一九、
「――…弱い存在になるんだ」
ぶっきらぼうな、感情を抑えたようなその声に、わたしは声の主の横顔を見上げた。
そのわたしの顔を、岬が正面から迎えなかったのは、彼にしても、その自分の言に飛躍があることを自覚しているからだろう。
いつものわたしなら、こんな言われ方は許さない。すぐに反撥して声を上げるから、言い争いになる。
でも、このときはそうしなかった。
和子のいる手前、認めたくはなかったけれど、岬のその飛躍の先には、確かにその自覚があったから……。
奇妙な沈黙が辺りに漂うことになった。
困ったような表情の和子が見守る中、その隣で、和子と同じ顔の造のスーパーバイザーが、あっけらかんと投げやりな表情で口を開いた。
「ちなみにー、今回アタシら現場管理は、岬悠人さんの依頼で動いていまーす」
それから、「――と言っても、動いてんの、アタシ一人だけっスけど……」
自嘲気味に嗤って付け加えたのが聞こえた。
そうなんだ。
確かにスーパーバイザーさんは、はじめっからそう言ってたっけ……。
つまり岬の方が、岬の記憶をわたしの中から消してしまいたいと、そう思ってるわけだ。
わたしと岬との間には、気拙い空気が挟んだままとなる。
神妙な表情の和子が、固唾を呑んで見守っている。
和子がいることで、わたしは外聞を気にしてしまい、すぐに言葉を切り出せずにいた。
たぶんそれは、岬もそうだったかもしれない。
「だいじょうぶっスよ――」
と、またスーパーバイザーさんの声が聞こえてきた。
「――ここでの会話は、きれいさっぱり記憶から消えてしまいますから。この際、言いたいことは全部言ってしまう、ってのも手っスよ」
いつの間にかスマホを手にして、そっちに意識の大半を割いての、気乗りの薄い感じの声音だった。
ちらとスーパーバイザーさんを見て、それから和子を見て、心の中で呟いた。
――ほんとに〝きれいさっぱり〟記憶は消えるんでしょうね……。
それからわたしは、心を決めて岬の方を向いた。
「そうなんだ……。岬がいると、わたしは弱くなるんだ……?」
「俺は、奥村の創り出した影のような存在だからな」 岬が、顔を顰めてこっちを向く。「そんなものに執着するっていうのは、つまり〝現実にないものへの逃避〟ってことだ……。逃げるのは、弱いってことだろ?」
「…………」
すぐに何かを言い返すことはできなくて、結局、ここはわたしが引き下がる。
「――…そか」
すると(やっぱり…――)岬は目線を下ろして(少し怒ったように)、それでもわたしを気遣うような声音になって言った。
「大体……いつも側に居て弟みたいに扱ってる存在が頼りたいときには父親役になるなんて、そんな都合のいい存在、現実にはいないだろ……」
「うん……」
今度はわたしも素直に言う。「――…弟も、お父さんも欲しかった」
岬が驚いた顔を向けてきた。
わたしは、いよいよ殊勝になって続ける。
「けど……実際、お義父さんができるかも、ってなったとき……戸惑った」
和子が不思議そうな表情になってわたしを見た。
――怪訝に、そして〝びっくりした〟というふうに……。
母に求婚者が現れたことは、和子には言ってない。
「だからかな……」
わたしはそうして口を閉ざした。
すると、
「……だから〝俺〟が必要だったのか?」
そんなわたしを気遣うように、岬が言った。
だから、
「わからない……」
わたしは……面を伏せてみせた。
黙ってしまった岬に、わたしは確信を持った。
だから、そういう自分で岬と接することができたのは、そこまでだった……。
岬は、わたしがそこに逃げ込んでしまうことに慣れてしまうのが嫌だという。
……そっか。
そういう〝弱い〟わたしを、岬は好きじゃないんだ…――。
「…――なーんて、〝か弱い〟女の子だなんて、思ってるんじゃないでしょうね?」
次に顔を上げたとき、わたしはいつも表情を岬に向けていた。……それには、少し努力が要った。
岬の表情が消えて、その瞳に一瞬だけ、不思議な色の光が宿ったように見えた。
それからいつもの、〝いつも側に居てくれるような〟、控え目な表情になって、言った。
「いや……」
そして微かに満足したふうに肯くと、わたしを見た。
「そういう方が、ぶちょーらしい」
そうなんだ……。
こういう方が、あたしらしいんだ……。
「それで…――」
わたしは、もう少しだけがんばって、岬に訊くことにする。
「どうすればわたしは、〝わたしの強さ〟を証明できるの?」
こういう、可愛くない女が、岬にとってのあたしなのかぁ…――。
そんなふうに心の中で思っているわたしの視界の中で、岬の頭が、ゆっくりとスーパーバイザーさんの方を向いた。
◆ ◆ ◇
スーパーバイザ―は岬と鈴華に顔を向けられると、やれやれと格好をくずした顔の目線を斜め下に伏せ、小さく溜息を吐いた。
そんなスーパーバイザーの横で、んんっ、と咳払いをした同じ顔の和子も、どういう表情でいようかと困った目線を逸らすように伏せている。
スーパーバイザーは肩をすくめると、岬と鈴華とにて目線を向けた。
「――はい。もう準備はいいっスね?」
岬と鈴華が揃って頷くと、スーパーバイザーは手にしたスマホに最後の操作をし終えて左のポケットに仕舞い、二人の方へと近付いていった。和子も後から付いていく。
「覚悟を決めたところで、鈴華さん、アナタには〝穴〟に潜ってもらい、〝あちらの側〟に行ってもらうことになります」
「〝穴〟に、潜る……」
「〝あちら側〟に行く……」
鈴華と和子が、それぞれに〝?〟を頭の上に浮かべるような表情になったが、スーパーバイザーは、とりあえず、というふうに続けた。
「鈴華さんには〝穴〟を塞いで貰います」
「…………」 和子がいま一つ理解しきれてない表情になった。
「え、っと……」 鈴華は小首を傾げた。「穴を塞ぐのに、穴に潜っちゃうの?」
これにはたちまちに、スーパーバイザーも面倒くさそうな表情になる。
「うーぁあ――…正確には塞ぐのを手伝ってもらうわけっス。塞ぐのはコチラでやりますから……」
そこまで言って溜息を吐いたスーパーバイザーに、鈴華と和子は顔を見合せると労わるような目を向ける。
当のスーパーバイザーは、ほっといてください、という目を返して、〝一から十までを並べて通す〟ように説明し始めた。