〇八。
結局、鈴華は黒服の女を見失ったが、そのことに気を留めることなく、和子たちとの待ち合わせの場所――二丁目の札幌電話交換局前へと急いだ。
剣道をやっていたこともあって「無声堂」――第四高等学校武術道場――には興味があった(……鈴華は近代的な体育館でしか竹刀を振った経験がない)のだけれど、大場優菜と長尾に遇ってしまえば、なんだかそんな気になれなくなってしまっていた。
食道楽のカフェの前を道なりに視界の開けた左手を見やれば、芝生の広場の上には何組かの星南学園の生徒らが、秋の陽だまりの中、思い思いに談笑している。
遠足の前には「今さら明治村?」なんて不満を垂れていたわりに、皆楽し気だ。
昼食は、ここの芝生の端の休憩所でお弁当が配られることになっている。
鈴華はしばし足を留め、そんな芝生の風景にぼんやり見入っていた。
と、そんな秋の陽射しの中、芝生の片隅に黒い影を見たような気がした。
影がふっと揺らいだように視界の端へと動いて、すぐに視界から消えた。
追いかけて目線をやっても、もう影はなかった。
――あれ? なんだろう……。
怪訝に小首を傾げることになった鈴華は、唐突に背後から声を掛けられた。
「――…ぶちょー、……ぶ・ちょー!」
よく知っている声……。向き直れば、濃紺ダブルのブレザーに報道倶楽部の腕章を付けた女子生徒三人組が、坂を降りてくるところだった。真ん中を歩くのが声の主、〝ナミちゃん〟こと十波良華だ。それで鈴華は、そろそろ時間だと思い至った。
ナミちゃんの率いる二班は、午前は四丁目のカフェ周辺が担当だった。
鈴華が右手を上げて応えると、ナミちゃんらは手を振って近付いてきて、
「スタンバイ?」
報道倶楽部だけの仲間うちの言い回しで〝準備できてるか?〟と訊いてきた。
鈴華は応えた。
「――スタンバイ」
この場合、〝準備できてる〟という意味の他に、〝がんばろ!〟という意味もある。……どんな意味ででも〝スタンバイ〟一つだ。
報道倶楽部の面々はそれぞれに笑みを浮かべ肯き合った。……鈴華も気を引き締め直す。
そうして意気揚々の三人とすれ違い、鈴華は七条坂を上っていった。
緩い曲がり路の坂の上に出ると、白く塗られた木の柱の上にスレートの屋根の乗った京都市電のりば(市電京都七条駅)が見えてきた。その向こうには同じく京都七条に在った巡査派出所の赤レンガタイルも見える。
時刻は十時ニ十分をいくらか過ぎた頃だった。
もう和子たちは着いてるかな?
鈴華はちょっと小走りになって市電の線路を越えた。
と、その背に和子の声を聴くことになった。
「鈴華!」
肩越しに振り見やると、三丁目の方から、肩を並べた和子と高橋がゆっくりと歩調を合わせてやってくるところだった。
線路を渡ったところで足を留め向き直った鈴華は――。
…――あれ?
おかしな具合に風が吹いた……と感じた。
坂を下りて近付いて来る和子と高橋へと向けた視界の左の端に意識がいった。
そちらの方に目線が動く――。
赤い緋毛氈の敷かれた腰掛けの並んだめん処の間口前、客の姿のない腰掛けの列の間にブレザー姿の男子生徒の背中があった。
何かと対峙するようにわずかに腰を落とすようにした彼の向く先には…――何だろう? ちょっと上手く形容できないが…――、そう、強いていうなら〝黒い影〟が揺らいでいた。
――?
なんだろうと、そちらへ目を凝らしたとき――
男子生徒がこちらを視線に気付いたかのように、肩越しに顔を向けた。
――…岬?
目が合ったかもしれない。
すると、ふっと陽射しに雲が掛かったように視界が翳ったと思うと、音が消えて……、
「…――ダメです! ストーーーップ‼」
アルトのトーンの声がした。
――その声に、え⁉ と足の止まった鈴華のほんの目と鼻の先を、警鐘をけたたましく鳴らした路面電車が通り過ぎて行った。風圧で鈴華の髪が舞う。
周囲の音が戻ってきてから、鈴華はやっと路面電車の進行方向……市電のりばの方に視線を向けた。
いつの間にこんなに近くまで来ていたのだろうか。
つい今し方まで路面電車の姿はなかったし、警鐘も聴いてなかったのに……。
あずき色とクリーム色に塗り分けられた車両は、何事もなかったように路面と同じ高さの市電京都七条駅に乗り付けられ、運転台の昇降口から、やはり何事もなかったような乗客たちを降ろしているところだった。
――…あれ?
鈴華は、はっと思いかえって向かいのめん処の面前に視線をやった。
そこには何もなく、まるで最初からそうだったかのように赤い腰掛けだけが整然と並んでいた。小さく首を捻った鈴華は、それから再びはっとして、今し方に停車したばかりの路面電車へと駆け出した。
車両の前方に回って運転台を見上げる。そこに立つ青い詰襟姿の運転士と目が合って、鈴華は小さく会釈した。ひょろり長身の運転士の方も会釈を返す。
バツが悪くなり、くるり踵を返した鈴華の表情は、納得したふうな、怪訝なふうな…――そういう相反する思いが同居したような、混乱したものとなった。
「どした、鈴華? ……そろそろ時間だけど」
「んー……」
線路を越えてきた和子に呼び掛けられ、鈴華は曖昧に返事を返した。
このとき鈴華の心を捕らえていたのは、路面電車の運転台に居た人物のことだった……。
青い詰襟を着た運転士じゃない。
さっきのあの場面――。
いきなり路面電車が現れて鈴華の面前を過ぎたとき、その一瞬に鈴華の目が捉えたのは、運転台の上から切羽詰まった表情を鈴華の方に向け、女性の声でわめきながら必死になって警鐘を鳴らし続ける小柄な人影……。
黒のレザージャケットに黒のボーラーハットという黒づくめの出で立ちは、確かに五丁目の階段坂ですれ違った、あの黒服の女性だった。
何か釈然としない鈴華は、もう一度向かいのめん処へと視線を巡らせた。
やはりその店先には何もない。いったい何に気を捕られたのだっけ? それさえ朧気だ。
何だか納得できない……。
怪訝な思いの方が強くなっていく。けれどもう時間だった。
撮影に入らなければいけない。
「…――鈴華?」
「あ、うん」
和子の声に視線を戻す。和子と高橋が二人仲良く並んでこちらに向いているのに笑って返した。
◆ ◆ ◇
撮影は、二丁目の起点の広場からの赤レンガ通りを正面に収めるショットから始まった。
明治村の目抜き通りだったから、この時分には赤い煉瓦道の上の其処此処に多くの生徒の顔があった。
カメラ担当の高橋を先頭に、インタビュー担当の和子、他班との連絡・調整を含めた全体指示の鈴華が並んでその後に続くという隊列で、鈴華たち撮影組一班は通りを練り歩き始める。
最初、撮影班の姿を見ると逃げるようにする女子グループが多く、これは苦戦するか? と心配してしまったが、和子の撮影交渉に男子のグループから最初のOKを貰らうまで、それほど時間は掛からなかった。
ハイカラ衣装館として営業中の黒漆喰塗りの土蔵造りの建物――安田銀行会津支店――の中から明治時代風の書生服で出てきたところを掴まえたのだ
もともと学校行事の最中にコスプレを楽しもうと考える面々を画面に捉えると、それらしい撮影になってくる。
今日初めて使うというジンバル・スタビライザーの扱いに慣れてきた高橋が、最初のグループを撮るのを深追いしないよう、鈴華は腕時計をトントンと指すサインを送ると、他班と状況を交換するためにスマホを耳に充てた。
他の二班と簡潔に状況を交換し、概ね良好な撮影状況に満足して通話を切ったとき、鈴華の目がまた何かを捉えた。
緑の生垣を挿んで千早赤阪小学校講堂の〝いかにも洋風然としたアーチ〟の連続する一間幅の廊下を、足早に急ぐ人影を目線が追う。
――あいつ、来てたんだ……。
さらりとそう思って撮影に戻ろうとしてから、鈴華はあわてて顔を向け直した。
あいつ……岬悠人は、生垣の向こう側を一丁目の方へと歩いていく。
――あ……!
その背中のかなり後ろを、〝揺らぐ影〟が追っていた……。
鈴華は次の指示を待っている和子を見た。
「ごめん、和子。撮影、続けてて――」
そう言伝るとスマホをスクールバッグのポケットに入れ、通りを来た方へと戻り始める。
いきなりそう言われ、え? というふうに和子が怪訝になったとき、鈴華の視線の先の岬が、一丁目方面からの入口にあたるカレーパンのスタンド屋台の影に消えた。ふわふわと影もその後を追っている。鈴華はスクールバッグを肩掛けに背負い直した。
「――すぐ戻るからっ」
呆気にとられる和子と高橋に肩越しにそう言ってから駆け出すと、一丁目の方へと消えた岬の後を追って右へと折れる。
――あいつ……っ、なにやってんの!
こうして、秋の明治村を舞台に、岬と鈴華と〝黒い影〟の追い駆けっこが始まった……。