20話 うーん もう一杯
キリ……キリ……
真夜中ふと浮き上がるように意識がはっきりすることってあるでしょう。
部屋のどこかから聞こえてくる音にではなく、多分そんな感じで目を覚めた。
意識がはっきりして、歯車がきしむような小さな音に気づいて、それから目を開けた。
―――っ
暗い紫の束がうねりながらベッドの端に波打っている。
燭台の灯りに照らされた部分は艶やかな赤紫色。束の向こうの闇色へは暗い紫を経て溶けている。
夢かな? 目が覚めたと思ったけどすごくはっきりした夢かな?
だって叫びたくても声が出ない夢ってたまにみるし。声でないし?
ふかふかの布団は音もなく沈み込み、紫の毛束のゆっくりとした進みを阻むことなく。
右に、左に傾きながらそれは私の目前まで迫ってきた。
無意識に後ずさると、礼くんの肩先が私の背中にあたって、慌てて上半身を起こして礼くんを隠すように両腕を開く。いやこれ夢じゃないな? 落ち着いて私。冷静さが美点の私。
私が後ずさった分、それはさらに迫ってくる。
モップのような紫の髪、海で潜った後に海面から顔出すとこうなるよねといった具合に広がっていた。ただ、濡れてはいない。もっさりと広がったそれにはところどころクモの巣らしきものが絡みついている。そして髪の向こうにあるであろう顔のあたりは、全く闇に溶け込んで見えない。
……燭台の灯りだけのわりにはよく見えると思ったら、どうやらこれは自身が薄く発光しているようだ。なのにその髪の向こうは見えない。
『 この城にいるのは、暗い紫色の髪の毛がばさっと顔を隠してぼろぼろのドレスでずるずると這って歩いてるらしいですね』
思い返されるザザさんの言葉。
紫の髪だわーばさっと顔隠してるわーぼろぼろのドレスだわーベッドに這いあがってるわーよし確定。
……キリ……キリ……
お前か。ゴースト、お前からする音かこれ。
どうしようこれ。
心臓がばくばくしてるし息切れまでしてきた。最近じゃ十キロ走ったところで息は乱れないと判明したばかりなのに。
私とゴーストの距離は三十センチほど。それ以上は進んでこないようだ。
顔らしき部分は私のほうに向いていて、多分これは私をじっと見上げている。
―――おそらく見つめ合うこと数分。数秒かもしんないけど体感そのくらい。
ザザさんはゴーストは悪さしないと言っていた。信じるよ。ザザさん信じるよ。ザザさん見えないって言ってたけど。ああ、ゴーストは見える人と見えない人がいるっていってた。私、見える方ひいちゃったんだ。元の世界で「見た」ことなんてないのに。
いいね、和葉、元の世界でのお化けの社会的地位がどうであれ、こちらの世界ではゴーストは何もしないのが普通。ミルクとクッキーをあげるくらい普通。敵意はない。敵意がないものに歯向かうのはチガウ。いいね。
てか、それじゃあ何しに来たのよ。やめてよ。
若干の現実逃避感も交えながらぐるぐると自分を落ち着かせようとしているうちに、ゴーストの髪の下からカップの端が覗いているのが見えた。私の視線に気づいたのかそうでないのか、ほんのちょっと前に押し出されるカップ。
爪のないちいさな指がそえられているそのカップは、確かこの部屋を出たすぐの廊下の角にある花瓶の横にあったゴースト用のもの、な気がする。今、その中身は空だ。
「……お、っん、ん、おかわりほしいの?」
上ずって引き攣る声で問うと、カップはまたもう少し寄せられてきた。
枕元側のサイドチェストに水差しはある。けど、それはゴーストを挟んで向こう側。礼くんの前から体をどかせたくない。
「ちょ、ちょっとさがってくれます? もうちょっと後ろ、に」
「……」
微動だにしないゴースト。通じないかーそっかー。
(ちょ、ちょっとれいくん? もうちょっと、こっち、そうこっちにきて)
礼くんの肩から背中を布団ごと片腕で抱えて、じりじりと枕側へひっぱりあげる。ゴーストを中心に円を描くように大回りに。よかった。勇者補正あってよかった。なかったらさすがに成人男性の身体ひっぱれない。
手を伸ばしてぎりぎり届いた水差しをとりあげて、ゴーストに向き直ると、むこうもこちらに向きを変えてカップを差し出した。
「ど、どうぞ?」
水差しを傾け、水が注ぎ込まれる瞬間、さっと避けられるカップ。
とぽとぽと布団に注がれる水。
「え」
慌てて水差しを戻す。上質な布団カバーは瞬間水を弾いた後にじわじわと色を変えていく。
また差し出されるカップ。注ぐ瞬間にまた避けられるカップ。
「……」
「……」
繰り返すこと数回。
「……もしかしてミルクがいいの?」
差し出されるカップ。
よーし、ふざけんな? ないからね? いきなりこんな夜中にすっかり寝入ったところに現れてもこの部屋にはないからね?
「あのね、この部屋にはミルクはありません。なので厨房に行ってください。多分誰かいます」
労働環境に厳しい王城といえども、さすがに夜中だからと警備がないわけではない。夜勤の者たちに合わせて厨房も夜中は誰かがいる。驚くなかれ交代制でいうなら五交代制だ。多分そんな感じ。私はイレギュラー扱いで出たいときに出てるのでシフトは詳しく知らない。
対峙し続ける私たち。ゴーストはあきらめない。あきらめてよ。
と、ひょいと持ち上がる礼くんの頭。
「んー、……かずはちゃ、―――わあああああああああ!!!」
「あ、れい、―――ひゃああああああ!?」
礼くんはかつてない寝起きの良さを見せつけた。
具体的にはゴーストを認識したと思われるその瞬間に飛び起きて、私を後ろから両腕ごと抱え込み。
これ知ってる! テレビでみたことある! 小学生の時にも同級生の男子が雪の中でやってた!
―――バックドロップ!!!!!
さっきは出なかった悲鳴が王城に響き渡り、夜勤の騎士は素晴らしい速さでかけつけた。
この声は確か父の会のリトさん。すぐ近くの部屋の翔太君と幸宏さんの声も聞こえる。
「レ、レイ、落ち着いて、カズハさんどうしました!」
「い、いま! いま! お、おばっけいま!」
「えっえっどうしたの礼く、 えっ、ちょ、おなか、うわああああ血!?」
「落ち着け礼! 和葉ちゃんどうした!」
降ろして降ろして。
今私は礼くんの肩に仰向けでかつがれている。
パジャマの貫頭衣はまくりあげられ、腹もパンツも丸出しである。
バックドロップを決めた後、彼は華麗に身を翻しつつ、そのまま私を右肩に乗せて部屋から飛び出したのだ。左手はリトさんの革鎧の裾を握りしめている。その裾じゃなくて! 私のパジャマの裾を!
「血!? 侵入者か!?」
警笛を鳴らすリトさん。いやまってまってまって。いや侵入者であってるのか? いやでも。
「おろひて……」
バックドロップのときにしたたか自分の膝で自分の鼻を撃ち抜いて、だくだくと出てる鼻血を手で塞いでる私の声は全くもって届かない。
◇
「はい。終わり」
「……ありがとうございます」
もともと私が使っていた部屋で、あやめさんに鼻血の治療をしてもらって、やっと一息つけた。実はあやめさんも幸宏さんの後ろにいたらしい。杖を顕現させて握りしめたまま幸宏さんの背中にへばりついていたそうだ。
鼻血がバックドロップのせいだと知ってしょんぼりしてた礼くんは、ぎゅっと抱きしめてあげると、ほっとしたようだった。
すわ侵入者だと一時騒然となった王城も落ち着きを取り戻している。リトさんは礼くんの頭を撫ぜて「カズハさん守ったんだな偉いぞ」と褒めてから夜勤の仕事に戻った。
「これ、眠る前にいいお茶ですから。落ち着きますよ」
剣を掴んで駆けつけてくれたザザさんは、パジャマ代わりなのだろうかトレーナー上下のような姿だ。訓練以外でもいつも革鎧かチェインメイルを着込んでるから印象が随分違う。剣を一人用のソファにたてかけて、みんなの分のお茶をいれてくれた。柔らかないい香りだ。
「お騒がせしました……寝てましたよね」
「いや、何事もなくてよかったです。まあ、ゴーストを初めて見たらそりゃ確かにびっくりもするでしょうし。ゴーストが部屋にはいってくることなんてそうそう聞かないんですけどねぇ」
「いたもん! ほんとに紫の髪、ばさぁって顔にかかってて」
ひぃっとあやめさんが小さい声をあげて縮こまった。……そうか。それで幸宏さんの後ろにへばりついてたのか。でも、来てくれたのねぇと思うと、ついつい頭を撫でてしまった。や、やめてよとさらに小さな声でつぶやいてるあたり、ほんとツンデレだなぁ。
「ベッドの真ん中あたりまでずるずるってきてたの! ほんとだよ! お布団だって濡れて」
礼くんは、はっとした顔をして言葉を切った。ん?
続いて私以外の全員が悟ったように息を呑んだ。ん?
「ま、まちがいました。お布団ぬれてない! ぬれてなかったです! でもいました!」
何故急に敬語に戻る。
いや、濡れてたでしょ私が水差しで……何故全員一斉に目を泳がせ始める……って、
「待ってください。説明します。やめて。みんなこっちみて。注目。はい注目。こっちみて。いらないから。その気遣いいらないからね!?」
◇
「で、そのあとはみんなでお泊り会と」
エルネスが笑い疲れたというように大きく息をついた。
ゆうべの騒ぎで疲れが抜けてない私は、割とだらっと寛ぎながら、エルネスにいわれるがままに重力魔法の検証中だ。
「礼くんはザザさんを離さないし、あやめさんはなんだかんだと翔太君と幸宏さんを引き留めて居座るし、でね」
「だけど、ほんとに不思議ねぇ。ザザの言う通り、ゴーストが部屋まで入ってきた挙句にミルクのお替りねだるとか聞いたことないわ」
「エルネスは見えるタイプ?」
「何度か見かけたことはあるわね。でも遠目だけ。近寄ると消えちゃうの」
「近寄るって……さすがだわー。ゴーストって正体はわかってないのよね? 魔物なのかとか」
「一度調べてみたいんだけどね」
「カズハ殿! これをやる!」
「おや、ルディ王子。お勉強は大丈夫ですか」
色とりどりの様々な花を両手いっぱいに抱えて、ルディ王子が現れた。
「だいじょうぶだ! 今日は時間をとってもらったのだ!」
「あと五分ですよ」
あ、やっぱり後ろには家庭教師が控えてるのね。
「三十分と言ったではないか!」
「花を摘んでたせいです。あと三分」
相変わらずハードスケジュールだなぁ。最近姿を見なかったけれど、どうやらこの間の遠征で遅れた分を取り戻していたらしい。てっきりもうあのヤキトリデート? で満足したのかと思っていた。
「で、どうしました? ―――キレイですね。くれるんですか?」
整えられていない花束は、明らかに庭園からさきほど選び出したのであろうおおざっぱさで、花弁には朝露を含んでいる。まさか自分で切ってきたのだろうか。
「うむ。プロポーズには花束を渡すものだと侍女が前に言っていたからな。カズハ殿はもっと違うものがいいんじゃないかと俺は思ったのだが、やはり形式は大事だと思う」
「あー、まあ、定番ですよね。花束―――はい?」
エルネスが、がっと身をよじり髪で顔を隠したのが視界の端にうつった。
「俺はカズハ殿より年下だが、あと二年で成人する。正式な結婚はそれからになるが、王族や貴族は早いうちから婚約者を決めているのが普通だ。カズハ殿、俺の正妻になってほしい」
「お断りします」
「えっ早くないか!?」
いやあ、だって、ねぇ?
「なぜだ!」
「結婚にもう興味がないんです」
「きょ、きょうみ……? い、いやでも! 俺が嫌いか!?」
お。ダイレクトだね。王子。
「いいえ。嫌いじゃないですよ。でも興味もないですね」
「ええええええええええ」
真摯な問いには真摯に答えるべきだろう。うん。
「……容赦ないわね。カズハ」
「この場合未来ある若者に容赦するほうが非道」
「時々あんた年齢だけじゃなくて性別も違うんじゃないかと思うわ……」
「殿下。時間です」
「え、え、え」
王子は家庭教師に引きずられていった。
うん、でも、容赦のなさはあの家庭教師ほどじゃないと思う。