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美月と喧嘩別れしてから丁度一ヶ月後の十月中旬に中間テストが控えていたが、私の学力の問題は一向に解決を見ていないどころか、より深刻さを増していた。
近頃私はある症状に悩まされていた。勉強の真っ最中に、突然頭の中に靄がかかったようになり、教科書やノートの文字が読めなくなり、計算も出来なくなって、過去に暗記したはずの内容も全く思い出せなくなってしまうのだ。
その症状には前触れがあって、まず喉が締められたように息が苦しくなり、高熱時のような苦痛が全身を襲う。それから次第に頭が回らなくなっていき、酸欠状態のように意識が遠退いていく。
一度その状態になると、回復するまでに三十分はかかった。
勉強をしていると不定期にこの症状が現れるので、まともに机に向かうことすら困難になってきた。
自分の学力が急落したことへの焦り、将来への不安、そして親友との決別など、様々な問題がストレスとなり引き起こされた精神性の疾患であり、病院にかかれば何らかの病名が付けられるのではないかと推測出来たが、親や周囲に心配をかけたくない一心でこの症状のことは誰にも話さなかったので、病院へ行くこともないまま自分一人で抱え込んでしまっていた。
そのために勉強も出来なくなり、余計に学力は落ちて、焦りは増し、さらに症状が悪化する……という悪循環に陥っていたが、理屈では分かっていてもどうすることも出来ず、対処に窮していた。
このままテストにまともに挑んでも結果は目に見えている。待ち受けるものは悲惨な点数以外になく、必死に繕ってきた優等生の殻が根こそぎ剥がされるのも時間の問題であった。
試験前日、追い詰められた私が最後の手段として用いたのは、『ヤマを張る』というおよそ優等生らしからぬ戦法だった。
ある一方向にのみ当たりを付けて、その部分だけを徹夜して頭に叩き込んだ。途中何度か例の症状が襲ってきたが、幸いにも軽度のもので済んだので、あとはテスト当日にこのヤマが当たることを願うばかりだった。
翌朝、寝不足の目をこすりながら早起きして、すぐにまたノートを開く。
よし、大丈夫だ。昨晩集中して学んだ部分はちゃんと覚えている。大丈夫。きっと何もかも上手くいく。
家を出る直前にスマートフォンを開いて時間を確認する。ついでに、何かメッセージが来ていないかとも思って見てみたが、やはり何もなかった。
美月との連絡は一ヶ月前を最後に途絶えている。夏休み中に毎日続けられた他愛のないやり取りが、スマートフォンの中にだけ無機質に残されている。
美月は今、何をしているだろう。もう見られないあの顔、もう聞けないあの声。すべて私が絶ちきってしまった友情。
今思い返しても、夏休み中のあの日々は本当に楽しかった。きっと、楽しすぎたんだ。だからダメだったんだ。美味しい食べ物ほど体に悪いのと同じように、楽しすぎる日々は人生の毒になるのだろう。
美月と会うことはもう二度とないのかもしれない。でも、それで良いんだ。
スマートフォンのカバーを閉じるパチンという音が、後ろ髪を引かれるような気持ちに終止符を打つ。
学校へ行かなきゃ。一時の楽しみに溺れたせいで一度は手放してしまった私の信頼と未来を、取り戻しに行かなくちゃ。
直前まで私の心には、どこか清々しいような、吉事への期待とでも呼ぶべき感覚が満ちていたのだが、問題用紙が配られてテストが開始された今、その根拠のない希望は粉々に打ち砕かれて、途方もない苦しみだけが私の肩に重く重くのしかけられていた。
鉛筆を持つ手が震える。涙が出そうになる。誰か助けてと叫びたくなる。一つの教室に数十人がひしめき合うこの空間にいながら、まるで宇宙に自分一人しかいないような孤独感に襲われている。
嘘かと思うほど、何も分からない。ヤマは完全に外れた。
教室中にカリカリと鳴りわたる筆記音が、私を地獄へと突き落とすための行進曲に聞こえる。
喉が締め付けられる。息が出来なくなる。辛い、苦しい。視界が滲んできた。これは涙のせいだろうか、酸欠の症状だろうか。せめて答えられそうな問いを少しでも見つけようと、問題用紙の上に目を滑らせても、水に墨を垂らしたようにすべてが掴みようもなく沈んでいく。
苦しい。息が出来ない。意識が遠ざかってきた。誰か、誰か助けて……。
絶望の中で私は一つの光を見いだした。
それは、悪魔のように甘美な声で私に囁きかける誘惑の光だった。
右斜め前の席に座る寺嶋さんの解答用紙が、そこに記された文字の一つ一つまで、私の目にはっきりと見えたのだ。
自分が持っている問題用紙の文字すら読めなくなっていた私に、寺嶋さんの文字がはっきりと見えたこと――見えてしまったことは、もはや天啓と言うより他はなかった。
私は見えた解答を片っ端から写していった。カンニングはいけないことだ、などというごく当たり前の理念は、悪魔の囁きの底深さの前では何の意味もなさない飾り物に過ぎなかった。
こんなに簡単なことで、私は救われるのだ。この一ヶ月半、学力の問題に私がどれほど苦しめられたか。生き地獄とはこのことかというほどの苦しみだった。
それが、クラス一の秀才の解答を丸写しするという、何の苦労の必要もない極めて簡単な方法であっさりと解決してしまったのだ。悩んでいたのが馬鹿らしくなってくる。
左右二列に並べられた解答欄のうち、左半分をすべて埋め終わる。あとは右半分だが、寺嶋さんの腕に隠れてよく見えない。
何とかして見なければ……。
私はぐっと身を乗り出す。前のめりになり、首を伸ばす。端から見れば明らかに不自然な体勢であるが、夢中になっていた私はそれに気付かなかった。
もう少し、もう少し……!
どんどん前のめりになった私の後ろの方から、その時突然声が聞こえた。
「あの、先生!」
ハッとして、急いで姿勢を元に戻す。
試験監督の教師を呼んだ今の声は、遥香ちゃんだ。
「あの、小夜子ちゃん……入宮さんが」
その声を聞いた瞬間、全身の血の気が引いた。
教師がつかつかとこちらへ歩いてくる。
ああ……何もかも、終わった。
カンニングがバレたんだ。そして、それを遥香ちゃんに――友達だと思っていた子に告げ口された。
何もかも、終わった。
親にとっての良い子供、教師にとっての良い生徒、同級生にとっての頼れる学級委員、部長……。私が守ってきた拙い偶像のような自身の姿が、ガラガラと崩れ落ちていく。
助けて、誰か、助けて。
魂が体から抜けていくような感覚に襲われながら、後悔の感情だけが明瞭に浮かび上がった。
そのまま私は、意識を失ってしまった。




