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第二話

 彼女がその言葉を知ったのは子供の頃。


「まだだ!きついのは分かる、でもそこで止めるな!武で鳴るヴェリテ家の男なら、ここで根性を見せてみろ!」


 屋敷の訓練場で兄たちが剣の特訓を受けているのを、子供だったセリーヌが見学に訪れると、必死になって手に掴んだ錘を上げ下げしている兄たちに教官が叱咤しているのを聞いた。


「そのトレーニングで二の腕の上腕三頭筋が鍛えられる。そうすれば、男らしい太い腕が手に入るぞ!」


 一体何の訓練をしてるの?と疑問に思いつつも、その言葉を聞いて知った。太い腕の厚みは二の腕の上腕三頭筋によって作られるのだと。


 ”そう、力こぶ、つまり上腕二頭筋だけが発達していてもダメなの。大好き…いえ、大切なのはその裏の上腕三頭筋。二の腕が鍛えられてこそ分厚い腕になるの。だから何よりも上腕三頭筋が大好物いえ大事。上腕三頭筋よ、そう、上腕三頭筋が好きうへへ”


 でも瞼の裏のその筋肉に見惚れていると、隠された扇子の下で、いつものように小鼻が一杯に膨らんでいるのに気がついた。


 完璧令嬢と言われる彼女の弱点、それは興奮すると小鼻が膨れ、鼻の穴が大きく開いてしまうことだった。滅多にそんな風にならないのだけれど、でも殿方の分厚い二の腕を目にすると、もれなく鼻の穴がまん丸になってしまう。


 そんなはしたない顔は死んでも他人に見せられないから、大好物との不慮の遭遇に備え、彼女はいつも扇子を持ち歩き、膨らんだ小鼻を瞬時に隠す術を身につけていた。


「ねぇ、あの立派な騎士様はどなた?」

「知らないの?あの方はアラン様よ。ペリシエ侯爵家のご三男で、まだお若いのに近衛騎士団の中隊長に抜擢された実力者なの」

「そうなの!でもあんなに立派な力こぶなら、それも納得ね」


 ”力こぶじゃないわ、素晴らしいのは上腕三頭筋”


 再度心の中で反駁しながら『アラン・ペリシエ侯爵令息』の名を、セリーヌはしっかりと脳内のメモ帳に書き記した。



 

 ***


 


「お母様がなんと仰っても、わたくしはもうこの方に決めましたの」


 今セリーヌは王都のヴェリテ家のタウンハウスで、母であるマリア・ヴェリテ女侯爵の執務机の前に立っていた。


「でもねぇ、あなたほど綺麗な娘なら、もっと上が望めると思うのよ。それにあなたの評判はとっても良いし。あなたのことを完璧令嬢ってみんな言うけど、こうやってあなたを見てると、その言葉も褒め過ぎじゃ無いと思う。王家に入るのだって夢じゃないわ」


 そこに立つセリーヌからは、匂うような気品が放たれている。

 

「でも王太子殿下も第二王子殿下も婚約されています。第三王子殿下はまだ十歳だから、年齢的に私とは釣り合いません」


 セリーヌは今年で十八だから、第三王子殿下は彼女の八つ下になる。


「それでもねぇ、ペリシエ侯爵家というのは良いけど、ご長男ならまだしも、お相手は三男でしょ?」


 マリアは机の上の釣書に目を落とした。セリーヌのデビュタント後、彼女には様々な家から婚約の申込みがあったけれど、どれも本人がウンとは言わず、マリア自身も、もっと良い家からの申込みを待つうちに、結局、今まで婚約者を決めずに来てしまっていた。


「十五でデビュタントしてから十八までに婚約して、二十歳までに結婚というのがこの国の貴族の普通だけど…」


 だからそろそろ決めなければいけない頃合いに、いきなりセリーヌが『お受けします』と持って来たのがアラン・ペリシエ侯爵令息からの婚約申込みだったのだ。彼はセリーヌの三つ上の二十一歳。

 

「三男であっても、ペリシエ侯爵家と誼を結ぶのは我が家にとって大きな利をもたらしますわ」


 セリーヌは執務机の前まで楚々と進み出た。


「王国西部の新たな鉄道計画ですが、線路をどこに通すか、その選定を任されているのがペリシエ家なのをお母様もご存知ですわね。でもね…」


 そこでセリーヌは顔をぐっと寄せると、扇子で顔の下半分を隠して声を落とした。

 

「東のサザーランド王国で、大型の蒸気機関車が開発されたのはご存じないでしょ?」


「大型機関車?」


「えぇ。力が何倍も強い機関車なの。それでサザーランドはその汽車を、使用料を取って同盟国にも乗り入れる計画らしいですわ。」


「じゃあ我が国にもその汽車が走るの?」

 

 セリーヌたちのフランソワ王国は、サザーランドとは長きに渡る盟友であった。

 

「えぇ、両国の鉄道網は三年前に繋がりましたものね。そしてその汽車が引く貨物列車なら、今までよりも大量の資材を一度に運搬できますの。考えてみて。もし鉄道を我が領北部の銀山の近くに通して、そこにその貨物列車を走らせる事が出来たら…銀山からの収益は今の何倍になるかしらね」


 マリアは、ほぅ、と声を漏らして目を細めた。


「でも、一体どこでそんな情報を手に入れたの?」


「この間の王宮の夜会でね、サザーランドの外交官様から聞きましたの。ご親切に、色々と教えてくださったわ」


 その情報を、この娘はどうにかして外交官から引き出したようだ。見た目だけでなく、その手腕も完璧な我が娘を頼もしく思いながら、こんな室内でも唇を読ませまいと口を隠すその周到さに、マリアがこの娘の教育に成功したことを改めて知って満足した。


 でも実際は、セリーヌは膨らんだ鼻を母から隠そうとしただけだったのだけれど。

 

 ついこの間、セリーヌは送られてきた釣書をぞんざいに眺めるうち、その中にあのアラン・ペリシエ侯爵令息からのものを発見した。彼女は使用人に気づかれぬよう、声を噛み殺しながら、ガッツポーズで自室内をひとしきり練り踊った。


 それから冷静になって、条件的には最良でない彼の申込みを受けるための理屈を考えたのだけれど、折り良く機関車の情報を得ていたから、すぐにそれを組み立てる事が出来た。


「貴女のように、美しくて気品にあふれる完璧なご令嬢は、我が国でも中々お目にかかれません。貴女の事をもっと知りたい。今晩、私の部屋で…」

 

 夜会でサザーランドの外交官が、鼻の下を伸ばしてしつこく言い寄って来たから、思わせぶりな態度をとって機関車の話を抜き出してやった。偉い人に絡まれたときは、無下にあしらえない迷惑料として何か貴重な情報を抜き出してやろうと、いつも心がけていたのが功を奏した。


 ”あとひと押しであの上腕三頭筋が私のものに…ぐふふ”


 扇子の下の鼻の穴は、有り得ないほど大きく拡がっていた。


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