46話 気狂いは自らの正気を疑わない
「―――リィッ、ゼェエエエ!!」
訓練場と森の境目に、ふわりと蛍みたいに漂ったあの光は確かにゴーストであるリゼだった。
◇
高いところから突き落とされたような感覚で飛び起きた。時計をみればまだ日は変わっていない。礼くんはすやすや寝息を隣でたてていて、起こしてしまわなかったことに安堵の息を静かに吐いた。
悪夢でも見ていたかのように冷たい汗で貫頭衣が肌に張り付いている。全くもって記憶にないけど。
少し駆け足の鼓動が落ち着かなくて、そおっとベッドを抜け出した。
ここしばらくずっとなかったのに。
うなされて起きることもなくなってたのに。
古代遺跡に攫われていた間のことは、エルネスもザザさんも深く聞いては来ない。事実関係や起きたことを時系列順に話してはいるけど、主犯組織はすでに殲滅済みの今、これ以上追及する理由などない。されても困る。覚えてないのだから。
説明したことが全てだとは彼女らは思ってはいないし、話したくない部分なのだと思っていてくれているようだけど、単に覚えていないのだ。
リコッタさんのことやザギルやロブたちとのやりとりはほぼ覚えてはいる。けれどその情景はどこかスクリーンを張ったように現実味がないし、ログールをヘスカに埋め込まれてから何をされていたのかはほとんど覚えていない。幻覚は見ていたと思う。その幻覚も日を追うごとに朧気になってきている。
恐怖のストレスなんだと思う。薄れていく記憶は薄れさせるままのほうがきっといい気がする。首輪の感触を不意に思いだして凍りつく瞬間がたまにあるとき以外は、ストレスそのものを感じていないのだから。
うなされていたという事実はあっても、うなされている間見ていたであろう情景も思いだせない。
心の防衛機能そのままに委ねたほうがきっといいと思うのに、自分の中に自分が把握できていないことがあるのが気に入らなくてしょうがないのは多分私の性質なんだろう。
魔力を制御できないことも腹立たしいしね。実に傲慢な話だ。
あきらめるのも、折り合いをつけるのも、得意なはずだったのに、この世界に来てからというもの、意のままに踊れる身体を手に入れて、心地の良い好意をむけられて、きっと私は強欲になっているんじゃないかな。
「まいったもんだねぇこれは」
そうなんとはなしにつぶやいて、バルコニーへ続く窓を細く開けて滑り出れば、澄み切った夜空と満天の星。空気は冷たいけれど風もない。
三日月が、この世界のこの星も丸いのだと教えてくれる。
シャガールの青が一面の雪景色を染め上げている中、吐く息は白く顔にまとわりつく。
手すりに載ってる雪をとりたくて手を伸ばしたら、訓練場を横切って宿舎へと向かう小道を歩くザザさんが見えた。雪明りでランタンは必要ないからか手ぶらだ。
(ザザさーんっ)
囁き声をはりあげながら、軽く握った雪球を放れば、見上げるザザさんと目が合った。
(今日も残業?)
(ちょっと吞んでただけですよ)
(そっかー。おつかれさま、おやすみなさい)
手を振り返してくれてから、また宿舎に向かうザザさんの背中を見送って、ふとその先へと視線を流せば。
訓練場の端に、ヒカリゴケと同じ色の発光が見えた。
◇
バルコニーの手すりを踏み台に飛び出し、障壁を次々出しては蹴って加速させ瞬時に訓練場を横切り、制止の声をあげるザザさんに来るなと叫んだ。
よくもまたのうのうと私の前に現れた。
礼くんたちのいるここに近寄らせはしない。
木々の隙間に消えていった光を追って森に飛び込む。木の幹を足場に方角を変え、視界を塞ぐ木の枝の雪を次々に叩き落しながら駆けていくのに、ふわふわと漂う光に追いつけない。
「うるぁ!」
光めがけて地面に叩きつけるべく重力魔法を飛ばせば、積もった新雪が雪煙をあげて残すクレーターには何の痕跡もなく、また離れた位置にぼんやり浮かぶ光の影。
勇者陣の誰一人追いつけない速度で走っているはずなのに、揶揄い誘う光が苛立たしい。
四つ目に穿った直径三メートルほどの浅いクレーターのど真ん中に立った時には、もうあたりに光が浮かぶことはなかった。
うなじがざわつく。興奮で息が荒い。ふーっふーっと響くのは私の息遣いだけだ。
「カズハ!」
背後に突然現れた気配に脊髄反射でとびかかったけれど、私の名を呼ぶ声で静止できた。
「ザザさん、ザギル……見た?」
「いや。何を見た」
交互に二人の顔をみれば、そこには戸惑いと焦り。何も見ていないと横に首を振っている。
二人とも、見ていない―――?
ざあっと、背筋に氷柱が突き刺さるように冷たいものが走っていった。
耳鳴りする。おしまいを知らせる銅鑼の音のように。
がんがんと耳の奥で鳴る音を止めなくては。落ち着かなくては。
「―――来るなといった」
自分の声と思えないほど低い声がもれた。落ち着かなくては。目を閉じて深呼吸をみっつ。
「カズハさん」
「……すみません。ゴーストがいた、いたと思ったんだけど逃がしました。戻りましょう、二人とも風邪ひいちゃう」
「馬鹿が。殺気立ちすぎだ。産後の獣かよ」
ザギルに襟首を捕まえられれば、あふれんばかりに暴れていた魔力が凪いで、強張っていた首の力がかすかに緩んだ。
「氷壁、落ち着かせろ」
放り投げるようにザザさんへと押し付けられる。ハシバミ色の瞳が薄青の環をもつ金に変わった。
「平気です。落ち着きました」
「カズハさん」
「大丈夫です」
「―――カズハ」
「……はい」
「判断が間違っている。一人で飛び出すのではなく僕やザギルを連れていくべきだった」
「私が一番速い」
「でもダメだった。あなたがわからないはずがない。わからないなら大丈夫じゃないってことだ」
硬い口調とは裏腹に、頭を撫でる手はやさしい。逆立っているうなじがなだめられていく。
「―――裸足じゃないですか」
抱きかかえられて初めて自分の手足が震えていることに気づく。
こんなのはいやだ。
恐怖だろうと怒りだろうと悲しみだろうと、振り回されたくはないのだ。
私のものは私が制御できてなくちゃ嫌なんだ。
ああ、本当に気に入らない。
◇
「リゼの姿を見たんですね?」
私を抱きかかえたまま器用に上着を脱いで巻きつけながら、ザザさんが周囲を警戒している。
「……姿そのもの、じゃないです。あいつ、発光してるから。その光を、みました、けど」
幻覚、じゃない。そのはず。
「ザギル、行くぞ。調査班を組んで辺りを調べさせる」
「んー」
ザギルはしゃがみこんで、氷の粒となった積雪の底をかき分けていた。
「……いたの。ほんとに」
「ええ、天気は崩れないと思いますが、城についたらすぐ手配します。痕跡が消える前に動けますよ。おい、ザギル」
「あー、調査班には研究所のやつら入れろ。どうせあいつらこっそり残業してんだろ」
「ふたりとも、見てないって」
「―――カズハさん?」
ザギルが手のひらに雪を掬いあげて立ち上がった。
「おう、やっぱなんかあんぞ。多分ヒカリゴケの残骸だ。あのガラクタと同じ光だったしよ。これだろ」
貧血が一気に襲ってきたように力が抜けた。幻覚じゃ、なかった。
「よく見つけたな」
「ちっせぇ魔力が消えてく瞬間がちょうど見えた」
「本当に腹立たしいほど有能だなお前」
「抜かせ」
……ヒカリゴケ? 確かにリゼと同じ色の光を発するもの。
現にヒカリゴケと同じ色だからとリゼだと思った。
でもなんであの遺跡の壁にはりついているはずのものがここにあるの。
「ここ、どこ」
夢中で追いかけていたから、方向感覚が失われている。
「あー、……あの遺跡の入り口の近くだな」
まるで誘うように、揶揄うように、甚振るように。
「―――逃げて。二人ともすぐ!」
ザザさんの腕をふりほどいて、足が雪に埋まると同時にザギルの腕もひいて、二人を背中にかばった瞬間、あの軽薄にのんびりとしたイラつく声が降ってきた。
「ふふっ、来ちゃったー」
◇
ずっとひっかかっていた。
滅びた古代文明、建国以来ずっとひたすら記録を大切につなぎ続けていたこの国にすら、資料のない文明。カザルナ王国だけじゃない。三大国すべての記録に残らず、遺跡や長命種の伝承にだけ、おぼろげに存在を示すもの。
魔族や魔王の存在は各国の建国時点からすでに記録されている。というよりは建国以前から魔族との争いは続いていると言ったほうが正確だ。
オブシリスタをはじめ、築かれては消える南方諸国になど、記録どころか古代文明を扱う術などあるはずがない。古代遺跡に住まうオートマタ、あれをもし扱えるものがいるのだとしたら、一番可能性があるのは魔族だ。
調べても調べてもつながりを示すものなどなかった。
あのモルダモーデの襲撃以外、魔族が北の国境線以南に現れた記録はない。
ゴーストはずっと無害であると信じられていた。
とても憶測だけで言えなかった。
ゴーストは魔族と関係するかもしれないなどと。
いつどこに魔族がゴーストのように現れるかわかったものではないなどと。
「モルダモーデっ!!」
クレーターのふち、私に吹き飛ばされて積もった新雪の上に、跡もつけずに立っている二対の蝙蝠の羽根を持つもの。
そいつに飛びかかろうと足を踏み出したとき、私の襟首と腕をそれぞれ掴んだ二本の腕。
そのまま後方に投げ出されて、すぐそばの木から落ちてきた重い雪に埋められた。
一瞬見失った上下感覚に、慌てて跳ね起きれば、私がしゃがみこんでやっと収まるくらいの透明な立方体に閉じ込められていた。
モルダモーデと私の間に立ちふさがるザザさんとザギルの背中。
ザザさんはロングソードを突くように構え、ザギルは低く腰を落としてククリ刀を鞘から抜いている。
「なにこれっ」
透明な壁を叩けば、手のひらが張り付くように冷たい氷。
打ちあがる信号火は赤と緑。もうこの色の意味は知っている。『勇者を逃がせ』だ。
「―――カズハを連れて逃げられるか」
「いやぁ、アレは無理だろな。三分欲しい」
「三分は俺ももたん」
「何言ってんの! 何言ってんの! 私が一番強い!」
「……逃げては、くれないだろうな」
「だなぁ」
ははっと陽気なモルダモーデの笑い声。
「相変わらずの蛮勇っぷりだ。一番強いのは俺だろう? ああ、でも閉じ込めてくれてるならちょうどいい。彼女に挨拶したかっただけだからさ」
なにこれ。この壁、ザザさんの壁なの。モルダモーデじゃなく?
「挨拶だぁ? おいアレ、知り合いなのかよ」
「何いってんだお前は」
「一応確認だっつの」
「魔族だ」
「おいおいおいおい……魔族って挨拶すんのかよ」
珍しいザザさんの荒い口調と、いつものザギルの軽口。
「酷いなぁ。というか、なんで君みたいなのがこんなところにいるんだ、竜人」
「うっせぇよ、あのちっこいのに雇われてんだ」
「ほお? 全く、今代の勇者は本当に予想を上回ってくれる。楽しくてしょうがないよ、ねえ? カズハといったよね? 見違えたね。もうおばさんなんて呼べないじゃないか。ああ、俺があと五十年若かったら求婚してもよかったのに」
「断る!」
「それは残念。実に魅力的に育ちつつあるというのにねぇ。でも、そうだね、この二人にさ、おとなしくするように言ってよ。本当に挨拶にきただけなんだからさ」
「嘘つけ!」
なんで壁壊れないの。どうして。
「あ、そこの騎士くんがせっかく張ってくれたからさ。強化したんだよ。まだ君には壊せないだろうね」
「―――っ、俺の壁に強化だと?」
「うん。騎士くん、なかなかのいい腕だよ。ただのヒト族とは思えないくらいだ。まだ未熟な勇者をかばう心意気も、実にこの国の騎士らしい。逃げない彼女を守るには、こうして閉じ込めて時間稼ぎするしかないよねぇ。はははっ本当にね、君みたいなのはまだ殺したくない。それに今ここで君が潰れたら、きっと彼女は壊れるだろうしね」
「モルダモーデ! 挨拶しにきたんでしょ! こんばんは! さようなら! 失せろ!」
「あはっあはははははっげほっ」
前と同じように、楽しそうにむせながら笑うモルダモーデは、左手で口を押さえながら、右手をあしらうように払った。
「まあ、挨拶だけってのは嘘じゃないよ。俺は嘘はつかない。ただね、少し用事があったからついでにさ」
空間を抱えるように曲げた右腕に、ゆらりと現れたのは身体を二つ折りに閉じたリゼ。洗濯物を干すようにぶら下げられている紫の髪。
「結構愛着あってね、これ。返してもらいにきたんだけど……驚かないんだねぇ」
「―――やっぱりお前のか」
子どもを抱きなおすように、丁寧にリゼを右腕に座らせる。
「なんで気づいたんだい?」
「お前の消え方と同じ」
「それから?」
「やり口が、同じ」
「やり口?」
「いつだって奪えるくせに、そのくらいの力があるくせに、決定的な攻撃をしない。前線は動かさないし、そいつも肝心なところで姿を消した。暇つぶしだかなんだか知らないけど」
目的のわからない魔族の攻撃。奪うでなく、殲滅するでなく、こちらが放置できない程度の攻撃を続けている。戦い続けることそのものが目的かのように。
簡単に壊せたはずの勇者を囲い込みながら、あっさりとリゼに切り捨てられたロブたち。目的は拉致ではないのだとほくそ笑むように。
甚振り尽くせるゲームが終わってしまわないように。
いつまでも遊んでいたいというように。
「ふふふっ、いいなぁ。君本当に妻に迎えたかったよ」
「いらん!」
「……君は引くところは引ける女だ。そうだろう?」
ザザさんとザギルには目もくれず、モルダモーデは愛しげにリゼのもつれた髪を整える。
「ザギル、動かないで。ザザさんも。それからこの壁を消して。私も動かない」
「うんうん、いいね。褒美にいいことを教えてあげるよ。そうだな、これからしばらく前線の魔族は姿を見せない」
「―――信じられる根拠は?」
じりじりと、私を隠すようにザザさんが後退する。早く、早くこの壁を消して。
「いいね。騎士団長だっけ。得られる情報は得ないとね。すぐわかることだけどさ。でも操り手のいない魔獣が残るからね、ちょっとは荒れるだろう。ただ魔獣相手だけなら勇者がいなくてもなんとかなるはずだ。俺たちにも予定があってね、少し時間をあげることにしたんだ」
「なんのための時間だ」
「君には関係ないよ。君らが有効に時間を使えるように教えてあげてるんだ。時は金なり、だろう? あと大サービスするなら、南に気をつけるんだね」
「またオブシリスタみたいに差し向ける気なの」
「ああ、カズハ、俺の期待を裏切らないね。でも違うよ。次からは違う。言ったろう嘘はつかない。君と騎士くんも殺さない」
誘うように、揶揄うように、軽薄としかいいようのない笑顔。
「―――ザギル! 逃げて!」
「ざけんな!」
青く輝く雪影を濃紺に染めて中空から現れたマンティコア。トラの体躯とヒトの顔立ちを持つ獣。
あの日もモルダモーデが連れてきていた紫雷を放つ魔獣が、一抱えもあるその爪を広げてザギルに振り降ろした。