12話 どんなことでも重ね続けりゃ日常になる
バレエのチケット代は、うちの家計から出すにはけして安いものではなく、ましてや私の住んでる市には有名バレエ団の公演なんて来ることもなく。観に行きたいと思えば交通費やら宿泊費やらなんやらで五万はくだらない。そして私一人のためにそんな「無駄遣い」ができるはずもなく。
だから最後にみた公演ははるか昔、結婚前の成人のお祝いにと、両親が贈ってくれたモーツァルトレクイエム。
約一時間の天上のオーケストラに祈りの歌声、捧げられる群舞。
ネットで色んな動画があふれる時代になって、漁れば有名バレエ団の公演は全幕でこそないけれど観ることはできた。観るたびに、脳も心臓も震わされた最後の公演を思い出した。
礼くんは私のそばを片時も離れたがらず、だからすっかり眠り込んだこの時間の訓練場にまた一人で来た。
伊達に十年以上踊っていたわけではない。たとえお習い事レベルであっても、踊りは一見で覚えられるし、即興で音に合わせることもできる。
目を閉じて、深呼吸をひとつしたら、オーケストラが脳内に響き渡り、聖唱が降り注ぐ。
―――永遠の安らぎを彼らにお与えください
―――絶えることのない光が彼らを照らしますように
別に信心深いわけでもなければ、まだ縁の浅かった人の死に心底痛める心があるわけでもない。
捧げられるほどの価値があるような踊り手でもない。追悼になんてなりはしない。
だからこれはただ私が踊りたいだけ。あさましい感傷だろうとなんだろうと、ただ踊りたいだけ。
脳内の宗教的な旋律は、満天の星くずが落ちてくる錯覚を呼び起こす。
ピルエットを繰り返すたびに、視点と定めた星が瞬く。
つむじから、指先から、つま先から、天まで伸びる見えない糸。
全幕通して踊っても尽きない今の体力は、まだだ、まだだと私を操り続ける。
―――聖なるかな聖なるかな聖なるかな
追悼の曲なのに踊れる歓びに身を任せる罰当たり。
やめたくなんてなかった。息子を産んでからもこっそり柔軟はしてた。けれど生活は私を追い立てて、娘が産まれた頃にはもう一度開脚ができるようになれる気がしなかった。
人間なにもかも手に入れることなどできはしない。
それでも、いつかもう一度、子どもたちが手を離れたら。
そう思っていたはずなのに、いざその時がきたらもうすっかり枯れていた。
ああ、モルダモーデの言う通りだ。魂はからからに干からびていた。
それなのに。
私たちを守るためにと盾になる人たちがいるのに、私たちが来なければまだ生きていたはずの人がいるのに、ただただこのもう一度踊れることが今嬉しくてしかたがなかった。
◇
「和葉ちゃん!」
鳴りやんだ脳内オーケストラの余韻が、礼くんの体当たりで破られた。
「ひどいよ! 起きたらいないんだもん! 探しちゃったし!」
「ごめんごめん。よくここがわかったねぇ」
ぎゅうぎゅうと抱え込む礼くんの腕から顔をむりやり出しながら、背を撫でる。
「和葉ちゃんがいないって半べそで俺の部屋きたからさ」
「泣いてないし!」
「一緒にうろついてたらザザさんが教えてくれたんだよ」
訓練場の隅にある篝火の明るさがとぎれるあたりに、ザザさんと幸宏さんがあぐらをかいて並んでた。
小さなボトルが幸宏さんからザザさんに渡って、ザザさんがそれを小さく煽る。
「やー、めちゃくちゃ優雅な酒呑めたわ」
「うーわ。いつから見てたんですか。てか、ザザさん内緒っていったじゃないですか!」
「あー、カズハさん、あれですよ。見えません? 宿舎の窓。―――みんな部屋暗くしてるんで気づかなかったと思いますけど」
前に教えられた宿舎の方角に、勇者補正で目を凝らすと、暗い窓の中にもう一段暗く丸い影がいくつも見える。まじか。
「僕は言ってないですよ。でもほら、騎士は夜目が効く奴が多いんです」
「……なんで教えてくれないんですか」
正味、踊りは音楽とセットなので、群舞ならともかく無音でソロの踊りは観てて面白いものではないだろう。好きな人なら音楽を脳内で補完できるから楽しめるだろうけど。ああ、世界トップレベルの踊り手のものならばまた違うかもしれない。でも私は当然そこまでのものではない。
率直に言えば非常に恥ずかしい。
「聞かれませんでしたし」
言ったらやめちゃうじゃないですかと、ねだる仕草をする幸宏さんにボトルを渡してザザさんはにっこりと笑った。
「キレイだったよ! 和葉ちゃん! なんの踊りだったの?」
「う、うん。ありがと。……モーツァルトって聞いたことある? それ」
曲名はなんだか言えなかった。
あんだけ感傷と自己陶酔に浸りまくった踊りを、あれは鎮魂歌ですなんてちょっとザザさんの前では言えない。
音楽の時間で聞いたことあるという礼くんの腕をほどいて手をつなぎ、幸宏さんたちのそばに腰を降ろす。礼くんは当然とばかりの風情で、体育すわりの膝の間に私を抱え込んだ。
「本格的にやってたんじゃないの? バレエ――って、あ」
幸宏さんの手からボトルを奪って一口。呑まずにいられるか! きついなコレ!
「習い事レベルですよ。音楽なしじゃそんな見られたもんじゃないでしょ」
「いやいやいや、俺全然わかんねぇけどよかったよ。音楽付きで観たいわ。あれでしょ。バレエって発表会とかつきものだし、人前で踊るのなんて慣れたもんなんじゃないの」
「その音楽があるのとないのとじゃ全然心持がちがうんですよ! 歌が好きだからって人前でいきなりフルコーラスアカペラソロで歌えます!?」
「―――わかっててもその見てくれで酒呑まれると、悪いことしてる気になるな……大丈夫なの? 体」
「こっちにきて初めて呑みましたけど、効きますね!」
「控えめにしたほうがいいですよ」
手のひらを上に向けて、寄こしなさいの指をするザザさんにボトルを返す。なんかザザさんがいつもと雰囲気違うわー。なにそれちょっと色っぽい。
「城付きの楽団もあるんで、是非お披露目してほしいんですけどねぇ。連中、すごく楽しみにしてますよ。夜の不定期公演」
毎晩でこそないけどちょいちょい踊ってたのよねぇ。いつから見られてたのやら。
「……ちょっと敷居高いですね」
「あの窓に連なってる影の中に王もいます」
「は!?」
「地獄耳なんですよあの方」
もう覚悟きめなって! と幸宏さんに背中を叩かれた。まあ、音楽つきなら恥ずかしい理由の大半はなくなるけどね……。ほんとあの王様カジュアルだな!
「二人ともできあがってるんですか?」
どのくらい酒に強いのか知らないけれど、ボトルの半分はもう空いていて、二人ともわずかに目の周りが赤い。篝火の色が映ってるだけではないだろう。
「俺は日課の晩酌。礼とザザさんとこ行ったときにはもうザザさんも呑んでたんだよ。で、せっかくだからってそのまま持ってきた」
「まあ、たまにはね。ああ、そうだ。食堂の杯の横にあったボタンナベ、カズハさんですよね」
「あー、料理長がメニューにいれてくれましたからね……うちの国でもね、好物をお供えしたりするんです。美味しいって言ってくださったので」
「あいつの部下も、喜んでました―――ありがとうございます」
礼くんの顎が、私のつむじでごろごろしてる。もう眠いだろうに大丈夫なのかな。ザザさんと幸宏さんも私の頭上をみてくすりと笑ったので、きっと寝ぼけ顔になってるんだろう。
「―――あの絶望ってやつさ。多分俺心当たりあるわ」
不意に、いつもの雑談をするときの顔のまま、幸宏さんが告げた。
「いや、はっきりとコレだろってんじゃなくてさ。そんな絶望なんて大層なセリフ似合うようなドラマチックな生活じゃなかったし」
「まあ、それは私もそうですね」
「たださ、全然帰りたいと思わないんだわ。おかしくねぇ? 俺それなりに充実した生活だったはずなんだよ。でも帰りたくない。多分、なんか忘れてるようなそんな気がする」
「……まあ、それは私もそうですね」
繰り返した私の言葉に、そっか、と幸宏さんがつぶやいた。そっかぁ。私だけではなかったか。
「だからザザさん」
それならばと、少し戸惑い気味の、優しいこの世界の人に伝えることにする。
「あんまり私たちに罪悪感とか持たなくていいのかもしれません。少なくとも私はこの世界にいたいんだと思います―――なので、私らにあまり気遣わず、ちゃんと悲しんでください」
「守られてた側の俺らが言うのもなんかアレだけど……俺ね、元自衛官なんすわ。ああ、こっちでいう軍隊とか騎士団ね」
「あ、なるほど。それで妙になじみが早かったのね」
「そうそう。まあ、四年で辞めたんだけどさ。……仕事でさ、守ってるわけよ。それも相当のプライドを持って。言えないっすよね。お前ら守るために仲間が死んだなんてさ。悲しんでるツラ見せられないっすよね。だから別に見せろってわけじゃないんですけど」
「―――はい」
「俺や和葉ちゃんに関しては、せめて、召喚した罪悪感とか、なんかそういうのは、要らないです」
ザザさんは、ぐいっとまたボトルを煽って幸宏さんに渡して、小さく息をついた。
「あいつねぇ、僕が入団して以来だから二十年以上の付き合いだったんです。同期だったんですよ。ほんとね、よくあることですしその覚悟ももちろんあるんですけど。……慣れませんねやっぱり」
二度、三度と中身がなくなるまでボトルは私たちの間を往復し、それ以上誰も何も言葉を交わすこともなかった。
◇
ぼくね、すごい怖かった。怖くてなんにもできなかった。魔族ってあの人だよね。モルダモーデってひと。ぼくらみたいに、ぼくらとおんなじようにお話ししてた。……あのひととおんなじこと、するんだよね。あのひとみたいなひとたちとたたかうんだよね。
あのとき、和葉ちゃんがころされちゃうって思ったら、なんにも考えられなくなって、訓練のときみたいに手加減なんてしようとおもってなかった。あのひとすごい強くて、ぼく全然かなわなかったけど、もしあのひとがぼくより弱かったら、ぼくあのひところしちゃってたんだ。あのひとと同じことしちゃってたのかもしれないんだって考えたら、すごい怖いって思った。
―――だからたたかうかどうか、ちゃんともっかい考える。みんながやるからってんじゃなくて、ちゃんと訓練もつづけながらできるかどうか考えてから、決めたい。いいかな。それでもいいかな。
礼くんは、ゆっくりと、でも真っすぐにカザルナ王を見つめてそう話した。
頷かないはずがない。もともとカザルナ王は礼くんが参戦することに反対してたのだ。
なんて、つよくて賢い子なんだろうか。あやめさんだって翔太君だって、その年齢に見合わない考え深さをもっている。幸宏さんだってそうだ。一体、どう育ったらあんな子たちに育つのか。
もしかしてみんな、何かを抱えてて、だから召喚に選ばれたのだろうか。
それが、モルダモーデのいう「絶望」なんだろうか。
……でもねぇ、私はそれこそ幸宏さんのいうように、絶望なんて大仰な言葉に似つかわしい生活なんて送ってないんだよね。そして多分私は思いだしてる。そのうえで、果たしてそれが絶望といえるようなものなのかいまだにわからない。不自然なほど、帰りたいと感じないのはそうなんだけど。
「和葉ちゃーん!」
訓練場の向こう側で礼くんがこちらに大きく手を振る。同じように振り返すと満足げに訓練に戻っていった。
「ほんとべったりねぇ。夜も一緒の部屋なんでしょう?」
最近は朝食の後はエルネスの講義、それからいろいろな勉強、午後は私も訓練に参加してる。それからみんなは勉強にうつって、私は厨房に。火はだいぶ上手に扱えるようになった。厨房での禁止令が解かれるくらいには。
今はエルネスの講義。礼くんが私の姿が見えるとこにないと落ち着かないので、訓練場の一角に小さな丸テーブルと椅子をもってきている。はた目にはちょっと優雅にお茶会だ。
「私がモルダモーデに殺されるって思ったのが相当ショックだったみたいでね。あんまり表面には出さないけど、長時間離れてるとまだ不安になるっぽい」
「ちゃんと眠れてるみたい?」
「そのあたりは大丈夫。眠りもちゃんと深いし、夢にうなされることもないかな。添い寝は必要だけどね……懐かしいよ。息子が小さい頃思い出すわ」
「私は結局子ども持たなかったしねぇ……見た目だけならあのくらいの年齢の彼氏がいるからちょっと不思議だわ。どうなのカズハ。このままじゃしばらく恋人もつくれないじゃない」
エルネスは元々同年代ってこともあって、今はすっかり敬語がとれている。
「あー、この身体じゃねぇ……相手がその気になれないでしょ。なれちゃう男でも困るよ」
「その年頃の体じゃなきゃダメな性癖なら困るけど、そうじゃなきゃ問題ないでしょ。どうせしばらくしたら標準に育つ予定なんだし。期間限定お楽しみの一種くらいに思っておけば?」
「あんたなにいってんのかわたしよくわかんないわ」
意外なことにエルネスはかなり奔放だった。あのくらいの年齢の彼氏って、何人もいる彼氏のうちの一人って意味だなんて、召喚当時にうけた彼女の第一印象からは想像もつかない。なにいってんだほんとに。
「んー、もういいよ。魔力疲れしてない?」
周囲に浮かせていたいくつもの石ころから、まとわせていた魔力を回収する。ぱらぱら、かつんかつんと自由落下した石ころが地面に転がった。
「平気。魔力の消費自体はそんなに感じないかな。自分が触っていないものに使うのはまだちょっと難しいけどだいぶ慣れてきたし」
ふむふむとエルネスはメモを書きつける。
講義といっても、もう今はエルネスの研究も兼ねている状態だ。
私たちの世界でいう「重力」を操作しているといえるのかどうなのかはよくわからないけど、私が使えるこれを一応重力魔法と呼んでいる。
「ストーンバレットみたいな土魔法とも、物体を浮かせる風魔法とも、魔力の流れやらなんやらが違うのよね。やっぱり。あーー、そのカズハたちのいう重力といったものの理論が知りたい! なんでそんなふわっとした理解が常識として通用してんの!」
「そういわれてもねぇ……エルネスだって私らに魔力の使い方教えるとき、たいがいふわっとしてたじゃん」
「私天才だからね! わかんない人が何わかんないかわかんないから! どう説明していいのかわかんないの!」
「私も大概器用貧乏だからそれわかんなくもないけどね! わかんない側にまわされるとなんかむかつくね!」
多分私たちの中で一番理系なのが翔太君なのだけど、彼だって物理の授業を受け始めたばかりの年頃だ。相対性理論だのなんだのをちゃんと理解してるわけもないし説明できるわけもない。もちろん私を含む全員それは同じだ。
けれど、私よりも現役で知識もあるであろう翔太君も、私と同じような魔法は使えていない。
浄化魔法だってこの世界に浸透したわけだから、正確な科学知識はそこまで必要ではないんだろう。
では他に何が必要なのか。単に回復魔法のように得意不得意向き不向きなのか。
きゃいきゃいと実践しながら、検討しながら、私たちはもうすっかりこの世界の生活が日常として受け入れられるようになっていた。