環境のズレ
ラーク、アラン、そしてメリリ。三人の存在は小さな嵐を呼び込み、その余波は静かに少年の心を揺さぶっていた。
アランと並んで廊下を歩いていたトレスは、正面から現れた少女の姿に気づく。メリリは涼しげな表情を崩さぬまま、すれ違いざまにふと指先を掲げた。
その瞬間、炎の粒がぱちりと生まれ、宙に淡い光跡を描く。残された火の尾は揺らめきながらまとまり、一つの文字を形作った。
《近寄るな、変態!!》
赤い残光を帯びたその言葉を目にし、トレスは思わず苦笑する。しかし、隣のアランは目を丸くして声を張り上げた。
「おい、メリリ!」
呼び止められたメリリは振り返り、瞳を鋭く細める。その冷ややかな視線は矢のようにアランを射抜き、背後には火の粒が漂って空気を熱で歪ませていた。
「あの魔法、すげえな!」
無邪気な笑みを浮かべ、宙に浮かんだ炎を指差して感嘆する。文字を読むことのできないアランの言葉には悪意などなく、ただ純粋な驚きだけが込められていた。事情を知るトレスは額に手を当て、肩を落とすしかない。
返事をすることもなく、メリリは冷淡な足取りで教室へと消えていった。その背中を目で追いながら、アランはぽつりと呟く。
「あいつ、メルフェリカみたいだな」
その名が耳に届いた瞬間、トレスの足が止まる。
「……それって、三賢導のメルフェリカ様のこと?」
アランは悪びれることもなく、明るい笑みを浮かべて頷いた。
「ああ! あいつも、あんな顔してたからな」
当然、トレスにはアランとメルフェリカの接点など知る由もない。血の気が引く思いで、慌てて口を開いた。
「ダ、ダメだよ! そんなこと言ったら女性を敵に回すよ!」
きょとんと首をかしげるアラン。その無垢な表情に、トレスの胸の奥がざわついた。彼はずっと疑問に思っていたことを、思い切って口にした。
「……そういえば、この間のことだけど。アラン君は、自分の力を理解してないの?」
アランは少しだけ視線を宙にさまよわせ、それから思い出したように答えた。
「そうなんだ。でも、アストリアは魔法じゃないかって言ってたぞ」
さらりと告げられた言葉に、トレスの心臓が一瞬跳ねる。今度はなんと、国の女王を呼び捨てにしているのだ。
アランに質問すれば、何でも隠さずに答えてくれる。だが、その答えは常識を軽々と飛び越え、トレスの想像の外側へ転がり落ちていく。だからこそ、これ以上深く追及する気にはなれなかった。
授業中も、トレスは前の席で交わされるアランとシャリナのやり取りを耳にしていた。
「なあ、この絵の下ってなんて書いてあるんだ?」
「えっ? 神樹ルミエルよ」
教科書には葉が光を帯びる大樹の絵が描かれている。アランはしばらくじっと見つめ、眉を寄せて考え込んだ。シャリナが真面目に授業を聞く横で、彼は再び声をかける。
「このルミエルって、どこにあるんだ?」
「エルデナ! ちょっと、授業中よ」
アランは返事を気にすることなく、絵に視線を落としたまま何かを思い浮かべている。その真剣な横顔に、シャリナはつい問いかけずにはいられなかった。
「神樹がどうしたの?」
「俺がいた島にあったなと思ってさ。いつもこの木から水を飲んでたんだ」
真剣な顔で語るアランを前に、シャリナは心配そうに眉を寄せた。しかし、その口から飛び出す言葉はやはり不思議で、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「そんなはずないわよ。この国は……」
二人のひそひそ声に、業を煮やしたプルーデが鋭く割って入った。
「お前ら、さっきからうるさいぞ」
「ごめんなさい……」
小さく肩をすくめるシャリナ。その後ろで様子を見ていたトレスも、つい苦笑をもらした。アランの独特な振る舞いが続くため、彼が見せた力については誰にも話していない。それにトレス自身も、呪いや異式魔法の存在を極力隠していた。
(もしかしたら……アラン君も、あまり言いたくないのかもしれない……)
そう考えたトレスだったが、アランは自分のことより、周囲の魔法や世界そのものへの好奇心で夢中になっているだけだった。
──アランがあの力を使ってから、二か月が経った頃。
トレスの胸には、もう一つの疑問がくすぶっていた。ラークたちもその瞬間を目撃していたはずなのに、誰も口にせず、トレスに絡むことすらなくなっていたのだ。その理由がわからず、答えのないもやもやだけが心に残っていた。
***
そんなある日のこと。アランは訓練場で、他の生徒たちが魔法の練習に励む様子を眺めながら、自分の順番を待っていた。そこへ、不意に背後からラークの声がかかる。
「アラン。ちょっとついてこい」
突然の呼びかけにアランは小首をかしげ、不思議そうにしながらも黙ってついていく。その様子に気づいたトレスが目を向けると、二人が人目から離れていくのが視界に映った。
(えっ……? なんであの二人が一緒に……?)
胸の奥に嫌な予感がじわりと広がる。やがてラークは、人気のない場所で立ち止まり、鋭い視線をアランに向けた。
「あれ以来、なんで力を使わない?」
唐突な問いにアランは目を丸くし、軽く肩をすくめて答える。
「ん? 別に使う必要ないだろ?」
その軽い返答に、ラークの口元がにやりと歪んだ。彼は杖を抜き取り、そこに焦茶の魔力を流し込む。すると周囲の空気が低く唸るように震え、緊張感が漂った。
「じゃあ、今使え。俺に見せろ」
言葉と同時に、大きな土塊が宙に浮かび上がる。人の体ほどの塊が揺らめき、アランは思わず目を見開いた。次の瞬間、土塊が唸りをあげて迫る。アランは反射的に横へ飛び退き、地面を転がった。
「何すんだよ!」
声を上げても、ラークの耳には届かない。彼は再び杖を振るい、同じように土塊を持ち上げると、いたずらっぽい笑みを浮かべて叫んだ。
「前みたいに消せよ。どうやって消すのか見せろ!」
次から次へと襲いかかる土塊。地響きとともに迫り来る重圧に、アランは息を荒げながらも身をかわす。
「もうやめろよ!」
必死の叫びも虚しく、ラークの手は止まらない。再び土塊を作り出そうとした時、アランの背後から駆け寄る影があった。
「ラーク! 何してるんだよ!」
鋭い声にラークはちらりと顔を上げ、鼻で笑った。
「あ? お前にもう興味はねえんだよ」
「トレス、離れてろ!」
しかし、もう遅かった。ラークが杖を振りかざし、重々しく揺れる土塊をトレスへと投げ放つ。
その瞬間、トレスの右手に黒い魔力が灯った。胸の前で掌を重ねると、闇のように深い力が滲み出し、空気を押し潰すように広がっていく。
「──呪髪魔法」
低い詠唱とともに、彼の黒髪が生き物のように伸び始めた。瞳の輝きを残して揺れる髪は風を裂き、束ねられた一房が鞭のようにしなって土塊を横から叩きつける。塊は勢いよく弾かれ、地面で粉々に砕け散る。
一歩前に踏み出したトレスは、鋭い声で言い放った。
「僕の魔法を見せてあげるよ。だから、アラン君には手を出すな!」
その姿にアランの瞳は一層輝きを増し、思わず声が漏れる。
「おー! すげえ!!」
ラークはその様子をじっと見据え、低く呟いた。
「へー。確かに、不気味な魔法だな」
それでも彼の瞳から闘志は消えない。再び杖を振り上げ、土塊を呼び出して投げ放つ。だがトレスは慌てず、落ち着いた動作で両掌を合わせると、静かに言葉を紡ぐ。
「呪髪の操作魔法、カスドダート」
途端に後ろ髪がふわりと浮き上がり、太く束ねられた無数の髪針が風を切った。鋭く唸るそれらは獲物を狙う生き物のように土塊へ突き刺さり、瞬く間に粉砕する。土煙が舞い、破片がぱらぱらと降り注ぐ中、ラークの口元にわずかな笑みが深まった。
「いいな……」
やがて杖をしまい、右手を下げると、掌に白い光が滲む。
だが次の瞬間、左手で口元を覆い、笑みを静かに消した。鋭い視線がトレスを貫き、右手の光はしだいに消えていく。
「チッ。邪魔が入った」
低く吐き捨て、無言でトレスの横をすり抜ける。その背は何事もなかったかのように校庭へと戻っていった。
トレスはその背中を横目で追い、ゆっくりと掌を離す。黒い魔力が消えると、髪は静かに縮まり、元の形に戻っていった。その光景を目にしたアランは駆け寄り、目を輝かせながら声を張り上げた。
「トレスの魔法、かっこいいな!!」
照れくさそうに視線を落としたトレスは、後頭部に左手を当て、小さな声で応える。
「そ、そうかな……」
アランは興奮を隠しきれず、手で髪が伸びる動きを真似しながら、笑顔を弾ませた。
「ああ! すごかったぞ! 髪が伸びてよ!」
その無邪気な言葉に、トレスの口元も自然とほころぶ。だが、すぐに歩き去っていくラークの背中に視線を向け、眉を寄せて低く呟いた。
「確か……彼の魔力は、六千ぐらいのはずなんだけど……」
その言葉にアランは首を傾げ、目を丸くして問い返す。
「それがどうしたんだよ?」
トレスは一瞬言葉を選ぶように沈黙したが、やがて肩をすくめてアランに向き直った。
「それより、僕たちも戻らないと怒られるよ」
二人が校庭へ戻ると、ルナが小走りで近づいてきた。大きな瞳を輝かせ、尻尾をぱたぱたと揺らしながら声を弾ませる。
「アラン、見てくれた? 私の魔法!」
期待に満ちた視線に、アランはにかっと笑い、軽く頭を撫でながら答えた。
「いや、見てないぞ」
途端にルナは短い手でぺしっとアランの手を叩き、鋭い目つきで抗議する。
「じゃあ、なんで見た雰囲気出して撫でるのよ!」
そのやり取りを見ていたトレスは肩の力を抜き、つい微笑みをこぼした。
***
そして、セレヴィア魔導学院に入学して三か月。二度目の魔力測定の日が迫っていた。だがその朝、王都リリシアの門前に、銀髪の少女が静かに姿を現す。
「これが王都かー。すごいわね」
少女の瞳に映るのは、城壁全体を淡い光で包み込む壮麗な防壁が広がっていた。
「でも……確かに、アランの気配がするわ! 待ってなさい!」
ついに、まるい世界に落ちた二つの異物が、運命に導かれるようにして相まみえようとしていた。




