1-8
講義室を出ると、空気が少し冷たく感じた。
高い位置にあった窓から見えなかった空が、廊下の先には広がっている。
誰も、すぐには話さなかった。
さっきまでざわついていたはずの訓練生たちは、
それぞれ手にしたコンパスや地図を見つめ、
言葉を探しているようだった。
「……思ってたのと違うな」
ぽつりと、誰かが言った。
否定でも、不満でもない。
ただの実感だった。
「剣、振らせてくれると思ってた」
「魔法の訓練もないのかよ」
小さな声が続く。
けれど、どこか軽口めいていて、
本気で不満を言っているわけではなかった。
僕は黙ったまま、
配られた地図を広げた。
本当に簡素なものだった。
主要な街道と、川、山。
そして、端の方に――何も描かれていない空白。
教官の言葉が、頭の中で繰り返される。
――帰れない冒険者は、評価されない。
それは、父の言葉とよく似ていた。
「疲れた時に進むな」
「迷った時は、必ず戻れ」
胸の奥で、点と点が静かにつながっていく。
廊下の先で、
先ほどの教官が足を止めた。
振り返らずに言う。
「……そういえば、名乗っていなかったな」
一瞬、全員の視線が集まる。
教官はようやくこちらを向いた。
「俺はガルド」
「階級はB。未到達地域先遣隊に所属していた」
ざわり、と空気が揺れた。
B
まだ訓練生である僕たちからすれば、
はっきりと“上”の階級だ。
冒険者のほとんどが階級Fで引退する。
僕の父や母も階級がEだった。
「今は、育成場の実地講義担当だ」
誰かが恐る恐る聞く。
「……どうして、さっき名乗らなかったんですか?」
ガルド教官は、少しだけ目を細めた。
「普通に忘れてた」
その一言で、誰も何も言えなくなった。
「午後は、外に出る」
再び歩き出しながら、教官は言う。
一瞬、空気が動いた。
「訓練ですか?」
誰かが尋ねる。
「違う」
ガルド教官は即答した。
「観察だ」
育成場の外は、
囲われた森だった。
整備はされているが、
あえて自然に近い状態が保たれている。
「今日は戦わない」
教官はそう前置きしてから言った。
「三人一組になれ」
僕は、近くにいた二人と目が合った。
一人は、体格のいい少年。
剣を腰に差している。
もう一人は、細身で、
魔法書を大事そうに抱えている。
体格のいい少年が、にっと笑って話しかけてきた。
「俺の名前はフロックだ!君たちは?」
「僕はバルト!」
魔法書を抱えた少年も、負けじと名乗る。
「よろしくね!」
「僕はライズ。よろしく!」
名乗った瞬間、
少しだけ緊張が解けた気がした。
僕たちはぎこちなく、三人で並んだ。
「お前たちの仕事は簡単だ」
ガルド教官は、地面に棒で円を描いた。
「この範囲を一時間歩け」
「戦うな」
「魔法を使うな」
ざわめきが起きる。
「やることは三つ!」
教官の声が森に響く。
「今いる場所の地形を書く」
「危険性を知り、地図に記す」
「そして――」
一拍置いて、
「確実に、安全に戻れる道を書け!」
「では以上だ」
「各組の“帰還”を期待する」
森に入ると、
思ったより音が多かった。
風。
葉の擦れる音。
遠くの鳥。
フロックが、落ち着かない様子で周囲を見回す。
「……何も起きないな」
「あっ」
バルトが、地面を指さした。
「ここ、踏み固められてる」
確かに、
人が通った痕跡がある。
僕は、地図に小さく印をつけた。
進むにつれて、
足元の感覚が変わる場所があった。
湿った土。
滑りやすい根。
「ここ、危ない」
そう言うと、
二人は素直に足を止めた。
大したことじゃない。
でも、無視すれば転ぶ。
それだけの違和感。
一時間後、
集合場所に戻った。
誰も怪我はしていない。
魔物にも会っていない。
それなのに、
なぜか疲れていた。
ガルド教官は、
無言で各組の地図を見て回る。
「ここ」
僕たちの地図の、
戻り道に引いた太い線を指した。
「なぜ、二重に描いた」
「一つは来た道です」
「もう一つは、遠回りでも安全な道です」
教官は、ほんの一瞬だけ口角を上げた。
「いい」
それだけだった。
夕方、寮に戻る途中。
僕は、今日の地図を握りしめていた。
派手な成果はない。
誰にも大きく褒められていない。
それでも、
確かに一歩、進んだ気がした。
――帰れる線を引いた。
それだけで、
胸の奥が、少し誇らしかった。
そして思う。
あの教官は、
“行く人”ではなく、
“帰らせる人”なのだと。
それはきっと、
冒険者にとって、一番信頼できる存在だ。




