引きこもりヒーロー。コミュ障天才が、推しの為に今立ち上がる
見ているだけでよかった。いや、見ているだけがよかった。
深くため息をついた赤城 宏樹は暗がりの中、心に浮かんだ言葉を何度も繰り返し思い浮かべていた。彼が注視するパソコン画面には、とあるSNSのダイレクトメッセージが表示されていた。
差出人は松木 優奈の公式アカウント。通称『ユーナ』と呼ばれている彼女は、宏樹が応援している女性アイドル。いわゆる《推し》というやつだ。
グループアイドル全盛の今にあって、数少ない単独アイドル。若々しい美貌は当然であり、歌、踊り、演技、バラエティでのトーク、全てが一流だった。まさに、世知辛い現世に舞い降りた女神のような存在だ。
そんな超常の相手からメッセージが届くなんて、ファンとしては狂喜乱舞してもおかしくない状況だ。しかし、宏樹のため息は重かった。
『助けてください』
そんな一文で始まるメッセージからは、切羽詰まった状況が伝わってくる。ここまで頼られて何もしないわけにはいかないが、こんな事実、できれば知りたくなかった。
どうやらユーナにはプライベートで知り合った男にストーキングされているらしい。なかなか切れない交友関係からの知り合いで、はっきり言えないまま今に至ってしまったそうだ。なんとか穏便に彼との縁を切りたいというのが、ユーナからの相談だった。
アイドルはその名の通り偶像だから価値がある。偶像は嘘をつかないし、裏切らない。あくまでもテレビの画面に映る虚構の存在だからだ。
ファンの中には、個人的にお付き合いしたい者もいるだろう。プライバシーに踏み込みたい者もいるだろう。宏樹の価値観では、そんな連中は軽蔑の対象だった。偶像は偶像のままだから美しいのだ。
「困るよなぁ……でも」
もう何度目かわからないため息をつく。覚悟を決めた宏樹は、仲間に連絡するためキーボードを叩き始めた。
『レッドより緊急司令』
レッドというのは、宏樹が使うSNSのハンドルネームだ。松木優奈ファンクラブの会員名でもある。過去の苦い思い出を忘れないよう、意図して自身をそう名付けていた。
少年時代の宏樹は、ヒーローになりたかった。流石にそのままを口にはしなかったが、意味合いとしては同じようなものだ。誰もに好かれ、誰をも助ける。子供の頃に憧れたあんな存在になりたかった。
とある事件があるまでは。
それは過去の話。今は人との関わりを極力避け、可能な限り家から出ない生活をしている。それを成り立たせるため、高度なIT技術を身に付け、在宅でも務まる仕事を得た。そして『推しを応援する』という生きがいを見つけられたのは、宏樹にとって幸いだった。
生きがいを守るために、宏樹はどんな手段でも使った。彼女のプライベートを明かそうとする雑誌記者の排除、過激な行動を取ろうとするファンの抑制など、やることは無数にある。
当然、一人で全てに対応することはできない。インターネットとは便利なものだ。志を同じくする仲間を見つけることは難しくなかった。
その中でも特に信頼のおけるメンバーが四人いる。彼らは宏樹のレッドにちなんで、ブルー、グリーン、イエロー、ピンクと名乗るようになった。
本名も年齢も性別も知らないが、とても頼りになる仲間たちだ。基本的に人を信じない宏樹だったが、彼らは別格だった。
現地偵察のブルー。
実力行使のグリーン。
人間関係把握のイエロー。
色仕掛けのピンク。
そして、指揮官のレッド。
今回の問題も、自分たち五人ならば解決できるはずだ。宏樹は作戦を計画し、メンバーへと指示のメールを送った。
決行は三日後。宏樹はいつもの通り、パソコンの前で四人からの報告を待つのみだ。
「ふぅ」
メールを打ち終わっても、宏樹の気分は晴れない。ユーナの悩みを解決するということは、彼女が実在する人であることの証明だ。女神から人間へと成り下がってしまうのは、辛い。
宏樹たちの活動は常に水面下で行われていた。ユーナ本人は当然として、関係者にも知られてはいないはずだった。だから今回のメッセージは、まさに寝耳に水。正体がバレてしまっては、今後の活動は自粛せざるを得ない。
「これで解散か……」
正直なところ、それほど寂しさを感じてはいなかった。夢のような時間は、いつかは終わるものだから。
そして決戦の日。
「なぜだ?」
宏樹はオシャレなカフェのテラス席に座っていた。そして向かいには、とんでもない美女。
長く滑らかな髪はキャップに隠され、しなやかで美しい四肢はオーバーサイズのパーカーとロングスカートに覆われている。
地味めの服装でも隠せない程の輝きを発している彼女は、ユーナそのものであった。
「あの、レッドさんです、よね?」
「はぁ」
天に召されてしまいそうな美声が、自分のハンドルネームを呼んでいる。あまりの異常事態に、宏樹はまともな声が出ない。カラカラになった喉では、間抜けな相槌をうつのが限界だった。
「いろいろ、ですね、ありまして」
「はぁ」
再び間抜けな返事をしてしまう。たぶん、今の宏樹は『はぁ』としか言えない。女神を目の当たりにした人類は、意味のある言葉を発する権利などないのだ。
「私も説明が難しいんですけどね」
「はぁ」
「こ、これを受け取ってください!」
細く白い輝くような指から手渡されたのは、一枚の紙だった。焦点の合わない目を何とか凝らす。それはライブのチケットだった。
「えーと、いつもお世話になってるレッドさんには、是非見に来てもらいたくて……」
女神は長いまつ毛を伏せ、自信なげな様子だ。
宏樹はあくまでもアイドルとしてのユーナを画面越しに応援するファンだ。現実感を得たくないからと、今までライブには行ったことがない。
「ずっと探していたんです。あの日、私を助けてくれた人を」
「あの日?」
ユーナの言葉に対し、初めてまともな返事ができた。あの日とは一体なんだろうか。
「私がまだ高校生だった頃です。電車で痴漢から助けてくれた人がいました。でも、私がはっきり言えなくて、その人が犯人扱いされてしまって……」
「え、もしかして」
宏樹の脳裏に、苦い思い出が蘇る。痴漢から女子高生を助けたはずが、自分が犯人扱いをされたこと。そのせいで、勤めていた会社を辞めるはめになったこと。それ以来、現実の人間を信用できなくなったこと。
「はい。私なんです。あの時はありがとうございました。そして、ごめんなさい。まさか、アイドルになった後でも私を助けてくれていたなんて」
「どうして俺だと?」
「あ、それは、ですね……」
ユーナのネタばらしに、宏樹は驚愕した。
ブルーはユーナのマネージャー、青山 秀雄だった。
グリーンはユーナの専属ボディガード、緑川 義久だった。
イエローはユーナのダンスコーチ、黄村 里美だった。
ピンクはユーナのスタイリスト、田島 桃子だった。
つまり、全員関係者だったのだ。
「騙されて、いたんだ」
「いえいえ! それは違います!」
荒らげた声も、可憐だった。
最初はユーナを守ろうとする変なファンを監視していたそうだ。しかし、レッドが本気だと知ると、同志として信頼し合うようになっていった。皆、アイドルのユーナを愛していたのだ。
「ストーカーの話は?」
「あれは、私が皆にお願いして」
「はあぁぁぁ……」
宏樹は大きくため息をついた。三日前からため息まみれの生活だ。ストーカーがいないのはよかったが、これまでの気苦労がのしかかってくる。それに、もうユーナを女神とは思えなくなってしまった。宏樹にとっては、生きがいがなくなるのに等しい悲劇だ。
「そ、それでですね、できればこれから、あの、個人的にも、助けてもらえたら、なんて……」
「へ?」
「あ、あの、迷惑で、なければですけど」
宏樹は思い出した。あの時も、こんな顔をしていた。俯いて、小さな声で何かを言おうとしていた。明るく綺麗で強いアイドルのユーナではなく、ただの女性だ。
これが彼女の本当の姿なのかもしれない。これはだめだ。これは推せない。だから宏樹は、腹を括るしかなかった。
「君には、ユーナをやっていてもらいたいんだ」
「はぁ」
今度は向こうが間抜けな返事をする番だった。
「俺の推しは、ユーナなんだ。君がユーナをやるなら、俺はどんなことでもする」
「じゃ、じゃあ……」
「だから、俺はレッドをやるよ」
それが宏樹にとっての精一杯の返答だった。
「ありがとうございます。レッドさんは私のヒーローです」
「これは契約だよ」
ヒーローという言葉が怖くて、あえて事務的な言葉を返した。それでも、悪い気はしていなかった。
「じゃあ、まずはお友達からで」
「は?」
何か違う方向に事が進んでいる予感がする。宏樹はあくまでもファンの一人でいるつもりだった。目の前で目を輝かせている女性は、たぶんアイドルのつもりではない。
「私がユーナをやるのに必要なんです。あなたというヒーローが。えっと、まずはお名前を聞いてもいいですか? あ、私の本名は……」
やっぱり違う。どうやら、ユーナのヒーローであるためには、彼女自身のヒーローにもならないといけないようだった。
※プロットはPON!ぽこ、本文は日諸畔作です。