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結婚を控えた貴族の令嬢たちが、とりわけ気にする贈りもの。
同じ形は二つとない、雪の結晶のような宝石、『雪の雫』。
それを贈られると、とけることのない永遠の愛が誓われるのだと、王都では昔からまことしやかに囁かれている――。
そんなもの、ありはしないのに……。
アマリー・コースト子爵令嬢には、物心つく前から親同士が決めた婚約者がいた。
幼い頃は年があまりに離れたこともあり、兄だと思っていたし、たぶんあちらもアマリーのことを妹として見ていた。
会えばいつも可愛がってくれたけれど、あいさつ以外のキスは一度もしてくれなかった。
大切にされているのだと両親は言うが、彼がアマリーを異性として見ていないことは明白だった。
出会った時すでに彼は成人していて、アマリーはまだ小さな子供だった。
そして月日が流れてもそれは相変わらずで、彼にとってアマリーは永遠に小さな妹で、決して女になることはないと気づいてしまった。
だから、無茶を言って困らせた。
アマリーの両親を深い絆で繋いだ『雪の雫』という宝石が欲しいと。買ったものではなく、採ってきて欲しいと。
アマリーの父であるコースト子爵は昔、その宝石を採りに行き、遭難した。しかし親切な村の人に助けられて無事生還し、母の元へと帰って来たという。
苦難を乗り越え結ばれた彼らは、アマリーから見てもとても仲のいい夫婦だ。
その宝石さえあれば、彼らみたいに深い絆で結ばれるのだと思っていた。――子供だったのだ。
まさか本当に、父と同じで遭難して消息不明になるなんて、考えもしなかった。
それでも父が帰って来たことを知っていたから、アマリーは悲嘆と後悔に暮れながら、生存を信じて待ち続けた。
なのに、なぜだろう。
彼は助けてくれた村の娘と結婚したいから、婚約を破棄して欲しいと言った。恩に感じているのなら相応のお礼をすればいいだけなのに、彼はその娘を愛していると、真摯な顔で告げた。
アマリーが一度だって言われたことのない言葉を、その娘はたった数ヵ月で手にした。
アマリーが、心の底で望み続けていたものを。
だけどすがりつくなんてみっともない真似、アマリーにはできなかった。
彼の両親とアマリーの父が、彼を引き止めるために強行手段に出たが、それで結婚しても幸せになれるとは思わなかった。
だからいい女ぶって、後押しした。
ただの意地だ。
だけど本当は、彼には幸せになって欲しかった……。
そうしてやっと気がついた。
彼を兄ではなく、本当に、男として好きだったのだと――。
アマリーは『会』と名のつく集まりが好きではない。社交界であったり、舞踏会であったり、夜会であったり……。
これまでは婚約者がいたから、他の令嬢たちのように熱心に結婚相手を探さずに済んだ。
だけど今は婚約破棄された憐れな娘であり、真剣に相手を探さなくてはならない身だ。
だが実際のアマリーは、見事に壁の花となっていた。
誰かに視線を向けられるたびに、「婚約破棄された子」と心の中で馬鹿にされている気がして、今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
それは完全な被害妄想であっても、だ。
彼の両親は、表向きは彼が遭難してそのまま亡くなったことにした。それは親子関係の断絶を意味していて、さらにはアマリーへの配慮でもあった。
正直、婚約破棄された娘でも、婚約者を失った娘でも、どちらでもいい。惨めであることは、疑いようもない事実なのだから。
仲のいい友人も参加しておらず、会話を弾ませている両親の元に行けば、アマリーが乗り気じゃなくてもあれこれ結婚相手候補たちを紹介されるだろう。
彼らは今、必死なのだ。優良物件であった彼に婚約破棄された娘を、同等、いや、それ以上の地位や財産を持つ名家に嫁がせようと躍起になっている。
(馬鹿みたい……)
人気のある人は、もうとっくに他の誰かのもの。残っているのは何かしらの欠陥がある人だけ。
どうしてもそう悲観的に考えてしまい、嫌気がさす。
アマリー自身が、何より欠陥品だというのに。
俯いていると、アマリーと同じ年頃の令嬢たちの囁き声が耳に入った。どうやら噂話のようだ。
「――婚約を破棄されたんですって」
「まあ。それで今日はお一人なのね。……お可哀想に」
「何でも、相手の方と駆け落ちなさって。それでね、それでね――」
自分の話ではない。だけどアマリーは黙って聞いていることに耐えられなくなった。
そしてその場からそっと離れた。
壁の花が一輪消えても、誰も気づきはしなかった。
ひっそりとした庭園のベンチにかけて、アマリーは夜空を仰ぐ。どれだけ見続けても雪なんて降りそうにない穏やかな星空だ。
『雪の雫』を取り出して、天へと掲げて透かし見た。
幾千の星のきらめきが、この小さな石に集ったようにきらきらと輝きを放つ。
これは元婚約者が、約束通りにアマリーのために採ってきてくれたものだ。
婚約者であったアマリーへの、最後の贈り物。
願いとともに、贈られた。
「愛する人と、幸せになれるように……ね」
だけどその愛する人は、遠くに行ってしまった。
「本当に、……馬鹿よね」
こんな意味のない宝石を残されても未練が残るだけなのに、なぜ受け取ってしまったのだろう。
ならば捨てればいいのに、いざとなると勇気が出ない。
宝石を握って、振りかぶる。だが数秒して、へなへなと拳は膝へ戻る。
何度かそれを繰り返し、アマリーは唐突に意を決した。
このままいない人を想い続けても仕方ない。
人生まだ先が長いのに、いつまでもくよくよしていてはもったいない。
アマリーはぎゅっと目をつむり、眼前に広がる緑生い茂る庭園へと、宝石を「えいっ」と投擲した。
手から離れた瞬間、無意識に目を開けた。夜空を駆けるきらめきを、視線で追いかける。
だってまだ、未練があったから。
そして放物線を描いて飛んでいったそれは、重力に従いなだらかに落下し――なかった。
「え」
静かな庭に、こつっと音が響いた気がして、アマリーは瞬時に血の気を引かせた。
薄暗かったことと、しっかり前を確認しなかったことで、運悪く通りかかった人の額に直撃してしまうという最悪な事態を招いてしまったのだ。
(ど、どうしたら……)
闇に浮かんだ人物は、額を押さえるような仕草をしながら膝を曲げて、自分を攻撃してきたそれを拾う。
アマリーはあわてふためきながら駆け寄った。
「ごめんなさい!お怪我はありませんか!」
しゃがんで宝石を手にしていたのは、二十代前半くらいの男性だった。
アマリーの声が届いたのか、彼はふと顔を上げる。
その感情が欠落したかのように冷たい眼差しに、アマリーはたじろいだ。
(ああ、どうしよう!とても怒っているわ)
短めの髪から覗く額には、宝石の角で切れたのか赤く血がにじんでいて、ますます狼狽した。
彼はドレスを着たアマリーと同じく正装している。ならば今日の参加者だということだ。どこの誰だかは残念ながら記憶にないが、貴族の子息に怪我をさせてしまったということだ。
アマリーはびくびくしながらも、ハンカチで彼の額に押しあてた。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
謝罪の言葉とともにあふれてきた涙を何とかせきとめ、血が止まるように祈る。
だけどもし、顔に傷が残ってしまったら……。
アマリーが怒られるくらいで済めばいい。だけど、両親にまで責任が及んだらどうしようと、ハンカチを持つ手がかたかたと震えた。
彼は怯えた顔をさらすアマリーから目を逸らしながら、ハンカチだけ受け取り、押さえるその手は離させた。
「……平気です」
その低く平淡な硬い声にびくりとしたアマリーだったが、かすかに触れた手は意外にも優しかったので、恐怖心だけは静かに凪いだ。
表情がほとんどなく、長く繊細なまつげに縁取られた黒い双眸が、どうしても冷たい印象を与える。
こんなことがなければまず近寄らない。そんな雰囲気を彼はまとっていた。
だけどもしかしたら、そんなに怖い人ではないかもしれない。
しかし彼が立ち上がると、小柄なアマリーは完全に見下ろされる形となり、威圧感が増した。
そして、沈黙。
寡黙なのか不機嫌だからなのか、彼から何も話ではくれないので、アマリーは自分から口を開くしかなかった。
「その、宝石のことなのですが……」
躊躇いながら切り出したのは、彼が手にした宝石――雪の雫のことだった。
彼は拾ったことを忘れていたのか、手の中にあるそれアマリーへと差し出しかけ、ふと眉をひそめた。実際には目に見えて表情は変わっていなかったのだが、何となくそう感じたのだ。
彼はそれが何であるかたった今気づいたように、ただ黙って見つめている。
「そ、それは」
言いわけをしようとしたのだが、一からすべてを他人に説明する勇気は、まだ持ってはいなかった。
なので結局――。
「本当にごめんなさい!それ、もらってください!」
元々捨てるつもりだったので、治療費にでもあててもらえればいいと思った。
アマリーはこれ以上顔向けできずに、終始無言の彼から目を逸らし、その場から逃げるように身を翻したのだった。