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「入宮さん、いる?」
給食の後のお昼休みに、私のクラス――三年二組に顔を覗かせたのは、竹田先生だった。
「あ、いますよ。小夜子ちゃーん! 呼んでるよー!」
大きな声で中継してくれたクラスメイトの声を聞くより早く、私は席を立って竹田先生の元へ向かっていた。
教室の入口からこちらを窺う竹田先生の表情には、憤怒や焦燥の色は見られない。それほど切羽詰まった用件ではないのだろうなと察せたが、それでも少しだけ早足に歩く。私のために待たせるわけにはいかない。
クラス替え直後でまだあまり馴染みのないクラスメイトも多かったが、先ほどの大声のおかげで皆の視線がこちらに集中していた。彼らが私の動きを目で追っていることが妙に気恥ずかしく感じられてしまい、早くこの視線の渦を通り抜けてしまいたいという気持ちもあって、さらに足を早めた。
喉を軽く締められたような息苦しさを抑えながら、入口で待つ竹田先生の元までたどり着く。
「先生、どうしましたか?」
「あぁ、ごめんね入宮さん。せっかくお友達とお話ししてるとこ」
「いえ、大丈夫です」
「ちょっと、頼みごとがあって……。部室まで来てもらえる?」
私は「はい」と短く答えて、先生の後に付いて歩きだす。
季節は春も深い四月の下旬で、窓の先には校庭を彩るプラタナスの大木が、青々とした葉を風にそよがせていた。射し込む日光を背に受けた竹田先生の小柄な体が、薄く引き伸ばされたような長い影を前方に落としている。先生より少しだけ背が高いはずの私の影は、不思議と先生の影の半分もなかった。
竹田先生は天文部の顧問を務めている三十代の女性教師で、丸縁の眼鏡とおかっぱの髪型から想像されるとおり、おっとりした優しい先生だ。やや頼りないところもあるが、親しみやすさから生徒の間では人気が高い。
もちろん私も竹田先生が好きだし慕ってもいるが、私たち二人の関係性を一歩引いたところから眺めてみると、どちらかと言うと先生の方が私を頼りにしている節がある。それは私が天文部の部長だから――というのもあるが、やはり私の性格や立場そのものに起因しているように思う。
『優等生』
私を一言で表すなら、誰もがそう答えるだろう。
真面目で、勉強熱心。テストの点数は常にクラス上位で、友達に勉強を教えてあげることも多い。遅刻もしない。忘れ物もしない。もちろん喧嘩など一度もしたことがない。中学に入ってから三年間、毎年学級委員を務めあげており、クラスメイトからも教師からも信頼は厚い。
自慢のように聞こえるかもしれないが、客観的に見て、私はそういう生徒だった。そういう生徒だと思われるための努力を続けてきた。
その甲斐あってか、竹田先生も私に全幅の信頼を寄せてくれているようで、部員間の揉めごとの対応はもちろんのこと、設備の整頓や拡充の相談など、天文部にまつわるあらゆる問題にいちいち私の意見を求めてくるのがお決まりになっていた。
部活動の部長というのは普通ここまでするものなのだろうか? と疑問にも感じるが、私はこの状況を決して不服とは捉えていなかった。頼られるのは嬉しい。私が模範的な『優等生』であることを実感出来るから。私の努力が実を結んだ証拠に他ならない。
今日わざわざ教室まで頼みごとにやって来たことも、私に対する先生の日頃の接し方に照らし合わせてみれば、特段驚くようなことではなかった。
「新しいクラス、もう慣れた?」
部室に着くと、先生は本題を脇に置いて、まずはそんな質問から入った。
「入宮さんも、もう三年生だもんね。高校受験が控えてるから大変な時期になるけど、友達との想い出を作ることもやっぱり大切だからね。中学最後の一年間、気負いすぎずに楽しく過ごしてほしいんだよね。まぁ、入宮さんなら何の心配もないだろうけど」
丸い眼鏡の奥の丸い目をうっすらと細めて、静かに言った。『入宮さんなら――』は、先生の口癖のようなものだった。相変わらず信頼されていることを喜ばしく思う反面、小さな意識の塊のようなものが胃のあたりからせり上がってきて、また少し息苦しくなった。
「はい。去年からの友達もいますし、新しく同じクラスになった子たちも……大半が優しくて良い人みたいだから、楽しく過ごせそうです」
気楽そうに装いながら、頭の中では慎重に言葉を選ぶ。『みんなが』と言いかけた声を止めて、『大半が』という歯切れの悪い言葉に置き換えたことに、先生は気付いただろうか。
うちのクラスでは、今のところいじめや軋轢のようなものは見かけない。だが、問題はたしかに存在したのだ。
「そう、それなら良かった」
私の口が隠した言葉に気付いたかどうか、先生は穏やかにそう呟いて、軽く咳払いをしてからいよいよ本題となる用件を切り出した。
「それで、あの……今日呼んだのはね、倉元さんのことなんだけど」
その名を聞くと同時に、私はどきりとした。先ほど隠した言葉の在処をあっさりと探り当てられたような気まずさを感じる。
『みんな』という言葉からあぶれてしまったその名前。平和そうなクラスに内在する問題ごとの正体。
私の小さな影は、その名に怯えたようにさらに小さく縮こまり、自分の足元にすがり付いたまま、ふるふると揺れていた。




