29
見慣れない天井。白いベッド。薬品のような匂い。
目が覚めてから少しして、ようやくここが保健室であることを理解した。
そして自分がしてしまったことも、同時に思い出す。
遥香ちゃんに名指しされて、試験監督の教師がやって来て、そこで私の精神は限界を迎えたようで、意識を手放してしまったらしいが、その後教室はどんな空気に包まれただろうか。想像すると、また動悸がしてきた。
私のカンニングはクラスの全員に知られただろう。何せ皆の前で告発されたのだから。他のクラスの同級生にも、下級生にも噂はめぐるかもしれない。天文部で一緒だったかわいい後輩たちにも、きっと知られるだろう。私のことを慕ってくれていた後輩たちはどれだけ落胆するだろうか。
もちろん担任にも、他の教師にも知れわたっているはずだ。竹田先生の顔が浮かぶ。きっと悲しむだろうな。あんなに私のことを信頼してくれていたのに。
両親は、どうだろうか。学校側がわざわざ親にまで伝えたりするのだろうか。……おそらく、伝えるだろうな。こんな重要な時期に、こんな悪質なことをしたのだから。
明日から私は、どうやって生きていけば良いのだろう。これまでに築き上げてきたものすべてを失って、まだ何食わぬ顔で社会生活を送るなんて図々しいことが、私に出来るだろうか。出来なければ、どうなるのだろう。私はどうやって今後の人生を生きていくのだろう。
ベッドに寝転んだままあれこれと思案していると、保健の先生が近付いてきて、
「起きた? 無理しないでね」
優しい口調で言ってくれた。
この人も、私の罪を知っているのだろうか。
そう思うと優しい言葉も偽りに聞こえてくる。内心では私を見下して蔑んでいるに違いないんだ。
「大丈夫です。起きれます」
何も大丈夫ではないが、早くこの場から逃げ出したかった。
壁に掛けられた時計を見ると、すでにお昼を過ぎていた。テスト期間なので学生はもう帰宅しているはずの時間だ。こんなにも寝続けていたのか。
今すぐ帰ると保健の先生に告げると、「担任に伝えてくるね」と言って部屋を出ていった。
嫌だ。会いたくない。担任の失望の目が頭に浮かぶ。会いたくない。もう誰にも会いたくない。
私は鞄を抱えて、黙って保健室を出て、そのまま外まで一気に走った。全速力で駆けて、校門を出た後も息が尽きるまで走り続けた。フラフラになりながら道の途中に倒れ込んだ。涙が出てきた。もう私は、人前に出られないような人間になったんだ。
情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて、悲しい。
入宮小夜子として生きた十五年のすべてが間違いだったように感じられる。
息を整えながら、どうにか誰とも会わずに家の前まで帰り着いた。
――もし、学校から家に連絡が行っていたら?
玄関のドアに手を掛けた時、再び浮かんできた疑心が私を凍り付かせた。
極力音を立てないように、恐る恐る扉を開く。
中から声が聞こえる。叫ぶような声。これは、母の声だ。そして、父の声も。
父は普段この時間には帰ってこない。
私は直感した。やはり学校から母に連絡が行ったのだ。そして母から父へと連絡が回り、仕事を早退して帰ってきたのだろう。
二人は大きな声で怒鳴り合うように会話しているが、何と言っているのか今一つ聞き取れない。それは私の心臓の音があまりにもうるさすぎるからだと、二、三分そこに立ち尽くしてようやく気付いた。
聞きたくない。けれど、聞かなければならない。両親が私を何と言っているのか。耳をすまして、言葉を拾っていく。
「あの子のやりたいようにやらせるって、綺麗事みたいに言って、ようは何にも見てないだけでしょ!」
「見てるから言ってるんだろ。小夜子には期待をかけすぎたらダメなんだよ」
「自分の娘に対して期待しないって何よ!」
「そうじゃない! 小夜子は求められると求められただけ返そうとする子なんだから、プレッシャーをかけるなって言ってるんだ」
「わたしだってそんなことしてないわよ!」
「でも実際に小夜子は限界だったんだろ!?」
「そうよ! だからわたしたちがもっと見てなきゃいけなかったのよ! あなたはずっと放任主義だとか何とか言い訳して、あの子から目を背けて――」
「違う! 俺は小夜子の苦しみに前から気付いていたから――」
「気付いてたならなんで――」
音を立てないようにそっと扉を閉めて、憎いぐらいに晴れた空の下を、私は走りだした。
路傍に植えられた欅の葉が、風に揺られてカサカサ鳴った。チィチィと囀ずる鳥の声が一つ、二つ。それから、町工場のガシャガシャした音が遠くに聞こえる。人の声はどこにもしない。両親の叫び声だけが、まだ後ろで響いているような気がする。
もう、家にも帰れない。
私のせいで、家庭は崩壊した。母にとっても父にとっても、私はいない方が良かった存在なんだ。
家にも学校にも居場所をなくした。未来の希望も過去の信頼もすべてなくした。親にも教師にも見捨てられ、友達にも裏切られた。いや、裏切ったのは私の方か。ただでさえ勉強も運動も出来ないし何の才能もないのに、この状況からどうやって生きていけば良いと言うのか。私、何のために生まれてきたんだろう。
もう何もない。何の希望もない。
私には、何も残っていない。
世界のすべてが私の敵だ。
どうやって生きていこう。明日からどうやって、どうやって……。
慣れ親しんだ町の中をあてどなくさ迷いながら、考えて、考えて、考え続けて、私はようやく一つの答えを見つけた。
限りなく正解に近いけれど、間違いなく不正解な答え。
生きることが出来ないなら、あとは一つしかない。
死ねば良いんだ。
そして私は、ほとんど無意識のうちに町の南へ向かっていた。
星見ヶ丘の、木枠とロープを越えた先。あそこから落ちれば、きっと死ねる。
待っててね、おじいちゃん。




