23話 突っ込み不在のつらさ、慣れない突っ込みをするつらさ
キリ……キリ……キリ、キリキリ……キリ……
ぜんまいを巻くようなその音が遠くから降ってきて、私の意識を深いところから引き上げていく。
小学生の時に使っていたアナログ目覚まし時計をセットするときのような音。
息子が幼稚園の時にはまったぜんまい式ミニカーを、バックで滑らせるときの音。
娘が幼稚園の頃にねだった、バイオリンを弾く猫の仕掛けがあるオルゴールのぜんまいを巻く音。
断続的なそれは、ゆらりゆらりと私を引き上げながら揺さぶる。
―――キリキリ……キリ……
なんだろう。また夫がテレビをつけっぱなしで寝たのだろうか。
もう起きなきゃいけない時間だろうか。
朝ごはんを作らなくては。目覚ましはまだ鳴らない。もうすぐ鳴ってしまうだろうか。
後頭部から首筋、肩甲骨の間くらいまでがずっしりと重く強張っている。
手足は冷たいのに汗ばんでいる。
関節が鈍く痛む。
いやだな。起きたくないな。でも朝ごはんつくらなきゃ。
がんばれば起き上がれる。だったらごはんつくらなきゃ。
みんな勝手に食べてくれないかな。パンだったら、ああ、だめだ。寝る前に炊飯器のタイマーをセットしてしまった。炊き立てのごはんがもったいない。
つくれなかったら買って食べるからお金ちょうだいっていうんだもの。夫がだらしないって小声でいうんだもの。
起きたくない。動きたくない。でも毎朝のことだもの。きっと動き出したら体はちゃんとあたたまってくれるはず。動かなかったら動けなくなってしまうから―――
ああ、礼くんならきっとだいじょうぶ?って心配してくれる。
寝てなきゃだめーって言ってくれるだろうな。
和葉ちゃん、おはよーって起き抜けの笑顔で―――
礼くんがいない。
冷え切った手足では温められなかった硬い寝床に覚えはない。
あっという間に布団の中をあったかくさせる礼くんがいない。
その事実が一気に意識をはっきりさせた。
どこ、ここ……。
うなじを逆撫でする本能の警告で飛び起きようとして、体がついてこないことに気づく。
何かに押さえつけられているのかと、目だけで辺りを見回してそうではないことにも気づく。
後頭部から背中にかけての強張り、手足の冷たさ、関節の鈍痛、実に久しぶりで懐かしくもない前の世界での目覚めの感触のせいだこれ。
それと手首と足首に鎖がじゃらりと巻かれている。これのせいでもあるらしい。
横向きになっていた体をゆっくりと起こす。うん。落ち着けば動く。あちこち重くて痛いけど。
明り取りの小窓すらない石積みの壁。隙間隙間に苔がむしている。暗闇に目が慣れるのがやけに早いと思ったら、この苔自体が発光している。ヒカリゴケ? じめじめした空気は澱んでいて少しかび臭い。
ぎしりといやな音で軋むベッドは木製で、湿ってるのにざりざりと硬いシーツは、粗い目から藁がところどころ突き出ている。刺さる。痛い。
王城のふかふか布団にすっかり慣れた身だから、かなり堪えたんだろうか。この身体のこわばりは。一瞬実年齢の体に戻ったのかと思ったけど、見おろす体は相変わらずの十歳ボディだ。十四歳ですけど。
んー……
さらわれた? さっきまでどうしてたっけ? 襲われたっけ? 直前の記憶を探って、やっぱりリコッタさんからもらった果実を口にして以降の記憶がないのを確かめる。襲われてはいない、な?
部屋のイメージは地下牢。王城の中は普段自分たちが使うあたりのことしかよく知らないけど、なんせ王城だから地下牢くらいあっても不思議ではない。でも扉は木製だ。檻じゃない。で、あの王がこんな不衛生なとこを放置しておくだろうか。手が回らない部分があったとしても仕方がない広さだけど。というか、そんなところにこんなふうに私をいれる理由がない、はず。
じゃあやっぱりさらわれた?
「―――不覚っ」
悔しい。どいつだ。どこのどいつがこんなことを。どのくらい気を失ってたんだろう。礼くんの寝る時間が過ぎてしまっただろうか。やっとしがみつかずに、よりそうだけで眠れるまでになってたのに。
心のデスノートの二番目にこんな事しでかしたやつの名前を記してやることを決める。一番目はモルダモーデだ。
とはいえ、まずは脱出。馬鹿め。こんな鎖とあんな木製のドアなど私の障害にはならぬ。
「ふぉ!?」
ふんっと、立ち上がろうとして、そのままベッドから転がり落ちた。
重い? この鎖重い? すごい重い? え、ていうか視界がぐるぐるちかちかする。貧血?
◇
「おなかすきましたでしょう? こんなものしか今は用意できませんけど」
リコッタさんが木の椀とパンを載せたトレイとともに木製ドアを開けた。鍵を開けたような音はしなかった。リコッタさんは笑顔だ。満面の笑顔だ。厨房でマダムたちが爆笑してるときでもこんな笑顔してなかった。
背中と関節の強張りはとれないし、手足も冷たいままだ。指先なんてちょっと感覚が鈍い。風邪でもひいたかと思ったけどどうやらそうでもないらしい。あれか。あの果実のせいか。
「あの果実、なんだったんですか」
「ログールっていうんです。一部の獣人に人気の果物なんですよ。お酒と同じに酔っぱらえるんです。でも人族がそのまま食べると強い眠り薬みたいになっちゃうんで、ごく少量を薬として使ったりします。気をつけてくださいね」
いやあんたが言うか。
「ああ、それでは食べにくいですよね。―――あーん」
木の椀からすくったひとさじのスープを、二度ほどふうふうと冷ましてから口元につきだされた。正気か? いやこれはちょっと。
「リコッタさんのくれたもの食べてこうなったんですよ。食べると思います?」
ベッドの脇にしゃがみこんで、鎖のまかれた手足を投げ出したまま顔を背けると、スプーンがさらに追ってきた。
「ログールは効き目は早いけど、抜けるのも早いんですよ。もう体に残ってないはずですから大丈夫」
「何を大丈夫といってるのか知りませんけど、体中重くて痛いです」
「それはログールのせいじゃないですよ。ほら、それです」
スプーンを椀に戻して、私の首元を指さす。俯くと確かに首に何かが巻かれている感触があった。
「魔吸いの首輪です。犯罪者の魔力を吸い上げて拘束するためのものなんです。ごめんなさいね。そんなもの勇者様につけるだなんて。あとほんの少しだけですから。着いたら外してもらえることになってます。はい、パンならいいですよね」
「その理屈はさっぱりわからないです」
ちぎったパンをひとかけら口元に突き出してきたリコッタさんは、きょとんと目を瞠る。
「ログールのせいじゃないですし、これもパンですからログールはいってないですよ。ね?」
私が避けたひとかけらを、自ら口に含んでみせて、また新たにパンをちぎって差し出してくる。えー……やだー。私のわからない理屈はそれじゃないー。
リコッタさんは正気にみえる。視線はしっかりと私の目をとらえてる。質問にもちゃんと答えてくれている。ぎりぎりちゃんと。
魔力を吸い上げる首輪。つまりこれは魔力切れというやつだろうか。確かにその症状もこんな感じだと聞いた気がする。王国魔法使い頂点にたつエルネスですらまるで及ばないという勇者補正の魔力量を誇る私たちにとって、魔力切れとは座学の一部でしかなかった。
一番最初にうけたエルネスの講義、体内の魔力を感じて操作する感覚を思い出す。
ない、わけじゃないと思う。魔力切れの状態は知らないし、いつもよりかは少ないと思うけど、確かにちゃんと魔力は感じ取れる。だけど思い通りに練ることができない。練ろうとすると、貧血で失神する直前のようにぐるぐると視界が回りだす。
「ほら、ちゃんと食べないといけませんよ」
くらりと傾いた私の上半身を支えて、パンを口元に添えるリコッタさんはにこりと穏やかにほほ笑む。
遠い、遠い記憶。
おたふくかぜで寝込んだ小さな私の口に、すりおろしたりんごを運んでくれる母と重なる笑顔。
ぐぅとおなかが鳴った。
……とりあえず腹が減ってはなんとやらだ。
スープは薄味でしたが滋味あふれて美味しかったです。パンはちょっと硬かった。
「……ごちそうさまでした」
「ふふふ。向こうに着いたらちゃんとしたもの作りますね」
「向こうってどこですか」
「南方のね、小さな国です。……国なのかしら。イプシェとかなんとか?」
「なんとかって」
「そこなら魔族もきませんし、戦わなくてもいいんですよ。住むおうちも用意してくれることになってます。大きくはないでしょうけど、三人で暮らすなら十分なはずです。ああ、家具は好みがありますもんね。一緒に選びましょうか」
「さんにん」
「娘も後で紹介しますね」
「わたしと、リコッタさんと、リコッタさんのむすめさんのさんにん?」
「はい。きっと仲良くできますよ。私も子ども二人養う分くらい稼げます」
両手を握りしめて気合をいれるようなポーズをつくるリコッタさんは、とても幸せそうだ。
えっと、どっからどう突っ込むべきなのか迷うとこだけど。
厨房の女性陣は、騎士の遺族が多い。特に身寄りがなくなってしまった人。
そしてリコッタさんは、騎士である旦那さんは殉職して、娘さんは幼いうちに亡くなってしまっていると、確か、前にきいたことがあった。
―――もうこれあれじゃないか。完全にあかんやつじゃないか。
◇
「ここ、どこなんですかね」
「王城の下あたりかしらねぇ」
何故かリコッタさんはベッドの端に腰かけ、私を膝に載せている。ほんとなんで。
身体に力は入らないし、様子見と障らぬ神になんとかの精神でおとなしくはしてみてるけども。なんで。
髪を梳いてくれる指が細く柔らかく、優しい。
普段ひっつめているお団子は解きほぐされて、うねうねであちこち飛び跳ねている髪を丁寧に梳ってくれている。真っ黒で硬めの直毛はさほど手触りがよいとは言えないと思うけど。
娘は私と違って細く柔らかなくせ毛だった。私の母に似た髪質。
つるつるとした感触が楽しくて、小さな頃はこうして手櫛で撫でていたものだ。
「王城の地下ってことですか。よく誰にも見つからずに私を運べましたね」
「ううん? 城の裏手の森あるでしょう。あの厨房の裏口のすぐそばの森。そこの奥にね、入り口があるんです。普段は隠れているんですけど、呪文を唱えると開くんですよ。すごいでしょう」
くすくすと楽し気に、内緒話のトーンが頭頂部から降ってくる。すりすり頬ずり。もうどうしようほんと。
「城の人、みんな知ってるんですかそれ」
「だーれも知らないの。だから秘密ですよ」
「じゃあなんでリコッタさんは知ってるの」
「ねえ、リコッタさんってなんかよそよそしいわよね。リコでいいわ。ああ、でもそのうちママって呼んでくれたらうれしいかも。うふふふ」
いやいやいやいやいや……うふふじゃないよ……。
いくら殉職した騎士の身内だといっても、雇用を優先されるとはいっても、王城という場所で働くからには、身辺調査は当然されている。
むしろ、遺族だからこそ優先ではあれ無条件ではない。人は大切なものを失ったとき、その怒りや悲しみをどこにどんな形で向けるかは誰にもわからないからだ。
そのあたりは、やっぱり優しいだけの王ではないなと思う。そうでなきゃ国を管理などできないだろう。
勇者召喚の儀を行うことが決まってから、王城に出入りするもの全ての身辺再調査もされていると聞いている。だって上層部や家族持ちはともかく、身寄りのない人は基本的に住み込みなんだもの。リコッタさんも住み込み。私たちが暮らしている棟ではない、使用人の宿舎に住んでいた。勤め始めてもう七年以上たつという。ということは娘さんや旦那さんを亡くしてから少なくとも七年以上たっているということだ。
何が引き金になったのだろう。それとも誰にも悟らせないまま過ごしていたのだろうか。
「あ!」
「うぉう!」
急に立ち上がったリコッタさんの膝から転がり落ちた。石畳というか、結構でこぼこした床なんだけども。かなり痛いんだけども。軽やかに扉に駆け寄るリコッタさんはまるで気にしてくれてない。
じゃーんと効果音がつくような大仰な手つきで扉をひらき、
「紹介しますね。―――娘のリゼです」
キリキリと軋む音とともに、ばさりと顔を隠して垂れさがる紫の髪を左右にゆらしながら匍匐前進で入室されるリゼさん。そうですか。ゴーストにも名前があったんですか。
いやいやいやいやいやいやいや……いやもうほんとどうしよう……。