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「ただの幼なじみ」と言い続けた騎士団長が、私の縁談の席に乗り込んできました

掲載日:2026/10/13

 縁談の相手は、侯爵家の次男だった。


 クラレンス・モートン様。社交界では「銀の貴公子」と呼ばれる方で、淡い金の髪と甘い声と、それから途切れることのない噂話で有名な人だ。


 そんな方が、どうして私に。


 鏡の前で、私――リディア・アッシュフォードは、今朝から何度目かもわからない溜め息をついた。


 鏡に映っているのは、いつもどおりの私だ。くすんだ亜麻色の髪に、灰色がかった茶色の瞳。顔立ちは「悪くはない」程度で、背も高くも低くもない。夜会に出れば必ず壁際に立つことになるので、口さがない方々からは「アッシュフォード家の壁紙」なんて呼ばれている。


(壁の花、ならまだ可愛げがあるのに。壁紙って……)


 二十二歳。貴族の令嬢としては、そろそろ陰で「行き遅れ」と囁かれはじめる年齢だ。


「お嬢様、今日は思い切って、こちらの青いドレスにいたしましょう」


 侍女のベティが、衣装棚から鮮やかな青のドレスを引っ張り出してくる。


「ベティ、それはちょっと派手すぎない?」


「派手なくらいがちょうどいいんです。お嬢様はいつも灰色だの茶色だの、木の皮みたいなお色ばかりお選びになるんですから」


「木の皮……」


 壁紙の次は木の皮。私の印象とは、いったい。


 結局、ベティの熱意に押し切られて、私は青いドレスに袖を通した。鏡の中の私は、ドレスにすっかり負けている。それでも、ベティが満足そうに頷いているので、何も言わないことにした。




 モートン侯爵家からの縁談を、父は「会うだけ会ってみなさい」と言って私に渡した。


 理由なら、私にもわかっている。


 アッシュフォード伯爵家の領地には、小さいけれど質のいい銀の鉱山がある。最近、そこから新しい鉱脈が見つかったのだ。モートン家が欲しいのは、私ではなく、私についてくる鉱山のほうだろう。


(それでも、いいと思ったのよね)


 政略結婚なんて、貴族の娘ならあたりまえのことだ。愛されなくても、大切にされなくても、家の役に立てるならそれでいい。


 それに――もう、待つのはやめにしたかった。


 待つ、なんて言葉を使うのもおかしな話だ。だって私は、誰とも何も約束していないのだから。


 ふと窓の外へ目をやると、遠く王城の尖塔が見えた。その隣には、王国騎士団の本部がある。


 ライオネル・ブライト。


 王国騎士団の団長で、「黒獅子」と呼ばれる英雄。


 そして、私の――ただの、幼なじみ。




 ライルは、父の護衛騎士の息子だった。


 アッシュフォード家の領地で、私たちは兄妹のように育った。五つ年上の彼は、木登りの下手な私を何度も枝から下ろしてくれたし、雷が怖いと泣く私の隣で、嵐が過ぎるまで黙って座っていてくれた。


「リディ、泣くな。雷は、俺が斬ってやるから」


「……雷って、斬れるの?」


「斬れる。たぶん」


 たぶん、と言いながら、ライルは木の枝を剣のように構えて、窓の外をにらんでいた。そのおかしな背中を見ているうちに、私はいつも泣きやんでしまうのだった。


 あの頃の私は、本気で信じていた。大きくなったら、ライルのお嫁さんになるのだと。


 でも、それは子どもの夢だった。


 伯爵家の娘と、平民の騎士の息子。どれだけ仲がよくても、私たちのあいだには越えられない線が引かれている。それを知ったのは、私が十二の年――ライルが十七で、王都の騎士団へ入ると決めた年だった。


「行っちゃうの?」


「ああ」


「帰ってくる?」


「……わからない」


 旅立ちの前日、私は一晩かけて刺繍をしたハンカチを、ライルに押しつけた。


 図案は獅子だった。強くて、勇ましくて、ライルを守ってくれるように。そう願って針を動かしたはずなのに、出来上がったのは、どう見ても丸っこい猫だった。


「……これは、猫か?」


「獅子よ!」


「そうか。獅子か」


 ライルは真顔で頷いて、ハンカチを丁寧に畳み、胸の内ポケットにしまった。


「大事にする」


 それが、私たちのあいだで交わされた、いちばん約束に近い言葉だったと思う。




 それから十年。


 ライルは、信じられないような早さで出世していった。


 入団して三年で、北の砦の防衛戦で名を上げた。二十三で副団長。二十五で、史上最年少の騎士団長。今年の春からは北方の国境へ遠征していて、長く続いた小競り合いを、ついに終わらせたと聞いている。


 王都の令嬢たちは、みんな彼に夢中だ。


 黒髪に、鋼のような灰色の瞳。無口で、笑わなくて、けれど誰にでも礼儀正しい。そんな騎士団長に恋をしない令嬢のほうが珍しい。


 そして、彼が私の幼なじみだと知った方々は、決まってこう尋ねる。


「ブライト団長と、アッシュフォード伯爵令嬢は、どういうご関係ですの?」


 そのたびに、ライルは顔色ひとつ変えずに答えるのだ。


「ただの幼なじみです」


 一度や二度ではない。夜会でも、園遊会でも、王宮の廊下ですれ違ったときでさえ。


 ただの幼なじみ。


 ただの。


(わかってるわよ。何度も言わなくたって)


 いちばん堪えたのは、三年前の夜会だった。


 騎士団長に就任したお祝いを言いたくて、私は勇気を振り絞ってライルに近づいた。何年ぶりかに、ちゃんと顔を見て話せると思った。


「ライル、団長就任おめでとう」


 彼は一瞬だけ目を見開いて、それから、すっと視線を逸らした。


 すぐそばにいた侯爵令嬢が、扇で口元を隠して笑う。


「まあ、団長様。こちらのご令嬢とはお親しいの?」


「……ただの幼なじみです」


 ライルは低い声でそう言って、私に向き直った。


「祝いの言葉、ありがとうございます。アッシュフォード嬢。……それでは」


 アッシュフォード嬢。


 昔は「リディ」と呼んでくれていたのに。


 去っていく背中を見送ったあと、私は庭園の暗がりで、ひとりで泣いた。泣いて、泣いて、そして決めたのだ。


 もう、期待するのはやめよう、と。


 彼にとって私は、ただの幼なじみ。故郷に置いてきた、昔の知り合い。


 それなのに、三年経っても、私は誰の求婚も受けられなかった。そもそも求婚してくる方がほとんどいなかった、というのもあるけれど。


(だから、今日で終わりにするの)


 鏡の中の、青いドレスに負けている私に向かって、心の中でそう言い聞かせた。




 見合いの場所は、王都でいちばん格式の高い茶館「翡翠亭」の、奥の個室だった。


 大きな窓からは手入れの行き届いた中庭が見え、テーブルには白磁の茶器と、宝石のような焼き菓子が並んでいる。


 私の隣には父と母。向かいには、クラレンス様とモートン侯爵夫人。


「やあ、リディア嬢。噂どおり、控えめで慎ましいお嬢さんだ」


 クラレンス様は、にこやかに微笑んだ。噂どおりの甘い声だった。


(控えめで慎ましい。つまり地味ってことですね)


 心の中でだけ訂正して、私は淑女らしく微笑み返した。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


「いやいや。僕のほうこそ、楽しみにしていたんですよ」


 それから一時間ほど、クラレンス様はほとんどひとりで話し続けた。


 自分が今季の狩猟大会で三位だったこと。新しく仕立てた馬車のこと。王太子殿下の茶会に招かれたこと。


 そして、話は少しずつ、うちの領地のほうへ寄っていく。


「アッシュフォード領の銀山は、新しい鉱脈が出たそうですね。いや、素晴らしい。あれほどの資源を、もっと効率よく活かせば、きっと伯爵家も潤うことでしょう」


「……はあ」


「我が家には商会との繋がりもありますからね。結婚すれば、そのあたりはすべて僕に任せてくれればいい」


 父が、紅茶のカップを持ったまま、窓のほうへ目をやった。


 さっきから、父は何度も窓の外を気にしている。時計塔の鐘が鳴るたびに、かすかに眉を寄せるのだ。


(お父様、どうしたのかしら)


「それにね、リディア嬢」


 クラレンス様が、こちらへ身を乗り出した。


「僕は、妻にあまり多くは求めないつもりなんです。華やかな社交は、僕がひとりでこなせばいい。あなたは屋敷で静かに過ごしてくれれば、それで十分です」


 それは、たぶん、優しさのつもりなのだろう。


 でも私には、「お前は表に出てくるな」と聞こえた。


「地味な妻のほうが、かえって家は安定するものですから。ねえ、母上」


「ええ、そうね。派手な嫁は、なにかと面倒ですもの」


 侯爵夫人が、上品に笑う。


 母の笑顔が、ほんの少しだけ固まったのがわかった。


(……いいのよ。最初から、わかっていたことだもの)


 私は膝の上で、そっと手を握りしめた。


 政略結婚なのだから。望まれているのは私じゃなくて、銀山なのだから。


 それでも――。


 脳裏をよぎったのは、ずっと昔の、雷の夜だった。木の枝を構えて、窓の外をにらんでいた、少年の背中。


(だめ。もう考えないって、決めたのに)


「では、話もまとまりそうですし」


 クラレンス様が、満足げに手を叩いた。


「婚約の書面は、後日あらためて――」


 そのときだった。


 廊下のほうで、なにかがぶつかるような大きな音がした。


 続いて、店の者たちの慌てた声。


「お、お待ちください! こちらは貸し切りの――」


「お客様、困ります! お客様!」


 重たい足音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。


 そして、個室の扉が、勢いよく開け放たれた。




 そこに立っていたのは、旅装の騎士だった。


 黒い外套は土埃にまみれ、裾は泥で汚れている。黒髪は乱れて額に張りつき、頬には細い擦り傷があった。


 けれど、その鋼のような灰色の瞳だけは、少しも曇っていなかった。


「……ライル?」


 思わず、昔の呼び方がこぼれた。


 ライオネル・ブライト騎士団長は、肩で息をしながら、室内をぐるりと見渡した。父と母、モートン侯爵夫人、クラレンス様。そして最後に、私。


 視線が合った瞬間、彼の肩から、ほんの少しだけ力が抜けたように見えた。


「間に合った……か」


 かすれた声だった。


「な、なんだね君は!」


 クラレンス様が、椅子を蹴るようにして立ち上がる。


「ここはモートン侯爵家とアッシュフォード伯爵家の、大切な見合いの席だぞ! いくら騎士団長とはいえ、無礼にもほどがある!」


「承知しております」


 ライルは外套の留め金を外しながら、静かに答えた。


「無礼は、後でいくらでもお詫びいたします。ですが、その縁談――少し、待っていただきたい」


「待て、だと?」


 クラレンス様の顔が、みるみる赤くなっていく。


「何の権利があって、そんなことを言う! 君はたしか、リディア嬢とは……そう、『ただの幼なじみ』なのだろう? 社交界では有名な話だ。君自身が、何度もそう言っているそうじゃないか」


 ただの幼なじみ。


 その言葉が、胸の奥の古い傷をまた引っかいた。


 ライルは、ゆっくりとクラレンス様のほうを向いた。


「ええ。言いました」


 そして、私を見た。


「十年間、言い続けてきました。……今日で、やめます」


(……え?)


 意味が、わからなかった。


 やめる、とはどういうことだろう。ただの幼なじみをやめる、ということは、もう幼なじみでもない、ということ? それとも――。


 頭の中で同じ問いがぐるぐると回って、私は息をするのも忘れていた。


「アッシュフォード伯爵」


 ライルは父の前まで進み出ると、片膝をつき、懐から一通の書状を取り出した。


 深い緋色の封蝋。そこに押されているのは――王家の紋章だった。


「本日付で、陛下より叙爵の勅書を賜りました。北方国境の平定の功により、ライオネル・ブライトを伯爵に叙し、ノルトヴァルト領を与える、と」


 部屋の中が、しんと静まりかえった。


(伯爵……? ライルが?)


 父は勅書を受け取り、封蝋を確かめてから、ふうっと長い息を吐いた。


「……三日かかる道だぞ」


「二日で駆けました。馬を四頭、乗り潰しかけましたが」


「陛下への謁見は」


「今朝、王都に着いてすぐに。勅書を受け取って、そのままこちらへ」


 父は、なぜか少し笑っていた。困ったような、ほっとしたような、そんな笑い方だった。


「期限は、今日の日没までだったな」


「はい」


「ぎりぎりではないか」


「申し訳ありません」


「まったく……十年も待たせておいて、最後の最後でこれか」


 父とライルのあいだで交わされる会話が、私には何ひとつ理解できなかった。


「お父様……? 期限って、なんのことですか?」


 父は私を見て、少しだけ気まずそうに目を逸らした。


「ライオネル。お前の口から話しなさい。……もう、黙っている必要はない」




 ライルは立ち上がり、私の前に来た。


 近い。こんなに近くでライルの顔を見るのは、何年ぶりだろう。


 記憶の中の少年より、ずっと背が高くなっていた。肩幅も広くて、顔つきも精悍で、知らない男の人みたいだった。


 それなのに、ほんの少し困ったように眉を下げる癖だけは、昔のままだった。


「十年前、騎士団に入る前の晩に」


 ライルは、低い声で話しはじめた。


「俺は、伯爵様に頭を下げに行った。リディアを、いつか妻に迎えたい、と」


(――え)


「笑われると思った。叩き出されても、文句は言えなかった。平民の騎士の息子が、伯爵家の令嬢を望むなんて、身の程知らずにもほどがあるから」


 父が、静かに口を挟む。


「笑いはしなかったよ。ただ、条件を出した」


「……はい」


 ライルは頷いた。


「身分が釣り合う男になって来い。期限は十年。それまでは、娘には何も言うな。娘の名に、決して傷をつけるな。もし十年のうちに、娘が誰かを選んだなら、そのときは黙って身を引け、と」


 十年。


 ただの幼なじみ、と言い続けた十年。


「平民上がりの騎士が、伯爵令嬢に近づけば、どんな噂が立つかはわかっていた。身分違いの騎士に懸想された令嬢。それだけで、リディアの縁談に響く。だから……俺は、あなたに近づかなかった」


 ライルは、少しだけ視線を落とした。


「誰に聞かれても、ただの幼なじみだと答えた。そう言っておけば、誰もあなたを悪く言わない。俺が勝手に功績を積み上げて、勝手に身分を得て、それで間に合わなければ……それは俺の力が足りなかったというだけの話だ」


「三年前の、夜会でも……?」


 声が震えた。


「あのとき、あなた、私のことを『アッシュフォード嬢』って……」


「……あの夜は」


 ライルは、一度、言葉を切った。


「あなたが、俺に笑いかけてくれた。おめでとう、と言ってくれた。……あのまま隣にいたら、俺はきっと全部言ってしまうと思った。約束も、期限も、何もかも放り出して」


 彼は、右の手袋を外した。


 大きな手のひらに、白い三日月のような傷跡が、いくつも並んでいた。


「拳を握りしめすぎて、爪が手袋ごと掌に食い込んだ。翌日の剣の稽古で、副団長に何をしたんだと呆れられた」


「……ばか」


 思わず、言葉がこぼれた。


 ばか。ほんとうに、ばか。


 あの夜、私は庭園の暗がりでひとりで泣いていた。そのあいだ、この人は、手のひらに血をにじませて立っていたのだ。


「どうして、何も言ってくれなかったの」


「言えなかった。言えば、約束を破ることになる」


「約束なんて……!」


「破れば、伯爵様は二度と俺を信用しない。そうなれば、どれだけ功績を立てても、あなたの隣には立てない」


 ライルの声は静かだった。けれど、その静けさの奥に、十年分のなにかが張りつめているのがわかった。


「お父様は……知っていたのね。ずっと」


 父を見ると、父は咳払いをした。


「……娘を任せる男が、口先だけでないかどうか、確かめたかったのだよ。十年は長いと思った。途中で諦めるだろうとも思った。だが、この男は、一度も諦めなかった」


 母が、ハンカチで目元を押さえている。


「あなた、私にまで黙っていたのね」


「すまない。お前に話せば、リディアに伝わってしまうと思って……」


「ええ、伝えていましたとも。三年前、あの子が夜会から泣いて帰ってきた晩に、絶対に」


 母の声には、珍しく棘があった。父は小さくなって、もう一度咳払いをした。


「でも、それならどうして、今日のお見合いを……」


 私が尋ねると、父は窓の外の時計塔を見た。


「期限が今日までだったからだ。モートン家から縁談の話が来たとき、私は北方の騎士団へ早馬を出した。『娘に縁談が来た。見合いは十月十日。約束の期限も、その日の日没までだ』とな」


「……そんな」


「間に合わなければ、それまでの男だということだ。間に合えば――」


 父は、ライルを見た。


「まあ、こうなる」


 私は、言葉を失っていた。


 頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。十年分の「ただの幼なじみ」が、ひとつずつ、まったく違う意味に塗り替えられていく。


(ただの、じゃなかった)


 夜会で目を逸らされたのも。


 名前で呼んでもらえなかったのも。


 すれ違うたびに、すぐに背を向けられたのも。


 全部、全部――。




「ちょっと待ってくれ!」


 沈黙を破ったのは、クラレンス様だった。


「感動的な話のようだが、僕を置き去りにしないでもらいたいね。この縁談は、すでにまとまりかけていたんだ。いくら伯爵位を得たとはいえ、成り上がりの騎士が、モートン侯爵家の縁談に横から割り込むなど――」


「モートン殿」


 ライルが振り返った。


 それだけで、クラレンス様の言葉が止まった。


 声を荒らげたわけではない。睨みつけたわけでもない。ただ、静かに名前を呼んだだけだ。それなのに、部屋の空気が、ぴんと張りつめた。


 さすがは、戦場で「黒獅子」と呼ばれた人だ。


「縁談を壊したことについては、正式にお詫びいたします。ですが、ひとつだけ」


「な、なんだ」


「さきほど、アッシュフォード領の銀山の話をなさっていましたね。商会との繋がりがある、と」


「それが、どうした」


「北方から戻る途中、ある商会の不正な取引について、騎士団に報告が上がってきました。王都の賭博場に多額の借金を抱えた貴族の子弟が、婚約者の家の資産を担保に、商会から金を借りようとしていた、と」


 クラレンス様の顔から、さっと血の気が引いた。


 侯爵夫人が、扇を取り落とす。


「……クラレンス?」


「は、母上、それは、その」


「まだ調べの途中です。名前も、正式には上がっていません」


 ライルは淡々と続けた。


「ですが、もしこの縁談がまとまっていれば、いずれ騎士団がお話を伺いに行くことになったかもしれません」


 しばらくのあいだ、誰も口をきかなかった。


 やがて侯爵夫人が、こわばった笑みを浮かべて立ち上がった。


「……今日のところは、失礼いたしますわ。クラレンス、帰りますよ」


「は、母上、待ってください、僕は――」


「帰ると言ったのです」


 侯爵夫人に腕をつかまれて、クラレンス様は引きずられるように部屋を出ていった。


 去り際、扉のところで振り返り、なにか言いたげに口を開いたけれど、ライルと目が合うと、そのまま黙って出ていった。


(……地味な妻のほうが、家は安定する、だったかしら)


 家の安定を一番乱しそうなのは、ご本人だったらしい。


 そう思ったら、なんだか少しだけ、おかしくなった。




 扉が閉まると、部屋の中には、私たち家族とライルだけが残った。


「さて」


 父が、わざとらしく伸びをした。


「私と妻は、少し中庭を散歩してこよう。……日没まで、まだ時間はあるからな」


「あなた」


「いいから、いいから」


 母は父を軽くにらんでから、私のほうを見て、ふわりと微笑んだ。


「リディア。言いたいことは、全部言っておしまいなさい。十年分、ね」


 そう言い残して、両親は部屋を出ていった。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 静かだった。


 窓の外では、中庭の木々が、秋の風にさわさわと揺れている。


 ライルは、私の前に立ったまま、動かなかった。私も、何を言えばいいのかわからなくて、ただ彼を見上げていた。


「……座らないの?」


 ようやく出てきたのは、そんな間の抜けた言葉だった。


「外套が汚れている。椅子を汚す」


「そんなこと、気にしてる場合?」


「……そうだな」


 ライルは少しだけ口元をゆるめた。笑った、のだと思う。何年ぶりかに見る、彼の笑った顔だった。


 それから彼は、椅子には座らずに、私の前に片膝をついた。


「リディア」


 名前を呼ばれた。


 アッシュフォード嬢、ではなく。昔のように、「リディ」でもなく。


 ただ、リディア、と。


 それだけで、胸がいっぱいになって、目の奥が熱くなった。


「渡したいものがある」


 ライルは、上着の内ポケットに手を入れた。


 取り出されたのは、一枚の、古ぼけたハンカチだった。


 もとは白かったはずの布は、すっかり色あせて、端はほつれ、あちこちに繕った跡がある。茶色い染みは、たぶん……血、なのだろう。


 そして、その真ん中には。


 丸っこい、どう見ても猫にしか見えない、獅子の刺繍があった。


「……それ」


「十年、ずっと持っていた」


 ライルは、ハンカチを大切そうに両手で包んだ。


「北の砦で、三日三晩囲まれたときも。副団長になって、初めて部下を亡くしたときも。この春の遠征で、もう駄目かと思ったときも。……これを握っていた」


「そんな……そんな下手な刺繍、捨ててくれてよかったのに」


「捨てられるわけがないだろう」


 ライルは、少しむっとしたような顔をした。


「これは獅子だ。あなたがそう言った」


「……猫でしょう、どう見ても」


「獅子だ」


 頑固なところも、昔のままだ。


「騎士団の連中は、これを見て『団長の猫』と呼んでいる。いつの間にか、団の非公式の紋章みたいになっていて……遠征の前には、みんなで拝んでいく」


「お、拝む……?」


「験担ぎだそうだ。これを持っている団長は死なない、と」


 顔から火が出そうだった。


 私の、一晩かけて失敗した刺繍が、王国騎士団のお守りになっていたなんて。


(団の非公式の紋章って……猫が……)


 恥ずかしくて、どこかに隠れてしまいたかった。


 けれど、ライルは、そんな私の顔をまっすぐに見上げて、静かに言った。


「本当に、これが俺を生かしてくれた。……リディア。あなたが、俺を生かしてくれたんだ」


 ハンカチが、私の膝の上に置かれる。


 そしてライルは、懐からもうひとつ、小さな箱を取り出した。


 蓋を開けると、中には銀の指輪がおさまっていた。小さな、青い石がひとつだけはめこまれている。飾り気のない、けれどとても丁寧な細工の指輪だった。


「北方の国境の村で、鍛冶師に頼んで作ってもらった。石は、遠征の途中の川で見つけた。……王都の宝石商に頼めば、もっと立派なものが買えたんだが」


「……ううん」


 私は首を振った。言葉が、うまく出てこなかった。


「十年前、俺は、ただの騎士の息子だった。あなたに何も約束できなかった。だから、黙っていた。黙って、剣を振って、功績を積み上げて……ようやく、ここまで来た」


 ライルの声が、ほんの少し震えた。


 あの「黒獅子」が。戦場で、何千もの兵を率いてきた人が。


「今の俺には、伯爵位がある。北の小さな領地もある。それから――十年分の、言えなかった言葉がある」


 灰色の瞳が、まっすぐに私を射抜いた。


「リディア・アッシュフォード」


 息が、止まる。


「俺は、あなたが好きだ。十年前から――いや、もっとずっと前から。雷が怖いと泣いていた頃から、ずっと、あなただけが好きだった」


 頬を、熱いものが伝い落ちた。


「ただの幼なじみなんかじゃない。一度だって、そう思ったことはない。……俺と、結婚してくれないか」




 十年。


 十年も、この人は黙っていた。


 私が泣いていた夜も、もう期待しないと決めた日も、壁紙なんて呼ばれて笑われた夜会でも。


 この人は、遠い北の地で、猫みたいな獅子のハンカチを握りしめて、たったひとりで戦っていたのだ。


「……ずるいわ」


 涙で、声がぐちゃぐちゃになった。


「十年も、勝手に待たせて。勝手に決めて。私、何度も、もう諦めようって思ったのよ。ただの幼なじみって言われるたびに、ああ、やっぱりそうなんだって……」


「すまない」


「三年前の夜会のあと、庭で泣いたのよ。ひとりで。あなたのせいで」


「……すまない」


「今日だって、本当は、このお見合いで全部終わりにしようと思ってたの。もう待つのはやめようって。なのに、こんな、泥だらけで、いきなり飛び込んできて……」


「すまない、リディア」


 ライルは、謝るたびに少しずつ、苦しそうな顔になっていく。


 その顔を見ていたら、だんだん、怒っているのか泣いているのか、自分でもわからなくなってきた。


「謝ってほしいわけじゃないの」


「……じゃあ、何を」


「もう一回、言って」


 ライルが、きょとんと目を瞬かせた。


「さっきの。……もう一回、ちゃんと言って。十年分、聞き逃してたんだから」


 一瞬の間のあと。


 ライルの耳が、みるみるうちに赤くなった。


 黒獅子と呼ばれる騎士団長の耳が、真っ赤だ。そんな顔を見るのは、生まれて初めてだった。


「……好きだ」


「もう一回」


「好きだ、リディア」


「もう一回」


「……あなたが好きだ。ずっと好きだった。これからも、ずっと好きだ。十年分でも、二十年分でも、何度でも言う」


 そこまで言って、ライルは少しだけ眉を下げた。


「……返事を、聞かせてくれないか。さすがに、心臓がもたない」


 北の砦で三日三晩囲まれても平気だった人が、心臓がもたない、なんて。


 私は涙を拭いて、精いっぱい、笑ってみせた。きっと、ひどい顔をしていたと思う。


「はい」


 左手を、そっと差し出す。


「ただの幼なじみは、今日で終わりにしてください。……ライル」


 ライルの手が、かすかに震えながら、私の薬指に銀の指輪を通した。


 小さな青い石が、窓から差しこむ秋の光を受けて、きらりと光った。


 その瞬間、ライルは、私の手を握ったまま、額を私の手の甲に押し当てた。


「……間に合って、よかった」


 かすれた声だった。


 大きな肩が、小さく震えている。


 私は、空いているほうの手で、彼の乱れた黒髪にそっと触れた。土埃と、汗と、遠い北の風の匂いがした。


「おかえりなさい、ライル」


「……ただいま、リディ」


 十年ぶりに呼ばれた、昔の愛称だった。




 それから、少しあとのこと。


 中庭から戻ってきた父と母は、私の指輪を見て、そろって目を細めた。


 父は「日没まで、まだ二刻もあったな」と言って、ライルの肩をばしんと叩いた。母は「十年分のお説教は、あとでゆっくりさせていただきますからね」とライルに微笑み、ライルは騎士の礼をとって「覚悟しております」と神妙に頭を下げた。


 翡翠亭を出ると、表通りには、なぜか騎士団の制服を着た男たちがずらりと並んでいた。


 十人、二十人……いや、もっといる。みんな遠征帰りのような、くたびれた格好だ。


「団長! 間に合いましたか!」


「どうでした!?」


 ライルが、私の左手を軽く持ち上げてみせる。薬指の指輪が、夕方の光にきらめいた。


 その瞬間、騎士たちのあいだから、地鳴りのような歓声が上がった。


「やったぁぁぁ!!」


「十年越しの『ただの幼なじみ』卒業だ!」


「猫の君、万歳!!」


(猫の君……?)


 嫌な予感がして、隣のライルを見上げる。


 ライルは、なんとも言えない顔で目を逸らした。


「……団の連中は、あなたのことを、そう呼んでいる」


「どうして!?」


「あの刺繍の作者だから、だそうだ」


 王国騎士団に、知らないうちにあだ名をつけられていた。それも、よりによって「猫の君」。


 頭を抱える私の横で、副団長らしき赤毛の騎士が、にやにやしながら近づいてきた。


「はじめまして、猫の君。いやあ、ようやくお会いできました。団長ときたら、この十年、口を開けば『ただの幼なじみだ』の一点張りで」


「……そう、ですよね。皆さんにも、そう言っていたんでしょう?」


「ええ、言ってましたよ。ただの幼なじみだ、ってね」


 副団長は、楽しそうに肩をすくめた。


「ハンカチを握りしめて、星を見上げて、手紙を書いては破り捨てながら。毎晩、ね」


「おい、ディルク」


 ライルが低い声で制止する。耳がまた、真っ赤になっている。


「団の者はみんな知ってましたよ。団長の『ただの幼なじみ』は、この国でいちばん重たい『ただの』だって」


 私は、思わず笑ってしまった。


 笑いながら、また少しだけ泣いた。


 この人は、十年間、ずっとこうだったのだ。誰にも本当のことを言わずに、言えずに、それでも隠しきれずに。


「ディルク。全員、本部に戻れ。遠征の報告書がまだだろう」


「えー、団長、せっかくのめでたい日なのに」


「戻れ」


「はいはい。――猫の君、団長をよろしくお願いしますね!」


 騎士たちは口々に祝いの言葉を叫びながら、ようやく引き上げていった。


 騒がしさが遠ざかると、夕暮れの通りに、私とライルだけが残った。


「……ごめん。騒がしい連中で」


「ううん。素敵な方たちね」


 私が言うと、ライルは少しだけ、ほっとしたような顔をした。


 そして、私の左手を、自分の右手でそっと包みこんだ。手のひらの、三日月みたいな傷跡が、私の指先に触れる。


「リディア」


「なあに?」


「もう、誰に聞かれても、ただの幼なじみとは言わない」


 ライルは、まっすぐ前を向いたまま、低い声で続けた。


「これからは、こう答える。――俺の婚約者だ、と。十年待って、ようやく手に入れた、俺のいちばん大事な人だ、と」


「……そんなこと、夜会で言ったら、大騒ぎになるわよ」


「構わない。十年分、言いふらす」


「言いふらすって……」


「黙っているのは、もう十分だ」


 そう言って、ライルは、繋いだ手に少しだけ力をこめた。


 もう二度と離さない、とでもいうように。


 夕焼けの空に、王城の尖塔が黒く浮かんでいる。今朝、窓からあの尖塔を見上げたとき、私はもう待つのはやめようと思っていた。


 でも、待っていたのは、私だけじゃなかった。


 この人も、ずっと、ずっと、待っていてくれたのだ。


「ねえ、ライル」


「なんだ」


「あのハンカチ、新しいのを刺繍してあげる。今度こそ、ちゃんとした獅子にするから」


 ライルは少し考えてから、真面目な顔で首を振った。


「いや。あれがいい」


「どうして?」


「あれは、俺の獅子だ。……それに、団の連中が拝めなくなる」


「もう!」


 笑いながら、私はライルの腕に寄りかかった。


 ライルは一瞬だけ身体をこわばらせて、それから、ゆっくりと力を抜いた。十年分の距離が、夕暮れの中で、静かに溶けていく。


 ただの幼なじみ、と言い続けた騎士団長は。


 私の縁談の席に乗り込んできて――そのまま、私の未来の席に、居座ることに決めたらしい。


(完)

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