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空へ落ちた日

何十年、何百年という時が流れ──。


 深緑の森が織りなす静寂の奥で、古代の石造りの遺跡が時を忘れたように佇んでいた。苔むした石壁には謎めいた紋様が刻まれ、異世界からの魔力が漂っているようにも感じられる。


 だが、この場所で育った少年アランにとって、それは非日常ではなく、当たり前の日常の風景にすぎなかった。


「ちょっと行ってくるよ!」


 元気な声を残し、彼は軽やかな足取りで風化した黒い石段に足をかける。一段一段を踏みしめながら登っていくと、やがて視界の先に壮麗な光景が広がった。


 天を突くようにそびえ立つ、一本の巨大な樹。


 幹は常識を超えるほど太く、大人が五人手を繋いでも抱えきれないほどの太さを誇っていた。枝の先端には、まるで夜空の星々を降ろしたかのように淡い光を放つ葉が無数に輝き、風に揺れてきらめきを散らしている。


 普通の木なら上に行くほど細くなるはずが、この大樹は空へと真っ直ぐ伸びている。その頂からは、水晶のように澄んだ水が滝となって流れ落ち、きらめく水飛沫を宙に散らしていた。


 アランはその水に駆け寄り、両手を使わずに口を大きく開けてごくごくと飲む。


「ここの水はやっぱうめー!」


 喉を潤すと、彼は満足げに空を仰いだ。無造作に伸びた黒い髪が爽やかな風に踊り、深緑の瞳が太陽の光を受けて輝く。少しゆったりとした白いズボンを履き、首には鮮やかな赤い石の首飾りがきらりと揺れていた。


 用事を済ませたアランは振り返り、登ってきた石段の方へと歩き出す。高台から眺める景色は、まさに絵画から抜け出したような美しさだった。


 幾重にも連なる山々が地平線まで続き、その間を縫うように森の木々が風に揺れている。時折、色とりどりの鳥たちが群れをなして空を舞い踊り、遠くから野生動物たちの鳴き声が山々にこだまして響いてくる。


 石段を最下段まで降りると、そこには人の拳ほどの大きさをした愛らしい生き物が二匹、ちょこんと待っていた。まるでラッコのような丸みを帯びた体に、つぶらな瞳を持つ不思議な動物──アランは親しみを込めて"グディ"と呼んでいた。


 二匹のグディはアランを見つけるなり、足元から肩、そして頭の上へと軽やかに移動して座り込む。アランは慣れた手つきでナイフを取り出すと、赤紫色に熟した甘い実を器用に剥き、芳醇な香りを漂わせながら小さな口へと優しく差し出した。


「お待たせ!再開しよう!」


 頬をパンパンに膨らませた二匹のグディは、まるで「了解!」と言わんばかりに、右の前足を勢いよく前へ突き出して頷いた。


 森の木々に挟まれた清流には、一本の大きな丸太が静かに浮かんでいた。その上では十数匹のグディたちがのんびりと並び、毛づくろいをしたり、陽だまりのような光を浴びながら気持ちよさそうに伸びをしたりしている。穏やかな時間を、皆楽しそうに過ごしていた。


「おーい」


 手を振るアランに気づいたグディたちは、ぴょんぴょんと飛び降りて丸太の端へ集まり、期待に満ちた瞳でアランの到着を待った。よく見ると、その丸太は平らに削られており、人が横になれるほどの広さが丁寧に整えられている。


 アランは腰まで続く冷たい川に足を浸し、グディたちの真ん中まで進むと、丸太に両手をしっかり添えた。その瞬間、周囲のグディたちの表情に真剣な気合いが宿る。


「もう少しだ! この船を、海まで運ぶぞ!」


 そう、この削られた丸太は、アランにとって夢を乗せた立派な船だった。


 小さな仲間たちが本当に役立っているのかはわからない。それでもアランとグディたちは力を合わせ、海を目指して丸太を押し進める。頭の上に乗ったグディは、右の前足を勇ましく前に突き出し、精一杯の気合いを込めた。


 やがて視界の先に広がるのは、果てしなくきらめく青。


「着いたー!」


 その声は達成感よりも、これから始まる冒険への期待を映していた。アランの顔には、抑えきれないわくわくが滲み出ている。彼は丸太をぐっと押し出し、勢いそのままに二匹のグディと共に手作りの船へ飛び乗った。


 船の上に腰を下ろし、背を向けたまま岸辺に残った仲間へと大きく手を振る。潮風に声を乗せ、朗らかに叫んだ。


「お前たち、ありがとう! 洞窟の食べ物は好きなだけ食べていいぞ!」


 アランはいつも、美味しい食べ物を渡す代わりにグディたちに手伝いを頼んでいた。その言葉を合図にしたかのように、岸にいたグディたちは一斉に振り返り、目にも止まらぬ速さで森の奥へと消えていった。

 

 気持ちを切り替え、アランは前を見据える。太陽のように明るい笑みを浮かべ、声を弾ませた。


「大冒険の始まりだ!」


 胸の奥から湧き上がる高揚に、笑みが止まらない。島の外へ出るのは、これが初めてだった。だがふと、アランは周囲を見渡す。


「結局、セフィは来なかったな……。一緒に冒険に出ようって約束してたのに。でも、まあ……先に行ってるか!」


 心の隅で親友との約束が引っかかってはいた。しかし、来ないということはもう旅立ってしまったのだろう──そう都合よく解釈し、再び前を向いた。


「外の世界って、どんなところなんだろうな……」


 船の上にごろんと寝そべり、隣にいるグディへ語りかけるように空へ想いを投げかける。


「ここよりずっと広い島に、いろんな人がいるみたいだな。それに、言葉じゃ言い表せないくらいすごい食べ物があるらしいぞ。この海もとてつもなく広いみたいで……全然想像もつかないよな!」


 目を閉じ、まだ見ぬ世界を心に描きながら、期待に頬を緩めていた──その時だった。


 二匹のグディが突然ぴたりと動きを止め、何かを察知したように正面を凝視した。次の瞬間、慌てたように跳ね上がり、ものすごい速さで島の方角へと泳ぎ出す。


 異変に気づいたアランは、肘をついて上体を起こし、懸命に水をかく二匹を目で追いながら呟いた。


「あれ? 一緒に行かないのか?」


 小さく息を吐いた時、胸を締めつけるような違和感が走る。船の進む速度が不自然に上がっており、同時に耳に届く轟音が、刻一刻と大きさを増していた。


(えっ……? この音、まさか……滝?)


 アランは慌てて正面を振り返り、目に映った光景に言葉を失った。


 彼が心に描いていた海は、どこまでも続く広大な青い世界。島を出てわずか数十分で、海の果てに辿り着くなど夢にも思わなかった。


 視界の先では、海が断崖絶壁のように途切れ、巨大な滝となって空へと消えていた。海水は轟音を響かせながら激しい渦を巻き、遥か下に見える大地へと降り注いでいる。


「うそだろ……!?」


 かすれた声で叫んだ瞬間、アランは慌てて船を飛び出し、海に身を投げた。必死に島へ戻ろうと腕を掻く。しかし、水流の勢いは人の力でどうにかできるものではなかった。


 空へと吸い込まれるように、身体は容赦なく後ろへ引きずられていく。どんなに泳いでも抗えず、アランはついに宙へと放り出された。


 目に飛び込んできたのは、宙に浮かぶ自分の島。そしてその下に広がる──まるい“世界”。


(聞いてないぞ、こんなの……俺の冒険は……)


 そう思いながら空を仰ぐと、二匹のグディも風に揺れる羽根のように軽やかに舞い落ちてきていた。


***


 その頃、ずっと下の世界──海辺の小さな村では、いつもと変わらぬ穏やかな時が流れていた。凪いだ海を眺めながら、漁師姿の二人の男がのんびりと会話を交わしている。


「ここ三日ほど、海が荒れて漁に出られなかったな」


 波音に混じるように、漁師の一人が深いため息を漏らした。


「ああ。今日はエリュナ様が来るってのに、魚はあるのかい?」

「今日はな。だが……まあ、明日は漁に出られそうだ」

「なら安心だ。エリュナ様には、ぜひ新鮮な魚を召し上がってほしいからな」


 もう一人の漁師は、エリュナが魚を美味しそうに口へ運ぶ姿を思い描いたのか、自然と頬を緩ませていた。


 一方、同じ村の畑では、作業していた女性がふと空を仰ぎ見て手を止める。その視線を追うように周囲の村人たちも見上げ、次々と空へ向かって手を振り始めた。


 やがて、青空から舞い降りるように一人の女性が軽やかに着地した。輝く金髪を揺らし、箒を片手に持ちながら、にこやかに声を張る。


「こんにちは! 今日から数日よろしくね」


 村人たちに笑顔で手を振り返した直後、その背後から四人の青年が慌ただしく追いかけてきた。皆、箒にまたがったまま必死に追いつこうとしている。


「急に離れないでください! 僕たちは護衛なんですから……」


 そう声を上げて地に降り立ったのは、焦茶色のローブをまとった初級魔導士ルード。穏やかな眼差しの青年で、やや青みを帯びた髪はさらりと流れ、前髪が自然に中央へ寄っていた。


 彼の後ろに続いたのは、灰色のローブ姿の三人組。屈強な体格で頼りがいのあるペルシ、小柄で落ち着きなく視線を彷徨わせるグンボ、そして内気そうに目を伏せがちなランド。彼らはまだ見習い魔導士だ。


「大丈夫よ! お姉様の予知魔法は、必ず当たるんだから。何も起きないわ」


 軽やかに言い放ったのは、セレヴィス・エリュナ──セレヴィス王国の女王アストリアの妹君である。


 肩を少し超えるほどの金髪はやわらかな光を帯び、ふんわりと優美に整えられている。服装は質素だが、生まれ持った気品は隠しきれず、自然と彼女の周囲に漂っていた。


 畑の横を抜ける小道を、エリュナは軽やかな足取りで進んでいく。その背を追いながら、ランドが申し訳なさそうに口を開いた。


「ですが……本当に私たち見習い魔導士と地方に来てよかったのですか? せめて中級か上級の魔導士の方が……」


 普段、重要人物の護衛を任されることのない彼らにとって、この任務は荷が重い。責任の大きさに、不安を隠しきれなかった。


「そんなのダメよ。勝手に出てきたことがバレちゃうじゃない」


 悪びれる様子のない声に、四人は同時に目を丸くする。中でもルードが思わず声を荒げた。


「女王様に、許可をいただいてないんですか!?」


 振り返ったエリュナは、いたずらっぽく口角を上げ、人差し指をピンと立てて答えた。


「いつも許可なんて取ってないよ。だって、未来が見えるんだもん」


 「当然でしょ」とでも言いたげな無邪気な笑みを前に、四人は顔を見合わせた。内心では、果たして本当に大丈夫なのかと不安を募らせずにはいられない。


 だが、彼女の自由奔放さは王国中に知れ渡っており、それでも一度も大事に至らなかったのは、姉である女王アストリアの未来予知に従って行動しているからだと、皆も理解していた。


 エリュナは道端の村人に笑顔で手を振り、声をかけながら歩いていく。その後ろ姿を見て、ルードはようやく肩の力を抜いたように声をかけた。


「このシオネ村に来られたのは、何度目ですか?」

「今回で6回目ね。ここは海がすごく近くにあるから、寝るときの波の音がすっごく気持ちいいのよ! 早く夜にならないかなー」


 そう言って両腕を後ろで組み、子どものように弾んだ笑みを浮かべながら、村の中心部へと足を進める


──だが、彼女たちの知らぬ遥か上空で、壮大な物語の幕はすでに切って落とされていた。

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