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春は慌ただしく過ぎていき、日中は初夏の熱気を肌で感じる季節になっていたが、晩方はまだ肌寒く、天体観測には上着が必須だった。
スマートフォンで美月にその旨を連絡すると、とくに返信はなく既読マークだけが静かに付いた。
あれから直接会ってはいないが、毎日のように連絡だけは続けている。と言ってもほとんど一方通行で、私が今日の出来事などを報告するばかりだ。返事の必要がないと判断すると、美月は何も返してこない。既読マークの付く早さを見ると、どうやらスマートフォンを携帯する習慣は出来たらしいが、私からの連絡を心待ちにしていたりするのだろうか……と自惚れてみるものの、そのわりには向こうから連絡してきたことは一度もない。
天文部の野外活動の日が近付くにつれて連絡の頻度は高まってきたが、当日の今日になってもまだ、美月は来るとも来ないともはっきりした結論を伝えてきていなかった。
心配された天候はおおむね良好で、天体観測に支障はなさそうだ。
最後にもう一度、念押しのように時間と服装と持ち物を箇条書きにしたメッセージを送る。
すぐに既読マークが付く。
相変わらず返事はないが、私は美月を信じることにして、スマートフォンを置いて支度に取りかかった。
美月に会えるとするなら、以前借りたタッパーを返すべきタイミングだろうか? と考えたが、あの日のやり取りを思い出して、やはり今日は持っていかないことにした。このタッパーはもう一度美月の家へ遊びに行くための口実になる。彼女もきっとそれを望んでいる。
家を出る直前に再度スマートフォンを確認してみたが、やはり返信はない。
「お母さん、行ってきます!」
とても楽しみで、ちょっとだけ心配な夜が始まる。
星見ヶ丘に現地集合というプランになっていたが、約束の時間の三十分前に着いた私よりも先に、すでに何人かの部員が集まっていて、今夜のイベントに対するみんなの期待の高さが感じられた。
「小夜子ちゃん待ってたよー」
「これであと……二人?」
「竹田先生がまだ来てない」
「あの人いっつも一番遅いからなー」
みんなが口々に楽しそうに騒いでいる。
あと二人という言葉が聞こえたが、この勘定に美月はもちろん含まれていない。美月が来るかもしれないということを、私はまだ誰にも言っていない。言うべきだろうか。でも来なかったら……。
色々なことを考えているうちに、残りの二人がやって来て、お決まりどおり最後に竹田先生ものんびり現れて、ついに普段の天文部メンバーが全員揃った。
「それじゃあそろそろ始めよっか」
最後に来たのに、ずっと待ち構えていたような言い方で竹田先生が指揮棒を振る。みんなが和やかに笑う。
天文部のこの空気感が、私は好きだ。
美月が来たら、この空気はどう変わってしまうのだろうか。それとも、変わらずにいてくれるのだろうか。
分担してレジャーシートを敷いたり、天体望遠鏡を組み立てたりするのを手伝いながら、どうにも心が落ち着かず、丘の入口のあたりを何度もちらちら見やる。そこには暗闇だけがあって、私の期待を嘲笑うように空気ごと静まりかえっていた。
組み立て終わった天体望遠鏡をみんなが順番に覗き込み、楽しそうにはしゃいでいる。
この時間になってもまだ来ないんだ。美月はきっと、もう来ないのだろう。
広大な星空の下で、私だけが取り残されたような感覚に陥る。
「あ……」
部員の一人が、入口の方を見てそんな声をあげた。
すぐに察した私が振り向いた先には……。
「美月!」
思わず大きな声が出た。
場がざわめく。
私はみんなの戸惑いの視線を背に受けながら、美月の元へと走り寄る。
美月はこちらを鋭い眼差しで睨んでいた。初めて会った時と同じ、この世のすべてを憎んでいるような目。
けれど今の私には分かる。この目は、彼女の防衛本能がそうさせただけの、身を守るための手段に過ぎない。私と二人きりの時にはもう見せなくなっている、初対面の相手に見せる警戒のポーズ。
言うなればこの状態は、『よそ行きの美月』だ。
「……時間、あってるよな?」
美月は私にだけ聞こえるような小声でそっと尋ねてきた。
ああ、そうか。私たちが予定の時間より早く集まったから勝手に前倒しで始めただけで、美月はちゃんと時間どおりに来てくれたんだ。私が夜の冷え込みについて何度も脅したせいか、少し過剰なほどにモコモコした服装をしているのを見ても、きっと事前に準備してくれていたのだろう。
「うん、大丈夫だよ。あってる」
あってるけど、遅いよ。
ずっと、ずっと待ってたよ、美月。
後ろで部員たちがざわざわとしている。振り返って見ると、幽霊でも見るような目で怪しんでくる子もいれば、泣きだしそうな下級生もいた。
さて、ここからどうしようか。
私が上手く間に入って取り成さなくては。
「あ、倉元さん。来てくれたんだ。天体観測は初めて? 入宮さん、やり方教えてあげてくれる?」
場の空気を察知しているのかいないのか、のほほんとした口調で竹田先生が告げてきた。先生のお気楽さが、今は救いになる。
「初めてじゃないけどな」
美月はまた、他の誰にも聞こえないような声でぼそりと呟いた。
私はなんだか嬉しくなって、ニヤニヤしてしまう。
この広い空の下で、二人だけが知っているちっぽけな秘密を、私たちはともに抱いていた。




