1 prologue
目の前に広がるこの光景を見ても、私は全く楽しさを見出せなかった。今、名前もつけられず、家畜や囚人と同様に番号で呼ばれていた哀れな男がライオンと戦い、敗れた。つまり、死んだ。ギャラリーは熱狂している。本当、熱く狂っているのだ。
ここはコロッセオである。ここ日本では2198年、つまり今から二年前に官営コロッセオが作られた。今日は親友の赤坂すみれに連れられてここへ来た。
「陽乃、すごかったね!興奮しちゃった。」
私は言葉に詰まった。自分から言わせてもらえば、これは異常である。身分が違うとはいえ、生物学上は私達と同じ生物が、あんな目に合っているというのに。
なんと返そうか迷っていると、爽やかな雰囲気の青年が私達に近付いてきた。
「こんにちは、すみれちゃん。」
「紘さん、こんにちは。」
知り合いだろうか。紘と呼ばれた男は童話的な瞳で笑った。
そして、急に目の色が変わったように見えた。つい先ほどまでの無邪気な印象は消えており、少し恐怖を抱く。何かに絶望しているような、それでいて縋る何かを求めているような・・・そういう目に見える。自分の精神、身体が飲み込まれるような感覚を覚えた。私は、どうもこういうものに敏感なのだ。相手が隠している本音はいとも簡単に分かってしまうし、感受性が強いせいで色々なものに影響されやすい。
ふとすみれを見ると、彼女はにこにこと笑っていた。なにも気付いていないようである。もう一度紘さんを見ると、彼もにこにこと笑っていた。ついさっきまでの気迫はどこへいってしまったのだろうか。私の勘違いであったのか。
彼は口を開いた。
「そういえばさ、今から150年前は、命を尊ぶ時代だったらしいよ。」
私は思わず彼を見た。間違いない、この人は私と同じ考えを持っている。人の命が床に落ちているごみくずの如く扱われていいはずがないのだ。世間や民意が人命を犠牲に娯楽を求める方へ傾いても、意見を曲げることは出来なかった。だって、この歪曲した環境の中で自分自身も歪もうと真っ直ぐに努力するなんて愉快な真似が私にできる?馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
「え?ありえないです。今は死んでもすぐ同じ遺伝子のコピーを作れるのに。しかも、記憶も引き継がれる。」
このシステムは間違っている。これまで死ぬことによってつり合いが保たれていたはずなのに、人類は不死身になってもいいのかーー否。いいはずがない。理由はうまく説明できないけれど、倫理として曲がっていると思う。
「・・・そうだね。僕はこの後、やりたいことがあるからもう行くよ。」
「はい。またいつか、紘さん。」
「うん、またね。」
彼はすれ違い様に、私の手へ髪を押し付けた。その内容はこうだ。
「今の話を聞きたかったら、コロッセオを出てすぐの喫茶店へ来て。」
「すみれ、ごめん。私、頭痛くなってきたから帰るね。また明日。」