1-2 荷車の音がする朝
僕がまだ小さかった頃、朝はいつも、荷車のきしむ音で始まっていた。
がたん、ころん。
木の車輪が土を踏む音。
目をこすりながら外に出ると、
父と母はもう準備をしている。
「起きたか」
父はそう言って、笑った。
その笑顔はいつも少しだけ疲れていて、
でも嫌そうには見えなかった。
母は木箱の中身を確認しながら、
鼻歌を口ずさんでいる。
「触っちゃだめよ、これは大事なものだから」
箱の中には、
乾いた肉や、硬いパン、水袋。
僕にはどれも同じに見えた。
「これ、宝物?」
そう聞くと、父は首を振った。
「宝じゃない」
「でも、ないと困るものだ」
その意味は、よく分からなかった。
村には、時々知らない人たちが来た。
地図を確認する人。
体中に包帯を巻いている人。
無言で水を飲む人。
怖そうな人もいたけれど、
父と母は、誰に対しても同じだった。
「ここで少し休んで」
「水はまだあるわ」
夜になると、家の暖炉で彼らと父と母が話していた。
「道が崩れてた」
「地図、間違ってたな」
難しい言葉は分からない。
でも、笑っている人が少ないのは分かった。
それでも、
翌朝には、また歩き出していく。
ある日、
僕は母に聞いた。
「どうして、あの人たち、どこ行くの?」
母は少し考えてから答えた。
「まだ誰も言ってない場所にね」
「分からないままだと、困る人がいるの」
その時は、それ以上、聞かなかった。
ただ、
地面に広げられた地図だけを、じっと見ていた。
線が引いてあって、
線が途切れている場所がある。
「ここは?」
と指さすと、父は言った。
「まだ、誰も帰ってきてない場所だ」
その言葉が、なぜか怖かった。
夜、布団に入っても、
外の音が聞こえる。
荷車の音。
足音。
低い声。
その中で、
僕はいつも思っていた。
――あの線の先は、どんなところなんだろう。
剣も魔法も、
まだ知らない頃。
ただ、
世界には、まだ知らない場所がある
それだけを、確かに覚えた。
それが、
僕の一番最初の記憶だった。
それからしばらくして、僕は「帰ってこない」という言葉の意味を知った。
その日は、朝の荷車の音がしなかった。
代わりに、村の入り口が少しだけ騒がしかった。
いつもより低い声。
短い言葉。
笑い声は、ひとつもない。
父と母は、いつもより早く外に出ていった。
僕は言われなくても、家の中で待っていた。
しばらくして戻ってきた母は、
何も言わずに、僕の頭を撫でた。
父は地図袋を机の上に置き、
黙ったまま椅子に座った。
「……今日、来るはずだった人たちは?」
僕がそう聞くと、
父は少しだけ、視線を落とした。
「来なかった」
それだけだった。
数日後、
知らない人たちが、村に来た。
鎧の色が違った。
鎧にCの文字が刻まれていた。
歩き方が、どこか急いでいた。
父と母は、その人たちに荷を渡し、
何度も地図を広げていた。
僕は、少し離れたところから見ていた。
「この辺りで、信号弾が上がったはずなんだ」
「記録では、ここまで戻る予定だった」
地図の上に、指がいくつも重なる。
その指先が示す場所は、
あの線が途切れている場所だった。
胸が、ぎゅっとした。
その夜、
母は僕を抱きしめたまま、しばらく離さなかった。
「……怖かった?」
そう聞かれて、
僕はうなずいた。
「でもね」
母は、ゆっくりと言葉を選ぶように話した。
「行った人たちは、無駄なことはしていないわ」
「戻れなかったとしても、誰かが“そこまで行ける”ってことは、分かった」
僕は、分からないまま、母の服を握っていた。
怖い。
悲しい。
でも、それだけじゃない。
その感情に、名前をつけられなかった。
しばらくして、
新しい地図が届いた。
父はそれを広げ、
古い地図と重ねて見ていた。
線は、少しだけ伸びていた。
ほんのわずか。
それでも、確かに。
「……増えてる」
思わず、声が出た。
父は、静かにうなずいた。
「良かった…あの人たちは無事辿りつけたのか…」
僕は、その線を指でなぞった。
怖かった場所。
誰も帰ってきていない場所。
でも、もう完全な空白ではなかった。
その日から、
僕は地図を見るのが、少しだけ変わった。
前は、
どんな場所なんだろう、と考えていた。
今は、
ここまでなら、行けるんだ、と思う。
危険な場所は、危険だと分かる。
戻れない場所は、戻れないと分かる。
分かる、ということが、
誰かを守ることになる。
そう、初めて知った。
夜。
布団の中で、僕は目を閉じる。
外では、いつもの音がする。
荷車の音。
足音。
低い声。
それらは、
怖い音じゃなくなっていた。
世界は、まだ描ききれていない。
でも、
誰かが線を引き、
誰かが戻り、
誰かが次へ進む。
その繰り返しで、
少しずつ、広がっていく。
剣も魔法も、
まだ遠い話だった。
ただ僕は、
線の先を見たいと思った。
そして、
必ず戻ってくる線を、引きたいと思った。
それが、
僕が冒険者を目指すよりも前に、
胸の奥に生まれた、
小さな決意だった。




