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「感謝を」
胸の前で手を組み、祈りを捧げる。
一日三度の食事の前にこの言葉を言うのは、決まりのようなものだ。
「……」
「好きに食べてくれていいぞ。順番も気にしなくていい。なに、平民たちは皆、このようにして食べているらしいから気にするな」
「はい」
マナー通りに手を付けるべきだろうかと考えていると、王子が助け船を出してくれた。
その言葉に有り難く頷く。
私も市井に出て、食べ歩きをしている女だ。
平民たちがどのように食事をしているかくらいは分かっている。だが、仮にも王族である王子の前でそれはどうだろうかと躊躇したのだが、その当人が良いと言うのなら別にいいかと気にしないことにした。
「では、このおむらいすとやらをいただいても?」
「ああ。あと発音は『オムライス』だ。スプーンで食べることを推奨する。チキンライスを卵でくるんだ料理だ。上に掛かっているのはブラウンソースだな。牛肉と玉葱と一緒に煮込んでいる」
「『オムライス』ですね? チキンライス、というのが何かもよく分かりませんが……いただきますわ」
スプーンを取り、丸い形の端っこを崩す。柔らかい。とろりと卵がとろけた。中からご飯が出てくる。一口サイズの鶏肉が入っていた。
普段、コース料理ばかり食べている身には非常に新鮮だった。
「……」
ドキドキしながらスプーンですくい、口の中に入れた。
「……!」
未知の味だった。
とろけた卵が絶妙な味を出している。
ご飯にはバターの味がついていて、それがふわりと口の中に広がる。
鶏肉は柔らかく、全てが一体となって、私に襲いかかってきた。
――こんなの、初めて食べたわ。
王都で食べ歩きをしている私でも知らない。
何とも言えない優しい味が、身体中に染みわたっていく。
「……美味しい」
口を押さえ、思わず呟く。
ふわとろの卵がとんでもなく美味しかった。
ブラウンソースの濃さがちょうどいい。柔らかい牛肉との相性が抜群だった。
「っ!」
我慢できない。
私はすぐさまオムライスを掬い、二口目を食べた。
やっぱり信じられないくらいに美味しい。
無心で食べ続ける。
スプーンを動かす手が止まらない。
なんなんだろう、この味は。
知らない、こんな味、食べたことない。
でも止まらなくて、止めたくなくて、気づけばあっという間に完食してしまった。
「あ……」
もう一口、と思ったところで、すでに全部を食べ終わっていたことに気づく。
夢中で、なくなったことにも気づいていなかったなんて。
「……」
――もう終わりだなんて……。
この『オムライス』をもう少し味わいたかった。あんなのでは全然足りない。
「ずいぶんと気に入ってくれたようだな」
「っ! す、すみません。私、夢中になっていて……」
声を掛けられるまで、王子の存在を完全に忘れていた。
さすがに申し訳なかったと思い謝ったが、王子は笑顔で怒っている感じではなさそうだ。それにホッとした。
「構わない。思っていた以上の食べっぷりが気持ちよかったからな。オムライス、美味しかったか?」
「それは……はい、もちろんです!」
コクコクと何度も頷く。
「初めて見ましたし、食べました。これはどちらの料理なのですか?」
「外国に行けばもしかしたらあるかもしれないが、少なくともノアノルンにはないな。まあ、私のオリジナルだと思ってもらえばいい」
「オリジナル! すごい……!」
まさかのオリジナルだと聞き、感激した。
こんな美味しい料理を発明できるなんて、王子は生まれる場所を間違ったとしか思えない。これで料理人でないなんて、宝の持ち腐れである。
「……完全にオリジナルかと言われると違うのだが、まあ……記憶の再現というか。そのあたりは気にしてくれるな。外に広める気はないしな」
「そうなんですか? 勿体ない……こんなに美味しいのに」
本当に素晴らしい味だった。
私ひとりで食べるのが惜しいと本気で思うくらいには。
だが、王子は笑って言う。
「私の本業はあくまでも『王子』であり『王太子』だからな。さすがにそんなことをしている暇はない」
「そ、そうですよね」
「できて、結婚相手の世話をするくらいがせいぜいだな。だから今後も広める気はない。つまり私の料理は君が独り占めすることになるわけだ」
「っ!」
ずっきゅーん と胸を打ち抜かれた気持ちになった。
なんという口説き文句だろう。
何を言われるよりもときめいた気がする。
私が? 殿下のこの素晴らしい料理を独り占め?
「で、で……殿下」
「さらに言うと、私のレパートリーは五十を優に越える。今後も君の見たことのない料理を提供することができるだろう」
「ご、ごじゅう……!」
素敵過ぎて、死ぬかと思った。
見なくても分かるくらい頬が熱い。
これからも王子の料理を食べることができる。しかも何十種類もの未知なる料理が私を待っているのだと聞かされ、幸福過ぎて眩暈がするかと思った。
「わ、私が、それを全部いただいても?」
「もちろんだ。君が私の結婚相手なのだから」
「ありがとうございます。私、殿下と結婚できるのが本当に嬉しいです。幸せです」
最早王子を拝み倒したい気分である。王子を私の結婚相手にと選んでくれた父にも大感謝だ。
使用人の有無などどうでもいい。これ以上、私にとって幸せな結婚があるだろうか。
キラキラと目を輝かせて殿下を見つめる。
後ろに控えていたアーノルドとカーティスがこそこそと話すのが聞こえた。
「……ね? 面白いでしょう?」
「かんっぜんに食い物で釣られてるだけじゃん。あの子、殿下の顔には興味ないの?」
「僕の見る限りなさそうですね。反応がいいのは、料理の話を出した時ばかりです」
「何それ、おもしれー。徹底してるし」
「まあ、殿下にぴったりなのでは?」
「……」
言葉がトゲのようにチクチクと刺さるが、何も言い返せない。
だって確かにアーノルドたちの言う通りだったからだ。
王子の顔になど興味はない。私は何よりも食を優先する女なのだから。
微妙な顔をしていると、それに気づいた王子が笑った。
「気にするな。私は君がしっかり食べてくれる女性で嬉しい。君が婚約者で良かったと私も思っているぞ」
「そ、そうですか。それならまあ……」
王子がいいと言ってくれるのならまあ、いいか。
そんな風に思っていると、王子が立ち上がった。
私に向かって笑顔で言う。
「ところで、まだ材料は残っている。――おかわりはどうだ?」
「お願いします!」
即答した。
結局私は、こういう女なのである。
うしろで双子が爆笑していたが、最早私にはどうでもよかった。
――オムライス、万歳。




