの縁談がまとまっていれば、いずれ騎士団がお話を伺いに行くことになったかもしれません」
しばらくのあいだ、誰も口をきかなかった。
やがて侯爵夫人が、こわばった笑みを浮かべて立ち上がった。
「……今日のところは、失礼いたしますわ。クラレンス、帰りますよ」
「は、母上、待ってください、僕は――」
「帰ると言ったのです」
侯爵夫人に腕をつかまれて、クラレンス様は引きずられるように部屋を出ていった。
去り際、扉のところで振り返り、なにか言いたげに口を開いたけれど、ライルと目が合うと、そのまま黙って出ていった。
(……地味な妻のほうが、家は安定する、だったかしら)
家の安定を一番乱しそうなのは、ご本人だったらしい。
そう思ったら、なんだか少しだけ、おかしくなった。
扉が閉まると、部屋の中には、私たち家族とライルだけが残った。
「さて」
父が、わざとらしく伸びをした。
「私と妻は、少し中庭を散歩してこよう。……日没まで、まだ時間はあるからな」
「あなた」
「いいから、いいから」
母は父を軽くにらんでから、私のほうを見て、ふわりと微笑んだ。
「リディア。言いたいことは、全部言っておしまいなさい。十年分、ね」
そう言い残して、両親は部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
静かだった。
窓の外では、中庭の木々が、秋の風にさわさわと揺れている。
ライルは、私の前に立ったまま、動かなかった。私も、何を言えばいいのかわからなくて、ただ彼を見上げていた。
「……座らないの?」
ようやく出てきたのは、そんな間の抜けた言葉だった。
「外套が汚れている。椅子を汚す」
「そんなこと、気にしてる場合?」
「……そうだな」
ライルは少しだけ口元をゆるめた。笑った、のだと思う。何年ぶりかに見る、彼の笑った顔だった。
それから彼は、椅子には座らずに、私の前に片膝をついた。
「リディア」
名前を呼ばれた。
アッシュフォード嬢、ではなく。昔のように、「リディ」でもなく。
ただ、リディア、と。
それだけで、胸がいっぱいになって、目の奥が熱くなった。
「渡したいものがある」
ライルは、上着の内ポケットに手を入れた。
取り出されたのは、一枚の、古ぼけたハンカチだった。
もとは白かったはずの布は、すっかり色あせて、端はほつれ、あちこちに繕った跡がある。茶色い染みは、たぶん……血、なのだろう。
そして、その真ん中には。
丸っこい、どう見ても猫にしか見えない、獅子の刺繍があった。
「……それ」
「十年、ずっと持っていた」
ライルは、ハンカチを大切そうに両手で包んだ。
「北の砦で、三日三晩囲まれたときも。副団長になって、初めて部下を亡くしたときも。この春の遠征で、もう駄目かと思ったときも。……これを握っていた」
「そんな……そんな下手な刺繍、捨ててくれてよかったのに」
「捨てられるわけがないだろう」
ライルは、少しむっとしたような顔をした。
「これは獅子だ。あなたがそう言った」
「……猫でしょう、どう見ても」
「獅子だ」
頑固なところも、昔のままだ。
「騎士団の連中は、これを見て『団長の猫』と呼んでいる。いつの間にか、団の非公式の紋章みたいになっていて……遠征の前には、みんなで拝んでいく」
「お、拝む……?」
「験担ぎだそうだ。これを持っている団長は死なない、と」
顔から火が出そうだった。
私の、一晩かけて失敗した刺繍が、王国騎士団のお守りになっていたなんて。
(団の非公式の紋章って……猫が……)
恥ずかしくて、どこかに隠れてしまいたかった。
けれど、ライルは、そんな私の顔をまっすぐに見上げて、静かに言った。
「本当に、これが俺を生かしてくれた。……リディア。あなたが、俺を生かしてくれたんだ」
ハンカチが、私の膝の上に置かれる。
そしてライルは、懐からもうひとつ、小さな箱を取り出した。
蓋を開けると、中には銀の指輪がおさまっていた。小さな、青い石がひとつだけはめこまれている。飾り気のない、けれどとても丁寧な細工の指輪だった。
「北方の国境の村で、鍛冶師に頼んで作ってもらった。石は、遠征の途中の川で見つけた。……王都の宝石商に頼めば、もっと立派なものが買えたんだが」
「……ううん」
私は首を振った。言葉が、うまく出てこなかった。
「十年前、俺は、ただの騎士の息子だった。あなたに何も約束できなかった。だから、黙っていた。黙って、剣を振って、功績を積み上げて……ようやく、ここまで来た」
ライルの声が、ほんの少し震えた。
あの「黒獅子」が。戦場で、何千もの兵を率いてきた人が。
「今の俺には、伯爵位がある。北の小さな領地もある。それから――十年分の、言えなかった言葉がある」
灰色の瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「リディア・アッシュフォード」
息が、止まる。
「俺は、あなたが好きだ。十年前から――いや、もっとずっと前から。雷が怖いと泣いていた頃から、ずっと、あなただけが好きだった」
頬を、熱いものが伝い落ちた。
「ただの幼なじみなんかじゃない。一度だって、そう思ったことはない。……俺と、結婚してくれないか」
十年。
十年も、この人は黙っていた。
私が泣いていた夜も、もう期待しないと決めた日も、壁紙なんて呼ばれて笑われた夜会でも。
この人は、遠い北の地で、猫みたいな獅子のハンカチを握りしめて、たったひとりで戦っていたのだ。
「……ずるいわ」
涙で、声がぐちゃぐちゃになった。
「十年も、勝手に待たせて。勝手に決めて。私、何度も、もう諦めようって思ったのよ。ただの幼なじみって言われるたびに、ああ、やっぱりそうなんだって……」
「すまない」
「三年前の夜会のあと、庭で泣いたのよ。ひとりで。あなたのせいで」
「……すまない」
「今日だって、本当は、このお見合いで全部終わりにしようと思ってたの。もう待つのはやめようって。なのに、こんな、泥だらけで、いきなり飛び込んできて……」
「すまない、リディア」
ライルは、謝るたびに少しずつ、苦しそうな顔になっていく。
その顔を見ていたら、だんだん、怒っているのか泣いているのか、自分でもわからなくなってきた。
「謝ってほしいわけじゃないの」
「……じゃあ、何を」
「もう一回、言って」
ライルが、きょとんと目を瞬かせた。
「さっきの。……もう一回、ちゃんと言って。十年分、聞き逃してたんだから」
一瞬の間のあと。
ライルの耳が、みるみるうちに赤くなった。
黒獅子と呼ばれる騎士団長の耳が、真っ赤だ。そんな顔を見るのは、生まれて初めてだった。
「……好きだ」
「もう一回」
「好きだ、リディア」
「もう一回」
「……あなたが好きだ。ずっと好きだった。これからも、ずっと好きだ。十年分でも、二十年分でも、何度でも言う」
そこまで言って、ライルは少しだけ眉を下げた。
「……返事を、聞かせてくれないか。さすがに、心臓がもたない」
北の砦で三日三晩囲まれても平気だった人が、心臓がもたない、なんて。
私は涙を拭いて、精いっぱい、笑ってみせた。きっと、ひどい顔をしていたと思う。
「はい」
左手を、そっと差し出す。
「ただの幼なじみは、今日で終わりにしてください。……ライル」
ライルの手が、かすかに震えながら、私の薬指に銀の指輪を通した。
小さな青い石が、窓から差しこむ秋の光を受けて、きらりと光った。
その瞬間、ライルは、私の手を握ったまま、額を私の手の甲に押し当てた。
「……間に合って、よかった」
かすれた声だった。
大きな肩が、小さく震えている。
私は、空いているほうの手で、彼の乱れた黒髪にそっと触れた。土埃と、汗と、遠い北の風の匂いがした。
「おかえりなさい、ライル」
「……ただいま、リディ」
十年ぶりに呼ばれた、昔の愛称だった。
それから、少しあとのこと。
中庭から戻ってきた父と母は、私の指輪を見て、そろって目を細めた。
父は「日没まで、まだ二刻もあったな」と言って、ライルの肩をばしんと叩いた。母は「十年分のお説教は、あとでゆっくりさせていただきますからね」とライルに微笑み、ライルは騎士の礼をとって「覚悟しております」と神妙に頭を下げた。
翡翠亭を出ると、表通りには、なぜか騎士団の制服を着た男たちがずらりと並んでいた。
十人、二十人……いや、もっといる。みんな遠征帰りのような、くたびれた格好だ。
「団長! 間に合いましたか!」
「どうでした!?」
ライルが、私の左手を軽く持ち上げてみせる。薬指の指輪が、夕方の光にきらめいた。
その瞬間、騎士たちのあいだから、地鳴りのような歓声が上がった。
「やったぁぁぁ!!」
「十年越しの『ただの幼なじみ』卒業だ!」
「猫の君、万歳!!」
(猫の君……?)
嫌な予感がして、隣のライルを見上げる。
ライルは、なんとも言えない顔で目を逸らした。
「……団の連中は、あなたのことを、そう呼んでいる」
「どうして!?」
「あの刺繍の作者だから、だそうだ」
王国騎士団に、知らないうちにあだ名をつけられていた。それも、よりによって「猫の君」。
頭を抱える私の横で、副団長らしき赤毛の騎士が、にやにやしながら近づいてきた。
「はじめまして、猫の君。いやあ、ようやくお会いできました。団長ときたら、この十年、口を開けば『ただの幼なじみだ』の一点張りで」
「……そう、ですよね。皆さんにも、そう言っていたんでしょう?」
「ええ、言ってましたよ。ただの幼なじみだ、ってね」
副団長は、楽しそうに肩をすくめた。
「ハンカチを握りしめて、星を見上げて、手紙を書いては破り捨てながら。毎晩、ね」
「おい、ディルク」
ライルが低い声で制止する。耳がまた、真っ赤になっている。
「団の者はみんな知ってましたよ。団長の『ただの幼なじみ』は、この国でいちばん重たい『ただの』だって」
私は、思わず笑ってしまった。
笑いながら、また少しだけ泣いた。
この人は、十年間、ずっとこうだったのだ。誰にも本当のことを言わずに、言えずに、それでも隠しきれずに。
「ディルク。全員、本部に戻れ。遠征の報告書がまだだろう」
「えー、団長、せっかくのめでたい日なのに」
「戻れ」
「はいはい。――猫の君、団長をよろしくお願いしますね!」
騎士たちは口々に祝いの言葉を叫びながら、ようやく引き上げていった。
騒がしさが遠ざかると、夕暮れの通りに、私とライルだけが残った。
「……ごめん。騒がしい連中で」
「ううん。素敵な方たちね」
私が言うと、ライルは少しだけ、ほっとしたような顔をした。
そして、私の左手を、自分の右手でそっと包みこんだ。手のひらの、三日月みたいな傷跡が、私の指先に触れる。
「リディア」
「なあに?」
「もう、誰に聞かれても、ただの幼なじみとは言わない」
ライルは、まっすぐ前を向いたまま、低い声で続けた。
「これからは、こう答える。――俺の婚約者だ、と。十年待って、ようやく手に入れた、俺のいちばん大事な人だ、と」
「……そんなこと、夜会で言ったら、大騒ぎになるわよ」
「構わない。十年分、言いふらす」
「言いふらすって……」
「黙っているのは、もう十分だ」
そう言って、ライルは、繋いだ手に少しだけ力をこめた。
もう二度と離さない、とでもいうように。
夕焼けの空に、王城の尖塔が黒く浮かんでいる。今朝、窓からあの尖塔を見上げたとき、私はもう待つのはやめようと思っていた。
でも、待っていたのは、私だけじゃなかった。
この人も、ずっと、ずっと、待っていてくれたのだ。
「ねえ、ライル」
「なんだ」
「あのハンカチ、新しいのを刺繍してあげる。今度こそ、ちゃんとした獅子にするから」
ライルは少し考えてから、真面目な顔で首を振った。
「いや。あれがいい」
「どうして?」
「あれは、俺の獅子だ。……それに、団の連中が拝めなくなる」
「もう!」
笑いながら、私はライルの腕に寄りかかった。
ライルは一瞬だけ身体をこわばらせて、それから、ゆっくりと力を抜いた。十年分の距離が、夕暮れの中で、静かに溶けていく。
ただの幼なじみ、と言い続けた騎士団長は。
私の縁談の席に乗り込んできて――そのまま、私の未来の席に、居座ることに決めたらしい。
(完)
これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!
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