*4*
「……――ねぇ様?……ねぇ様、起きた?」
うすく目を開くと、覗き込んできた八つ年下の弟、ルディの顔がぼんやりと見えた。
「……ここは?」
「ねぇ様のお部屋」
アマリーは寝台から上半身を起こし、室内をぐるりと見渡した。
確かにここは、壁紙の色までこだわりぬいた、アマリーの寝室だった。
自分を見下ろせば、服も着替えさせられ、肩から流れ落ちる髪も、ふんわり柔らかな香りかして、艶めいている。
「ねぇ様ったら、道で転んで失神してしまったのでしょう?親切な人がお家まで連れてきてくれたんだよ?」
ルディの口ぶりでは、アマリーがかなりまぬけなことになっている。それでも、彼が事実を両親に告げ口しないでくれたことに心から感謝した。
「あの方は?」
「あの男の人?ねぇ様をメイドに預けて、すぐに帰ってしまわれたよ?」
「……そう。まだきちんとお礼もしていなかったのに……」
「今度お会いした時にで、よいのではないの?」
「……そうね。またお会いできるといいのだけれど、名前も名乗られなかったから……」
「とぉ様にお伺いしてみたら?知ってる人みたいだったよ?」
「だめ!それはだめよ」
そんなことをしたら変な誤解をされてしまう。
アマリーはこれまで誰にも興味を示さなかっただけに、彼を婚約者候補として真剣に口説き落とそうとするかもしれない。
だけど彼にはすでに決まった人がいる。
父は強かで食えない性格だ。それは娘のアマリーが一番よく知っている。娘のためにと、平気で汚い手を使える人なのだ。
彼に迷惑をかけるようなことは、絶対にしたくない。
「だったらねぇ様が自分で探すしかないね」
「そうね。それがいいわね」
たくさんパーティーに参加したら、どこかで偶然会うことができるかもしれない。
「だけどその前に――。ねぇ様ったら、言いつけを守らず一人で街に出たから、謹慎処分だね」
ルディの何気ない一言に、アマリーは出鼻をくじかれた思いだった。
ルディの予言通り、アマリーは数日間の自宅謹慎を命じられた。
街で暴漢に襲われかけたと知られていたら、きっとこの比ではなかったはずなので、その点においても彼に感謝を伝えなくてはならなかった。
精力的にパーティーへと参加できればいいのだが、アマリーは相変わらず人の集まる場が苦手なので、ようやく一つ目に訪れたところだった。
その間にもセティア伯爵との縁談がちゃくちゃくと進められている。まだ一度も顔を合わせたことがないというのに、すでにアマリーの婚約者だ。
仕方のないことだと割り切ってはいても、心の底では受け入れきれていなかった。
共に暮らし、いつかは心が通うというならまだしも、相手には好きな人がいるかもしれないのだ。
しかも、アマリーにはどうがんばってもなることのできない、男性の――。
「あなたはいつも私といる時、遠慮なく考えごとに耽っているわね」
ケイティにそう呆れられて、アマリーはその通りだったので素直に反省した。
「ごめんなさい」
「珍しく殊勝なこと」
「あなたを敵に回すと、後が怖いからよ」
「ふふ、大丈夫よ。呪ったりはできないわ」
意味深な微笑みに、本当は呪詛くらい簡単にできるのではないかという疑いを強めた。
ケイティをつついてもいいことはないので、アマリーは話を変える。
「それにしても、謹慎明けの一番最初で、王宮の夜会に参加するなんて思っていなかったわ」
「私がいて、ほっとしたでしょう?」
「……まぁ、そうね。あなたがいなかったら、来ていなかったかもしれないわ」
「それはよかった」
ケイティは鳥の羽をふんだんにあしらったお気に入りの扇を開いて、顔の半分を隠した。何となくだが、笑っている気がする。
なぜアマリーのような一子爵令嬢が王宮の夜会に招かれたのかはわからないが、参加する人の数が多いというだけで『彼』と出会える確率も上がる。どうしても、また彼に会いたかった。
「今日は目的があるのだし、逃げ出さないようにしないと」
「他のご令嬢たちとは目指す先が違うところが、あなたらしくていいと思うわ」
ケイティの意味深な視線を投げたのは、王子たちの中で唯一独身の第三王子に群がる美しい少女たちだった。
(あの中に入ったら、間違いなく窒息するわね)
それに第三王子のそばには、恋仲と噂されるセティア伯爵がいるかもしれない。なるべく近寄らないようにしなくては。
ケイティも、王子になど歯牙にもかけずに背を向けた。
アマリーはあたりをぐるりと見回し、目当ての人物がいないかどうか、意識を集中させた。
しかしどうやら見える範囲にはいなさそうだ。
がっかりとしている間に、隣にいたはずのケイティが忽然と姿を消していた。
「ケイティ?」
どこに行ったのだろうかと思って首を傾げていると、背中から切羽詰まった様子の声がかかった。
「今ここに、ケイティ嬢がいなかったか!?」
「え、ええ……。今の今までここに――」
頷きながら振り返ったアマリーは、人をかき分けるようにして現れた第三王子の姿に思わず目を見張った。
令嬢たちは今のところ、一人もくっついて来てはいない。
王子というだけあって、間近で見ると気品漂う端正な顔立ちをしているのだが、挙動だけは明らかに不審だった。
しばらくケイティがいた場所を苦々しく見据えていたかと思うと、次は左右へと鋭い目を光らせ、彼女の影を見つけたのか「あっちか」と言い残して去っていった。
(ケイティがウザいと言っていたのは、こういうことだったのね)
ケイティの占いに執心する人は多い。きっと王子までも虜にしてしまったのだろう。
(もしかして、恋占いかしら……)
これは禁断の恋に、信憑性が増してきた。
第三王子が割り込んだ先には、言い寄る男性たちをうまく躱し逃げるケイティがいる。いくら彼女でも、この国の王子をそう簡単にあしらえないと思ったのだが、踊るような身のこなしで人の陰に隠れた。
(さすがだわ)
素直に感心していると、ふいに正面に影が差した。
目線を上げると、アマリーよりニ回りは年上だろう紳士が、微笑みを称えて立っていた。
顔に見覚えがある。前に父が縁談を蹴った、好色な伯爵だ。
ダンスを申し込まれたのだが、断るべきだろうか。それとも一曲くらいは付き合うべきか。
答えれずにいると、手のひらを取られて甲に口づけられてしまった。
嫌悪感にぞわっとして、危うく払いのけてしまうところだった。
しかし非力なアマリーに振りほどけるほど、優しく手を取ってはいない。むしろその指先くら、離すものかという強い意思が感じられた。
「い、痛い……です」
「どこが痛いのですかね?顔色も優れないようだし、外で休みますか」
「いえ、あの……」
なかば強引に会場の外へと連れ出されかけた時、アマリーの背後から誰かの腕が伸びてきて、好色伯爵の手首を掴んだ。
「嫌がっているのが、わかりませんか」
その静かな抑揚の欠ける声音に、アマリーの心臓が意図せず高鳴った。
(この声は……!)
「嫌がっているだって?私はただ彼女を休ませようと――」
「アマリー。嫌な時は嫌だとはっきり口にすべきです」
「い、嫌です!」
思いきって叫ぶと、周囲から好色伯爵へと非難の視線が集中する。元々いい噂を聞かない伯爵だ。これ以上評判は下げたくなかったのだろう。ギリッとアマリーの背にいる彼を睨んでから、踵を返して会場に紛れていった。
アマリーはほっとすると同時に、強張っていた力がすとんと抜けてからに寄りかかってしまった。
「……ありがとうございます。また、助けていただいて」
彼に肩を支えられたまま顔だけ振り返ると、表情こそないがどことなく不愉快そうな彼がアマリーを見下ろしていた。
「体調が優れなくても、気の置けない相手でないなら一緒に人目のつかないところへ行くべきではありません」
「だってあれは、無理やり……」
「あなたは純粋なのか迂闊なのか。……判断し難い」
これで何度目だろう。彼に迷惑をかけたのは。
きっと手のかかる子供だと呆れ返ってしまったはずだ。
俯くと、うっすらと赤くなった手首が見えた。
不思議なもので、気づくとそこに痛みを覚えた。
その手に、彼の手がそっと重なる。
「冷やせるものをもらってきます」
背中にあったぬくもりが消えたと思ったら、彼は扉から出ていってしまった。
(待っていればいいのかしら……)
しかしここにいたら、またあの好色伯爵に出会ってしまうかもしれない。
ケイティもいないし、一人では心細く、アマリーは扉を開けると身体を滑り込ませて廊下へと飛び出した。
(どっちに行ったのかしら?)
勝手に出歩いていいものか迷いはしたが、立ち入ってはいけない場所には厳重な警備がしてあるだろう。
冷たいものがありそうなのは、厨房くらいしか思いつかない。
アマリーは厨房方面を目指して歩みを進めた。
かすかにこぼれ聞こえてくる音楽を背にうろうろ歩き回り、厨房へ向かっていたはずのアマリーは、時をかけずすぐに迷子になった。
(外に出てしまったわ……)
庭に厨房があるはずない。
来た道を戻ろうと中へ戻ろうとした時、木陰で何かが揺れた気がして足を止めた。
目を凝らすと、叢雲のわずかな隙間から月明かりが差し込み、そこにいた人影を照らし出した。
見知ったその後ろ姿がアマリーの瞳に映る。
たとえ後ろ姿でも、見間違えるはずない。――彼だ。
氷でも入っているのか雫の滴る袋を持って佇む彼は、なぜか、第三王子に抱きつかれていた。
「え?」
ぽかんとしているアマリーの後ろから、第三王子を追ってきた数人の令嬢たちのきゃあきゃあという歓声のような声が聞こえてきた。
「あの噂は本当だったのね!?」
「王子とセティア伯爵の禁断の恋!素敵だわ!」
「え……」
王子は、第三王子だ。他にいない。ならば、セティア伯爵というのは……。
「う、嘘、でしょう……?」
蒼白となった顔で呆然とその様子を眺めていると、令嬢たちが「邪魔しちゃ悪いわ」と頷きあった。
「行きましょう。あなたも」
「え?」
令嬢の一人に背を押されるようにしながら、アマリーは彼女たちと一緒にその場を離れた。
そこからどう歩いて会場へと戻ったのか、どうやって家に帰ったのか、まるで覚えていない。
気づいた時には、家の寝台で寝込んでいたのだった。