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 星見ヶ丘のごてごてした土を足の裏に踏みしめながらじっと佇んでいた私の髪を、春の穏やかな風が撫でていった。

 三月中旬。まだ少し肌寒い季節だが、今日は比較的暖かく、空も綺麗に晴れわたった気持ちの良い天気だった。

 私にとって、今日はとても大切な日だ。それなのになぜか、心はどこまでも落ち着いている。

 しばらく一人で待っていると、丘の下の方に車が停められる音がした。それから数分の間があって、長い金髪を華々しく揺らしながら現れた美月の手には、いつぞや返したタッパーが握られていた。

「遅いよ、美月」

「遅くねーよ。時間どおりだろ」

 美月の目は真っ赤に腫れていて、一晩泣き明かしたことが誰の目にも明らかだった。

「美月、私と離れるのが悲しいんだね」

「な、何だよ」

「目が腫れてるよ」

「べつに、そういうことじゃねーし」

「私を想って泣いたんでしょ」

「ちげーし」

 しばらくからかってから、最初から気になっていた部分を尋ねてみる。

「それ、お菓子?」

「あ、うん。最後だし、ちょっとなんか作ろうかなって」

 タッパーの蓋を開けると、中には星形のクッキーがたっぷり入っていた。前のアメリカンクッキーとは違って、もっとオーソドックスな、平べったいバニラ色のクッキーだ。

「お前に似合うお菓子ってどんなのかなって思って、星にした」

「美月……」

 美月は顔を赤くさせながら目を逸らす。

「あのね、美月。私はたしかに星が好きだけど、星形は別に好きじゃない」

「な、なんだよ。いらねーのか?」

「んふふ、冗談だよ。いるに決まってる。ありがとう、美月!」

 今日、私たちはお別れするためにここへ来た。

 美月の父親の転勤で、元々二月ごろに引っ越す予定だったそうだが、美月が頼んで卒業式の後にずらしてもらったらしい。「友達が出来た。卒業するまで、その子と一緒にいたい」と美月に伝えられた父親は、非常な感激ぶりだったそうだ。これまで友達というものを作らなかった娘が突然そんな頼み事をしてきたのだから、親心というものを思えばその感激にも納得がいく。

 しかしこの転勤は美月にとって悪いことばかりではなく、引っ越し先の近所に父方の親戚が営む洋菓子店があり、そこで雇ってもらえることになったそうだ。

「あたし、パティシエになりたいんだ」

 ある日美月がさらっと語った夢だった。

「……前に将来の夢を聞いた時は何もないって即答してたのに」

「あの時は、ほんとになかったんだよ。でも、お前にクッキーとかケーキとか食べてもらって、それで、あたし、気付いたんだよな。あたしの作ったお菓子を美味しいって言って食べてもらえるのって、なんていうか、あの、しあわせ……だなって……」

 言っている途中で恥ずかしくなってきたのか、後半はごにょごにょしてきたけれど、何も恥ずかしがることなどない。なんて素敵な夢だろう。

「きっとなれるよ。美月のお菓子、ほんとに美味しいもん!」

 そう励ますと、今度は調子に乗りだしたのか、自分オリジナルの調理テクニックを語りはじめた。

 それ以来私も美月のパティシエの夢を応援しているのだが、その夢が引っ越しによって叶うなんて、嬉しいような、寂しいような。

「資格がなくてもパティシエは名乗れるから、洋菓子店で働きはじめたらその日のうちにも『パティシエです』って言えるとは思うんだけど、やっぱり資格があった方が便利ではあるんだよな。資格勉強する中で身に付く技術もあるだろうし」

 そんな風に語る美月の横顔は、いつになく真剣だった。

 あれから、美月は卒業まで毎日学校に来続けた。

 クラスで一番最初に美月を受け入れたのは、私の友人たちだった。遥香ちゃんは「最初は怖くておっかない人だと思ってたけど、よく考えると小夜子ちゃんの友達だもんね。悪い人なはずないよね」と言ってくれた。それから美月は遥香ちゃんたちとも少しだけ話すようになった。

 竹田先生に対して、美月が「あの、ありがとうございました……」と蚊の鳴くような声で言っていたこともあった。竹田先生は「こっちこそ、ありがとね。お礼なら入宮さんに言ってあげて」と、のほほんとした口調で言って、そのまま去っていった。私たちは顔を見合わせて、一緒に照れ笑いをした。

 すべてが急激に変わったわけではないが、ほんの小さな小さな一歩を何度か踏み出して、美月は少しずつ前へと進んでいた。

 一方の私にも、勉強の面でそれなりの前進があった。例の症状がすっかり消えて、学習がそれなりに(はかど)るようになり、少しずつだが遅れを取り戻せるようになっていた。そして何よりも大きかったのは、あの寺嶋さんに勉強を教えてもらえる機会が出来たことだ。カンニングの件を謝罪して以来、私たちはかえって仲良くなって、時々勉強会のようなものを開くようになった。もちろん一方的に私が寺嶋さんに教えてもらっているだけだが、「人に教えることで自分の頭の中でも整理出来るから、私にとってもすごく有意義なんだよ」と言ってくれたので、私も安心して教わることが出来た。

 そして私は、晴れて志望校に合格したのである。

 合格を伝えた時の反応が各人バラバラで面白かった。

 母は「ん、おめでとさん」と軽く言ってくれた。

 父は「すごいぞ小夜子! さすが俺の子だ!」と騒いでいたが、母に「さすが俺の子って……あんた中卒でしょ」とグサリと刺されていた。

 遥香ちゃんは文字通り跳びはねて喜んでくれた。

 寺嶋さんは落ち着いて「良かった良かった」と言ってくれたが、目にうっすらと涙を浮かべていたのを見て、私の方も泣いてしまって、手を握って「本当にありがとうございました」と堅苦しくお礼を言った。ちなみに寺嶋さんも、以前から目標にすると言っていた名門校に合格した。

 そして美月は号泣していた。

 あの星見ヶ丘での夜以来の赤ちゃん泣きを前にして、「よちよち。泣かないで美月ちゃん」と冗談で言ったら、「ぶっとばすぞ」と泣きながら返された。

 そんなこんなで、私たちは無事に卒業し、新たな世界へそれぞれ旅立つこととなった。

 そして今日は美月がこの町を離れる日なので、私たちが会える最後の機会だ。別れの場所は、星見ヶ丘にしよう。どちらから言いだしたわけでもないが、自然とそう決まっていた。

「引っ越しの準備で、家じゅうひっくり返してた時にさ」

 美月は想い出話でもするように、雲を見上げながら静かに語る。

「ママが書いた手紙が出てきたんだよ」

「手紙……誰あて?」

「あたし。と言っても、多分、あたしが産まれる前に書いた手紙だと思う」

 宝箱を閉めるような優しさで、美月はそっと目を閉じる。

「すっごい下手くそな字でさ、こんな風に書かれてたんだよね。『お前には沢山苦労をかけます。日本で生きていくのは難しいけど、頑張りなさい。お前を世界で一番愛しています』って。その手紙を読んだ時、ママがノイローゼになった理由が分かった気がした。多分、ママ、あたしがハーフだからって理由でいじめられること、分かってたんだろうな。それで、必死にあたしを守ろうとしてくれたんだと思う。慣れない日本語で手紙まで書いて、あたしを勇気付けようとしたんだな。必死になりすぎて、限界が来ちゃったみたいだけど」

 私は何も言わずに、美月の手を握った。

 今かけるべき言葉が見つからない。でも、見つからなくても構わない。ただ、私はあなたの味方だと、あなたが生きてくれるだけで私は嬉しいと、それだけ伝えられれば良い。

 だから私は、美月の手を握った。

 美月は照れくさそうにしながら、

「お前を見てると、なんか、ママみたいだなって思うよ」

 やっぱりそう思われていたのか。私の方も照れくさくなってくる。

「そう言えば、お父さんが車で待ってるんだよね?」

「ん? んん、そうだけど」

「あんまり時間かけちゃダメなんじゃない?」

「良いんだよ、あんなの。待たせときゃ」

「お父さんには厳しいんだね……」

「そりゃそうだろ。アイツはどれだけあたしのこと待たせたか。何年間も一人ぼっちにさせやがって。ほんと、最低な親だよ。それに、なんか、(くさ)いし」

「それは許したげてよ……」

「ま、しょうがないから戻るか」

 ああ、これで、本当にお別れなんだ。

 美月。私の一番の親友。初めてここで会ったあの日からまだ一年も経っていないだなんて、信じられない。私にとって、人生最高の友達。

「じゃあね、美月。さようなら。元気でいてね」

 美月は苦笑する。

「小夜子、お前はほんとに馬鹿だな」

「ば、馬鹿とは何よ!」

「さようならじゃないだろ」

 ああ、そうか。そうだね。

「……うん、美月、またね。またいつか、いつか満天の星を見上げて、二人で一緒に、笑い合おうね」

「約束だぞ」

「うん、約束。それに、十円の借りも返さなきゃいけないからね」

「十円?」

「何でもない! 美月、大好き!」

 最後に今日一番大きな声でそう伝えた。

 美月は顔を真っ赤にして、

「あんまでかい声でそういうこと言うなよ」

 と言うと、すぐにくるっと向き直って、下で待っている父親の元へと歩きだした。

 姿が見えなくなる直前に、もう一度くるっと回ってこちらを向くと、大きく手を振って、ここまで聞こえる大声で、

「小夜子~! あたしも、あたしも大好きだぞ~!」

 と叫ぶと、直後に逃げるように走り去っていった。

 まったく、最後まで恥ずかしがり屋なんだから。今度会った時、めいっぱいからかってやろう。

 車のエンジン音がして、それが聞こえなくなるまで、ここで手を振り続けた。見えていないと分かっていても、それでも手を振り続けた。

 また風が吹いて、私の髪を揺らした。やっぱり、ちょっと寒いな。早く家に帰ろう。

 帰り際、タッパーの蓋を開けて星形クッキーを一つだけつまんでみる。

「うん、美味しい! さすが美月!」

 クッキーを飲み込んだところで、丁度あの自販機の前に来た。

 何か飲み物でも買おう。お茶……コーヒー……炭酸……色々悩んで、私が押したのはグレープフルーツジュースのボタンだった。

「懲りないな、私も……」

 私はこれからも、過ちを繰り返すだろう。完璧な人生なんてあるはずがない。それでも、前を向いて、少しずつ、少しずつ進んでいくしかないんだ。一度や二度の失敗で、何もかも諦めてしまうなんて馬鹿馬鹿しい。人生は、まだまだ長いんだから。

 覚悟を決めて、ボトルを傾けて一気に飲み干す。

 春風を背に受けながら飲むグレープフルーツジュースは、少しだけ、苦かった。

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