*3*
「すみません。雪の雫は稀少なものでして、当店では在庫がございません」
何軒目かの宝飾品店で、これまでと同じ文言で断られた。
そうそう手に入る代物ではないことは重々承知している。
しかしケイティがああ言うのだから、雪の雫があればうまくことが運ぶはずなのだ。
婚約者に逃げられて男に走った伯爵と愛のない結婚せずに済むというような具合に。
(――そうだわ!)
雪の雫を返してもらうのではなく、一時的に貸してもらえばいいのではないか。
本当は母に借りたいところなのだが、命よりも大切な彼女の雪の雫を、間違ってなくしでもしたら取り返しがつかない。
だったらやはり、アマリーが強引に押しつけた彼から借りるのが妥当だろう。何の思い入れもない物だというのが大きい。
ひらめいたアマリーだったが、根本的な問題が立ちはだかった。
(ああ、もう……わたしって、何て馬鹿なのかしら。せめて名前だけでも聞いておけばよかったのに)
後悔して項垂れていると、たった今頭に思い浮かべていた彼が、店の奥から現れた。
静かな佇まいで黒い双眸。間違いない。あの日雪の雫を押しつけてしまった無表情で掴みどころのない、あの青年だ。
アマリーはなぜか反射的に、くるりと背を向けてしまった。
(もう雪の雫を売ってしまったのね……)
彼は店長に丁寧に見送られて店を後にした瞬間、アマリーはそれまで接客してくれていた店員を捕まえてさりげなく尋ねた。
「彼、雪の雫を売りに来たの?」
「え?」
「違うの?だったらあの人……何をしに来たのかしら?」
首を捻っていると、親切な店員はこっそりと耳打ちしてくれた。
「指輪のオーダーにいらしたんですよ」
「そうなの?」
店員はとても微笑ましそうな顔でアマリーににこりとした。
彼は装飾品をつけるようには見えないので、恋人への贈り物だろう。
店員は相手が誰かということも知っているのかもしれない。
(それにしても恋人がいたのね……。あの表情でコミュニケーションを取れるのかしら?)
しかしそうなると、雪の雫はその恋人の元へと移っている可能性が出てきた。
借り受けるという案は引き下げなければならないだろう。
アマリーは内心肩を落として、それでも微笑んでお礼を言うと外へ出た。
「……どうしてよりにもよって雪の雫なのかしら。ルビーやサファイアならよかったのに」
それになぜ、元婚約者が最後にくれた宝石がラッキーアイテムなのだろう。
(ケイティったら、絶対におもしろがっているわ)
日も暮れかけてきたので邸に帰ろうと踵を返しかけたとき、
「――ねぇ、君」
アマリーは思考に耽っていて、初め声をかけられたことに気づかなかった。
肩をとんと叩かれ、ようやく振り向くと、見知らぬ青年がにこやかに微笑んでいた。
「君、雪の雫を探してるんだって?」
「え?どうしてそれを?」
「さっきの店で話を聞いてさ、俺、雪の雫が置いてある店を知ってるんだよね」
「本当に!そのお店、教えてくださらない?」
青年はもちろんと言って歩き出したので、アマリーは後を追いかけた。
近道なのか、通りを逸れて路地をずんずん進んでいく。
無警戒で入ったアマリーだったが、あまりにも荒んだ雰囲気の道が続き、ようやくおかしいと気づいて彼の背中へと問いかけた。
「すみませんが、こっちの方に宝飾品なんてありましたか……?」
彼は安心させるように頷いて、尻込みするアマリーの手を取る。急に触れられて驚いたアマリーは完全に足を止めた。
紳士的な手の取り方ではない。むしろ、逃がさないというように掴まれたようだ。
アマリーは恐怖に背筋がぞくっとして後退った。
「あの、もう日も暮れるのでやっぱり、今度にします」
蒼白で震え出したことも伝わっているはずなのに、彼は決して手を離そうとはしなかった。それどころか、腕が抜けてしまいそうなほど引っ張られて、アマリーはか細い声で悲鳴を上げた。
誰か助けてと叫びたいのに、恐ろしさで喉がふさがってしまい、喘ぐような声しか出てこない。
なんとか踵で踏ん張って抵抗いると、薄暗い道の先から数人の若い男たちが姿を現した。
にやにやと卑しく笑んだ男たちは、アマリーを値踏みするよう全身に視線を這わせながら取り囲む。
「へえ、いい女捕まえてきたじゃねぇか」
「だろ?」
アマリーを拘束している青年が、さっきまでとは違う種類の笑みを口元に浮かべる。
ぞっと震え上がったアマリーは何とか逃れようと身をよじったものの、また強い力で腕を引かれ、踏ん張りきれずに汚い地面へと転倒してしまった。ちょうどいいとばかりに、男たちがアマリーを押さえつけにかかる。
こんな恐ろしい目に遭うなんて、さっきまでの自分はまるで予想していなかった。
もっと相手の言葉を疑って警戒心を持たなくてはならなかったのに、雪の雫のことばかりが頭の中を占め、他人に対する注意を怠った。
こんな路地に寝かされて、何をされるのか想像しなくてもわかる。
アマリーの目尻から涙がこぼれ落ちた。
「あーあ、お前が乱暴に扱うから泣いちゃったじゃねぇか」
「可哀想にな。あとで俺からが慰めてやるからなぁ?」
上から覗き込み、けらけら笑う男たちに手足を押さえつけられ、豹変した青年が服に手をかけた。
誰か助けて、とアマリーがなけなしの力で言葉にした時だった。
右足を捕らえていた一人が、急にぱたりと横に倒れたのだ。
え、と思ったのはアマリーだけではない。
彼らも揃って目を見張りながら、倒れた男をぽかんと見つめた。
仰向けに押さえつけられているアマリーからは、何が起きているのかさっぱりわからなかったが、左足の戒めがとかれると同時に、また人が倒れた気配は感じ取った。
男たちが目に見えて顔色を変える。
「だ、誰だ!てめぇ!」
(そこに、誰かいるの……?)
「た、たす、助けてください……」
アマリーはぼんやりと見えたその影へと懇願した。
返事はなかったが、答えは男たちの呻き声で明らかだった。
身体を起こして見たのは、瞬きするよりもあっという間の光景だった。
気づくと男たちは一人残らず地面に伏せていて、立っているのは彼らを潰した、『彼』一人だけとなった。
彼が傷を負っている様子はない。――アマリーがあの日、不注意でつけてしまったもの以外は。
(あの人は……)
そこにいたのは、彼だった。雪の雫を渡した、名前も知らない、彼。
呼吸一つ乱すことなく男たちを睥睨した彼は、ぽぅっと見蕩れていたアマリーを軽々と横抱きにして持ち上げた。
「きゃっ……!」
慌てて彼の首にすがりつこうとしたところで、アマリーは中途半端な形で躊躇した。
汚れた地面に寝ていたせいで、服も髪も汚れて、なぜか異臭もしている。
アマリーは泣きたくなった。
「あの、わたし、汚――」
「構わないから、抱きつきなさい」
アマリーはおずおずと腕を回した。
彼はどうやらかなり怒っているらしく、路地を出るまで目すら合わしてくれなかった。
お礼を言うべきなのか、謝るべきなのか、どきどきしながら悩んでいると、彼が静かな声音で問いかけてきた。
「知らない人についていってはいけないと、習いませんでしたか?」
「……な、習い、ました」
「なぜ守らない?」
「ご、ごめんなさい……」
「俺に謝罪はいりません。反省はご両親になさい」
「両親に言うの!?……い、言いますよね……」
その黒い双眸に見据えられると、黙っていてとは言えなくなった。
「一人で街をふらふらするなんて、とんだお転婆娘ですね」
彼が呆れるのも仕方がない。初めから一貫して悪い印象しか与えていないのだから。
今回だって、彼が見つけてくれなければ、恐ろしい結末しか待っていなかった。
今さら安堵で涙があふれた出た。
「……ありがとう、ございました。助けてくれて……ありがとう」
きゅっと腕に力を込めて、彼の肩に顔を埋める。
泣き顔を見かれたくなかった。
彼は何も言わないが、不思議とそれが優しさだとわかった。
(あったかい……)
深い安心感に包まれて、アマリーは気づくと意識をそっと手離していた。