17話 それはありふれすぎた身勝手な絶望
「そろそろ結婚しようと思うんだ」
珍しく四人家族全員がそろった夕食の場で息子がそう切り出した。
お相手は学生の頃からお付き合いしている同じ年の女性で、何度か一緒に食事したこともある利発で明るい理学療法士さんだ。
娘も市役所に就職して一年になり、肌にあった職場なのか毎日生き生きと働いているし、順調で申し分のない生活だと思う。
家族から祝われ、照れくさそうに笑う息子。和やかに食事はすすむ。
「ねえ、お兄ちゃん、彼女お仕事は続けるんでしょう?」
「うん、職場は理解があるらしくてさ。あいつもずっと働き続けるつもりで資格とったわけだし」
「だよねぇ。私もそのつもりで公務員なったけど、やっぱり手に職もかっこいいよね」
ふと、息子に念を押したくなる。
「お兄ちゃん、共稼ぎなんだからちゃんと家のこと一緒にしなきゃ駄目よ? 大丈夫よね?」
当たり前だろ今どき、と笑う息子。
「父さんみたいに俺まだ稼げないんだし、そのあたりの分担だってちゃんと二人で考えてるよ。まあ、彼女は母さんほど家事好きじゃないしね」
―――は? え? いや、その意識があるのはよかったと思うけど、え?
彼女への愛情がにじんだ苦笑はほんと結構なんだけど。
父さんみたいにってなに? 母さんほどってなに?
「まあ、今どきはみんなそれが普通だよねぇ。お母さんみたいに仕事も家事も好きな人のほうが珍しいよ」
これは家族の和やかな夕食の会話。
子どもたちは自分の父母に敬意を払っているとしか思えない会話。
本人たちだってそのつもりだろう。
「で、さ、ちょっと父さんたちにお願いがあるんだけど。式とか披露宴とかさ、彼女の希望通りにしてやりたいんだけど、予算がさ」
「ああ、できるだけ援助はしてやる。な?」
鷹揚に頷く夫に、オーバーした予算を告げる息子。
まあ、なんとかなるんじゃないか? な? なんて。
そうね。金額だけみれば、通帳にはそのくらいはぎりぎりはいっている。
唐突に決定される家族旅行、子どもたちの進学、折々に減り続けていた私の持参金がはいった通帳に、だ。
「まって。自分たちで用意できないならそれは身の丈にあってないってことでしょ? それにそこまでうちは余裕ないよ?」
穏やかな空気が若干凍る。子どもたちが予想外の顔してるのはまだいい。なぜ夫まで同じ表情をしているのか。
「おまえ、そこまで余裕ないわけじゃないだろう」
「そ、そうだよね。だってお母さんだって趣味とはいえ働いてるんだし」
「や、ごめん母さん、でもちょっと彼女も楽しみにしてて」
余裕は、これからやっとできる予定だった。
子どもたちが巣立って、やっとこれから老後の資金に回せるくらいの余裕だ。
それは夫婦で話したよね?
わかってるはずでしょう。私が直に口にしたことはないけれど、あなたのお給料だけでは子どもたちの大学進学すら危うかった。
楽しみにしてるって、まさか援助をあてにして彼女と計画してたのですか。
そして趣味? 趣味ともうしたか?
「別に、趣味で働いてたわけでも、家事が好きなわけでも、ない」
夫は若干睨みをきかせはじめて。
子どもたちは本当に意表を突かれた顔をして。
「え、だって、だからパートなんでしょう? ほかに趣味もないし」
二人で声をそろえて。
「好きでやってたんでしょう?」
それが召喚前夜の記憶。
◇
魔動列車が夕暮れ時の茜色を受けながら滑り込んだ駅は、二階建ての石造りで小学校の体育館ほどの広さだろうか。日本の感覚でいえば小さな町の中心駅くらい。
それでもまださほど発達しているとはいえない交通網のこの国で、魔動列車が止まる程度には大き目の街なのだろう。王都は山のふもとに広がっていたから、建物の色とりどりの屋根は段々畑に実る果実のようだった。見渡す限りの平地にあり、高くても三階建て程度の建物しかないこの街は、空こそ広いがどこか窮屈そうにそれぞれの外壁がひしめき合っていた。
「んー、『おばあちゃんのごはん』?」
「惜しい。『おばあちゃんちのおかず』。じゃああの緑の看板は?」
「えっとねぇ、『おどるうま』! 何屋さんだろ?」
「あたりー。何屋さんだろうね。防具屋さんぽいかなぁ」
「残念。『はねうま』です。ちなみに馬具屋ですね」
「えー」
まちがっちゃった、と手を繋いでる礼くんに笑って肩をすくめてみせる。和葉ちゃんもまちがえたーと礼くんも笑う。ザザさんは私たちの斜め前を先に歩く。後ろにはセトさん。
本当はグレートスパイダーの繁殖地はここからさらに馬車で数時間かかる村の近くだった。当初は泊まらずに馬車を走らせ野営も経験しましょうとのことだったのだけど、ルディ王子の乱入によって明朝早くに出発するスケジュールになった。当の王子は慣れない長時間の列車移動に疲れて果て宿で熟睡してるらしい。私とお散歩デートはまだ叶っていない。何しに来たんだろうねあの子は……。
私たちはお店の看板をあてっこしながら軽い探検だ。結構文字も読めるようになってきてるんだけど、耳で聞く言葉は日本語に自動変換されてしまうせいか、文字と音が結び付けにくくて勉強はなかなかすすまない。時折ザザさんがちらりと振り返ってさっきのように訂正をいれてくれる。
ザザさんとセトさんは二人とも平時の騎士団服にマントをまとっている。ちょっとかっこいい。
探検に行ってくると意気揚々宣言するとザザさんたちもついてきてくれた。私たちの護衛なんだそうだ。魔物は街にもでるの? と聞く私に、ザザさんは何を言ってるんだという顔をした。
「魔物じゃなくて人間ですよ?」
「……この世界にも悪い人間ているの?」
すごく頭の弱い人のようだけど、これまでずっとみてきたこの世界での「普通」には悪い人というものが入り込む余地がないように思えていたのだ。
「いますよ!? 盗賊から詐欺師、殺人犯に反逆者。当たり前じゃないですか!」
「まじですか……こっちにきてから優しい人ばっかりだし、てっきりそういった人はいないものかと」
「……光栄ですと言って終わらせたいところですが、油断はくれぐれもしないでくださいね? 何事もないよう努めてますし、悪漢に何もさせやしませんけど、僕らから離れないでください」
私たちのほうを向くときはいつも通りの柔らかな表情だけれど、周囲を油断なく見回すときの視線は鋭い。きっと後ろにいるセトさんも同じなんだろう。
もうすでに日は落ちていて、それでも駅から真っすぐ伸びているこの通りには街灯と店の灯りにあふれている。すでにほろ酔いでご機嫌な集団や、家路を急いでいるだろう人々。私たち四人の隊列が崩されない程度の雑踏だ。
一時間ほど散策して宿に戻るころには、礼くんの両手にはそれぞれ露店の串肉とバナナっぽい果物が握られていた。私は食堂のお給料ももらっているけど、勇者陣にもちゃんとお給料というか手当というかが支給されている。でも、ザザさんもセトさんもねだられるままに買い与えてた。夕ご飯前なんですからねとか言いつつ、礼くんの串肉は三本目だ。ちょろすぎる。
「お、おかえりー。礼、いいものもってんじゃん。一口くれ」
「いいよー」
街一番だという宿の入り口ホールは、結構広くてそれなりに豪華だ。そこで出迎えてくれた幸宏さんが、礼くんの串肉をひとかけら頬張る。
「うまいね。なんの肉だろ。ビールのみてぇ」
「このへんで生息してるグレイバーソンって魔物ですって。牛っぽいらしいですよ。明日狩りますか」
「和葉ちゃん、ほんと自給自足甚だしいな!?」
「……正直、今回の狩りは肉じゃないんで物足りないです」
「お、おう」
◇
幸宏さんたちは個室だけども、礼くんと私は当然同室だ。
夕飯とお風呂を終えて、今はすっかり寝入った礼くんの前髪をそっと整える。
小さなテーブルにはナッツの皿と木苺の皿とグラスが三つ。幸宏さんが琥珀色のお酒をついでくれる。
「はい、今日も年長組おつかれさまー」
「まあ、いうても幸宏さんはあやめさんと三つくらいしか違わないのでは」
ザザさんと幸宏さんとでグラスを軽くあわせる。王城でも時々開催される年長組の会。礼くんが寝入ってからなので大体私の部屋に集まることになる。
「やー、あやめはしっかりしてるけどねぇ、どっちかっていうと翔太と変わんねぇな」
「―――ショウタの様子はどうです? 夕食のときは落ち着いていたようでしたけど」
んー、と幸宏さんは顎を人差し指で軽く掻く。
「俺、特になんも言ってねぇしなぁ。あいつ、車両の連結部のとこにいたんだけど、横でしゃがんでただけだし。なんか話してくるかなぁとも思ったけど、なんにも」
「まあ、親ってのが翔太君の記憶の何かにひっかかってるんじゃないですか。理想の親像に固執するわりに帰りたくないわけですし」
「カズハさんは大丈夫なんですか?」
ザザさんがいつもよりちびちびと呑んでるのは、やっぱり王都から離れているからだろうか。
「ああ、別にあの程度のことよくあることですよ。普通なら、母親なら、女ならってね。いちいち真に受けるのはもうやめたんです」
「やっぱ、和葉ちゃんは思い出してるんだ?」
「多分これのことかなぁとは思ってますけど、あまりに些細なことすぎて、これが絶望とかいうなら私メンタル弱すぎだろうってプライドに障る感じですよ」
「あ、でも俺も多分そんな感じかもなぁって気がする。ほら、ザザさん、こっちじゃさ、まあ、俺ら王城や王都しか知らないから余計思うんだろうけど、意外と生活つうか生存するのが難易度高いじゃん? 魔物とかさ」
「うーん、僕らはそれが普通ですからねぇ。さすがに魔物や盗賊に襲われて村が壊滅した生き残りとかいうレベルだとちょっと少数派になりますかね。うちの団にもいますけど。何人か」
「え。でも騎士団って貴族出身者が多いんじゃないんですか?」
村って、いやでも村にいる貴族もいるのか。
「そりゃあ、魔力量が生まれつき多いのが貴族の所以ですからね。自然と多くなりますけども。ただ平民にも能力の高いものはでてきますから、本人が望んで認められれば騎士にも貴族にもなれますよ。……生き残れたってことは相応の能力があったからってこともありますし」
この国の身分は王族と貴族と平民しか区分がない。爵位すらない。貴族とは魔力の多い血統ゆえに『与えるもの』として存在するもの。ノブレス・オブリージュが言葉通りの意味で機能している。だから平民であってもその資質が認められれば、ザザさんのいうとおり騎士にも神官にも貴族にもなれるとは習ったけれども。その仕組み、ほんとにちゃんと機能してるんだ……。
「俺らのいた国はさ、命の危機ってものをほぼ感じずに暮らせるわけですよ。大抵は。だからこう、そういう話きいちゃうとさ、絶望ってものはもっと重たいもんじゃないかって気がしてきちゃうんだよなあ。俺、そんなきっつい思いしたか? みたいなさ」
ザザさんは眉間に深く皺を刻んで、その厳めしい表情とは裏腹にこてりと首を傾げた。あ、ちょっとかわいい。
「いや、そんなの、その人がそう感じるならそうなんでしょう。比べるもんじゃないですよ」
「ほんっといい男だな! 俺ザザさんなら抱かれてもいいわ!」
幸宏さんはばんばんとザザさんの肩を叩いて、グラスに酒を継ぎ足した。
◇
すっぽりと私の腕におさまって、声をたてて笑う顔。
―――前の晩つけた家計簿の数字を忘れられた。
公園で私の手をきゅうっと握ってひっぱる小さな手。
―――バレエ教室なんてそのうちまた通えるようになるよと思えた。
おやつを食べながら今日学校であったことを楽し気に報告してくれる声。
―――収入は少ないけど、おかえりと迎えられる時間に帰ってこられる仕事でいいと焦りを抑えられた。
選択肢はいつだってあった。
その時その時ちゃんと自分で考えて選んだのだから誰のせいでもない。
誰かのせいにするつもりも、誰かのためだったというつもりもない。
それでも湧き出る不安も焦りも苛立ちも迷いも、ひとつひとつ、いいことや幸せなことを思い出して塗りつぶしていけた。
だけどそのうち塗りつぶすための幸せが、どんどん少なくなっていった。思い出せなくなっていった。
誰よりも早く起きて朝ごはんは欠かしたことはない。
―――誰か一人はそのときの気分で食べないことが多くても。
仕事の前に掃除洗濯はすませてた。
―――だから誰も私がしてることに気づいていなかった。
節約のために毎日スーパーでその日安い材料で夕食を用意した。
―――食べてきたから要らないと、帰ってきてから言われても。
趣味がないって? バレエ教室に行きたいって言ったじゃない。それをみっともないと反対したんじゃない。
趣味でパートをしている? パートしか許してもらえなかったの。誰が家事をするんだって。
余裕がある? その余裕は、誰がつくったの。誰が支えていたの。
―――それを全部、私が好きでやっていただけのことだと思っていたの。
ああ、もういいや。って、私をかたちづくる皮一枚を残して、すべてがすとんと抜けていった召喚前夜。
本当に、ありふれた、つまらない、ただ自分の選択の結果でしかない身勝手な絶望だ。