24話 失ったことすらなかったことにするほどの
「リゼ」さんは、匍匐前進をやめると上体を起こしてぺたりと座り込んだ。リコッタさんは愛おしそうな目を細めているのに「娘」に触れようとはしない。ただ向かい合って座り込んで語り掛けている。
どこで遊んでいたの? ああ、いいのよ。おかえりなさい。喉は乾いていない? おなかは? ああ、ミルクがあればいいのに。あのひとたちはもってきてくれるかしら。きっともうすぐお迎えがくるからね。一緒にいいこで待ちましょうね。
リゼ、ゴーストはぴたりとその動きを止めている。きしむ音もしない。すっかり置物の風情だ。リコッタさんには「娘」が返事をしているように聞こえているのだろうか。反応のなさに全く頓着してる様子がない。ただ一方通行の会話が続いている。
ねえ、リゼ、ほら、あの方がカズハさんよ。あなたと同じくらいの年。そう、きっといいおともだちになれるわ。妹が欲しいって言ってたものね。そうよ一緒に暮らすのよ。カズハさんはとてもやさしいの。ふふ。ああ、素敵ねぇ。
お、同じ年? 妹なんだ? 私のほうが?
これから行くところはね、南の小さな村なんですって。暖かいところだっていうからきっと畑もつくれるわ。一緒にトマトルも育てましょう。リゼ、あなたの大好物だものね。ああ、大丈夫。魔物なんていないわ。もうなんにも怖いことなんてないのよ。リゼ、お料理も一緒にしましょう。そうそう、刺繍も途中だったわね。行く途中でお洋服も買いましょう。カズハさんとおそろいがいいわ。なんて素敵。
ヒカリゴケの薄明かりと、リコッタさんが持ちこんだランタンの灯りと、あの夜見たのと同じゴースト自身が纏っている光で、部屋はそれなりに明るくなっている。ヒカリゴケとゴーストの光は同じ淡い緑色で、ランタンはオレンジ色。本来ならおどろおどろしいであろうつくりの部屋はその灯りのせいでやけにファンタジー色が強くなっていた。
リゼと呼ばれているゴーストは、あの晩よりも明るいこの光の下で見ると質感があからさまに「おばけ」ではないことがわかる。かといって生物でもない。人形だ。陶器のようなすべらかな肌、水気のない紫の髪。床を匍匐前進している名残であろう土埃やクモの巣をひっつけて、すり切れたドレスもボロボロに色あせている。所謂からくり人形だから、動くとあのきりきりと軋む音がするのだろう。
エルネスが近寄ると消えてしまったという話だし、あの晩だって礼くんが部屋を飛び出した後に戻ると跡形もなく姿を消していた。そのからくりがどんなものなのかわからないけれど、種も仕掛けもあるのだと思う。
リコッタさんは滔々と少し先の未来を語る。娘と過ごすはずだった過去をこれから訪れる未来として。それは母と娘が紡ぐであろうささやかな日常。極々平凡な、夢として語るほどのことでもない程度の当たり前の日常。
たとえこの世界が現代日本に比べ、生き残るのがほんの少し厳しい世界だったとしても、大多数の人々はやはり今日と同じ明日が訪れると信じて暮らしている。騎士の妻であったリコッタさんは標準よりも裕福であっただろうからなおのこと。夫がいつ殉職するかわからない職であったとしても、それが日常になればやはり明日も同じ日常だと信じて暮らしていたはず。
失われた日常を、失ったことすらなかったことにして、リコッタさんは語り続けている。
そこになんで私が入り込んで語られているのか、それが問題だ。
何故私がその未来に当然のごとく登場しているんだ。
いや、待て、冷静になれ和葉。それは今は問題じゃない。
リコッタさんに聞いたところで理路整然とした回答など得られるはずもない。そりゃあ、リコッタさんにとっては理路整然とした当たり前のことなのだろうけども、私には納得できる回答ではないだろう。
ごつごつとした石床は冷たい。ひんやりとした空気が沈んでいる。冷えるわぁやだわぁ。ただでさえ手足が冷たいのに。女子の足腰に優しくない部屋だ。もぞもぞゆっくりと重い鎖を手繰り寄せて束にして、足元にとぐろを巻かせる。ハンマーを振り回している私にならネックレスにしたっていいくらいの軽さだったはずだ。普段なら。
魔吸いの首輪の効果なんだろう。魔力を練りにくいせいで普段の力がまるで出ない。でもまあ、持てないほどじゃない。
なんとか床からベッドの上に座りなおせた。だるい。
少なくとも今すぐどうこうという危機はない。リコッタさんが私を傷つけることも今はないだろう。けれど、さっきから言葉の端々に「これから迎えにくる人たち」が登場している。その人たちがどういうつもりなのかはわからない。あやめさんを襲撃した輩と同じ集団なのか、それとも違う集団なのか。勇者を狙う者たちの目的も組織も様々だと聞いている。ただ、どの組織であったとしても、私をこのまま城に帰してくれることだけはないはず。それは困る。礼くんが待っているのだから。
私はあの王城での暮らしが気に入ってるのだから。
◇
息を静かに吸って、吐いて。
規則正しく脈打つ鼓動を意識して。
目は閉じず、警戒などおくびにも出さず、仲睦まじい「母娘」を眺めるふうを装ったまま。
指先に、つま先に、細い血管の一筋一筋にめぐる流れを探って。
初めて魔力を感じ取ったときを思い出しながら、すっかり慣れて無意識にまで落とし込んでいた練り方をもう一度丁寧に再現する。
魔力を練るのは、カレーのようなとろみのある液体を鍋でかきまわすことによく似ている。
私という器の中で、あふれることのないように静かに、焦げ付かないようにむらなく、ゆるゆると一定の速さでもってめぐるように。
魔吸いの首輪の効果なのか、澱んでいた魔力の凝りを解きほぐす。
残り少ないカレーを温めなおすときは焦げやすいのと同じ。
いつもよりはるかに少ない魔力が体のすみずみまでゆきわたるように丁寧に丁寧に。
魔力の流れと同調するようにぐるぐると回りかける視界や吐き気を抑えながら、耐えられるギリギリのラインを探り。
―――ほんの少しだけ、手足の先にぬくもりが戻ってきはじめた。
◇
「私、どのくらい寝てたんです?」
会話をしながらでも乱れない程度に魔力を巡らせるコツをつかんでから、リコッタさんに語り掛けた。
さんざん私のことをリゼさんとの会話に登場させておきながら、私の存在を忘れていたかのようにぱちくりと見返したリコッタさん。忘れていたかのようにというか忘れてたよね。これね。二人、いや一人と一体の世界に入り込んでたものね。
「―――どのくらいでしょう。んー、半日はたってないと思いますよ」
「お迎えがくるんでしたっけ?」
「ええ、もうすぐです」
「お迎えにくる人ってどんな人? 何人くらい?」
「親切な、なんでも知ってる人です。この地下の部屋や入り口も教えてくれましたし」
ほほぉ。城の人間も知らない秘密の通路を知っているとな。
「リコッタさんは優しくしてもらったの?」
「ええ、ええ、だってその人、カズハさんが前線に連れていかれるって教えてくれたんです。だから助けなきゃって」
「……それがリコッタさんの『優しくしてもらった』ことなの?」
「カズハさん、死んじゃうじゃないですか。前線なんかに行ったら死んじゃいますよ。こんなに小さい女の子なのに」
「私、強いよ? 一応勇者だし」
「駄目です。夫だってそういってました。でも」
くっ、と息を呑み、リコッタさんの瞳孔がゆるゆると左右に揺れ、すぅっと瞳の色が薄らいだ。一瞬だけの硬直のあと、また視線をリゼへと戻しふにゃりと表情を緩める。
「リゼ? おなかすいてない? だいじょうぶ? そう、いいこね。もうちょっと待ってね」
「リコッタさん?」
「―――ああ、カズハさん、喉は乾いてませんか?」
また、私の存在を今思い出したかのように、目を瞬かせる。
「ううん。だいじょうぶ。ありがとう。リコッタさんはどのくらい厨房につとめてたんだっけ?」
「七年くらいになりますかねぇ。みなさんとてもいいひとばかりで」
「……どうして厨房に勤め始めたの?」
「みなさんと同じなんですよ。厨房の女性はほとんどそうです。境遇が似ているからですかね、お互い本当に気のおけないというか」
「どう、同じなの?」
「それは、夫とリゼが―――リゼ? おなかすいてない? だいじょうぶ? そう、いいこね。もうちょっと待っててね。ああ、カズハさん、喉はかわいてませんか?」
正しい質問を選ばなければ延々と同じ答えを繰り返すゲームと同じに。
この先の未来にあってはならない『過去』を口にできないリコッタさんは、母親が子どもに一番神経をつかうであろう空腹と渇きを気遣い続ける。
そうか、触れちゃいけないんだね。失ってしまったことにもう触れたくないんだね。
母親で、いたいんだ。
七年も隠し通していけるだろうか。境遇の似ている、優しい女性たちに囲まれて気づかれずにいられるだろうか。だったら「こう」なったのはつい最近のことなんだろう。
厨房と宿舎を往復するだけの毎日なら、王城で子どもに触れる機会は少ない。ルディ王子や王女殿下だって、王族の住まう棟から出てくることはさほどない。
私のこの姿が引き金になったのかもしれない。
失った娘とおそらく同じ年頃であったであろう私の姿が、娘と同じ年頃に見える私が前線へ行くという話が、彼女の背を押したのかもしれない。
幼い子どもを失った母親の痛みなど、私にわかるはずもない。わかると思うほど不遜ではない。
ああ、けれど、給食で食いつないでいる子どもがいると知った時、テレビのニュースが子どもの事故や事件を伝える時、果ては子どもが命を落とすドラマを見た時ですら、もしこれがうちの子たちの身に起きてしまったらと、恐怖が背中を冷たくなぞる感触を覚えたものだった。
経験を伴わない妄想ですらこうなのに。子どもの死という実体験を基にした仮定に、私だったら耐えられるだろうか。
乱れた魔力の流れで、またぐるぐると視界が回り始めた。
傾いた体を右手でベットの端を掴み支える。
ふぅっと、細く息を吐き軽く頭を左右に振る。
いかん。これは今考えることじゃない。
厨房の女性たちだって似たような境遇だと、リコッタさん自身が言っている。リコッタさんだけがこうなってしまった要因を探るなんて無意味なことだ。私だったらどうだろうだなんて仮定も無意味。
「私と、リコッタさんと、リゼ、さんで南の村で暮らすんですね?」
「ええ! 素敵でしょう!」
「でも私、王城の外のことなんて右も左もわかりませんよ。リコッタさんも行ったことないところなんですよね? 家とか、どうするんです?」
「ちゃんとね、親切な人が全部用意してくれるんですって。だからなんの心配もしなくていいんですよ」
「この秘密の通路とか部屋を教えてくれた人?」
「そう」
「その人が、私たちが三人で生活できるように色々してくれるって言ったの?」
「そうですそうです。親切でしょう?」
「そのために、私をこうして連れておいでって?」
「お城の人はみなさん優しいですけど、こうしないと一緒に行けないですからねって」
なるほど。
最終的に私をどうするつもりなのかはわからないけれど、何かに利用するのか、邪魔なものを消してしまうのか、どちらにしろその目的のために、この「母親」をまず利用したわけだ。
娘ともう一度ともに暮らせるという甘言を餌として。
―――なるほど。
「待ち合わせ、してるんですか? もうすぐ迎えが来るのでしょう? 時間決めているとか?」
「リゼがね、連れてきてくれてるはずなんです。すぐ近くにもう来てると思うんです。リゼが帰ってきてから結構たってますもんね?」
「リゼ、さんが?」
「リゼすごいんですよ。この部屋にくるまでの通路、ほんとに迷路みたいで、ああ、この部屋はね、入り口から階段を降りてまっすぐ歩いたところにあるから、私だけでもカズハさんを連れてこれたんですけど。でも他の入り口から入るととてもこの部屋までたどり着けないんです。そんな迷路なのに、リゼ、道案内できるんです」
「へぇ、すごいですね。リゼさん」
するとこのゴーストは、その正体不明の輩たちの道具ということだろうか。……ゴーストの存在は、この世界の人間が「いて当たり前のもの」として認識するほど大昔からあるものなのに?
そんな由緒ある組織なわけか? 勇者をさらうという敵対組織の駒がそんな昔から忍び込まされていたと? いくらなんでもちょっとにわかに信じがたい。けど、今はゴーストが道案内をしていることだけは事実として受け止めるしかないだろう。
「じゃあ、その人、人たち、か。何人かで来るんですよね? もう近くに来てるのなら何してるんだろう。何人で来るか知ってます?」
「……さあ? あ、でもきっと色々準備してるのかもしれませんね。ほら、遠いでしょう。私たちの行く村。きっと何週間もかかる旅になりますもん」
「どうやって村まで行くんだろう? 魔動列車かしら。でもそれだと騎士団が見張ってますよきっと」
「この通路ね、王都のずっと外までつながる道があるんですって。王都の外からここまでリゼの道案内でお迎えにきますって言ってましたから、きっと帰りもリゼの道案内でそこまで行くんだと思います。そのあとは馬車ですかねぇ―――あ」
軋む音をたて、リゼがばたんと這いつくばった。ずるずるとドレスを引きずり、扉とは反対側の壁へと向かいだす。
―――?
纏っているぼんやりとした薄緑の光る靄は、リゼの姿をわずかに揺らめかせて、時折その姿をふっと見えなくさせている。ほんの瞬きほどの間。……これが姿が消えてみえるタネか?
光学迷彩ってきいたことがある。あれはフィクションよね。幸宏さんなら何か知ってるだろうか。けど百五十年前にそんな概念あった? それに多分ゴーストはもっと昔から存在している。いやでも、科学的知識は正確でなくてもいいんだ。姿を消すアイテムや魔法のお話は古今東西どこにでもある。きっとこの世界にだって。
リゼに気を取られすぎて、扉を蹴り開けたような荒々しい音に飛び跳ねた私は、またベッドから転がり落ちた。