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部屋の扉を開けると、卓上灯の光に照らされた尚が驚いた顔で振り返っていた。
「起きていたのか」
柾も尚を見て驚いた。
夜の十一時過ぎ、いつもであれば尚はすでに寝ている時間だ。
積み上げた本の一つを消化していたらしい。
「え、忘れ物?」
訊ねる尚に柾は首を振る。
「家に誰もいなくてさ、帰ってきた」
二人に連絡を忘れていた自分が悪い。
高級住宅街として名高い一角に、敷地を山茶花で囲った邸宅がある。
白い花の盛りも終わりに近く、前に来た時よりも花は減っている。
この季節、凍えて辿り着くと、白い花がいくつも夜の闇の中にぼんやりと浮かんで出迎える。
花の香りを吸い、冷たく乾燥した大気に鼻腔を痛めながら、いつも安堵の気持ちが沸き出でた。
迷路のような山茶花の植え込みを抜けると、常夜灯が柔らかな黄金色の光で門扉を照らしている。
呼び鈴を鳴らすが、誰も出てこない。
そこでようやく柾は自分の失態に気がついた。
優は一年前に転勤になってからは、一月に一度か二度ほどしか家に戻ってこないようになっていた。
柾が来ると分かれば居てくれるが、今回はすっかり連絡を忘れていた。
祖母に望みをかけて携帯端末へ連絡を入れてみる。
なかなか繋がらずようやく数時間後、市内の北の外れにある温泉宿へ明日まで滞在すると分かった。
「ちゃんと言わなかった柾が悪いのよ」
祖母の言葉に項垂れるしかない。
二人の不在は即ち家に入れないという事だ。
優の家の鍵を柾は所持していなかった。
「それで寮に戻ったのか」
荷物を解く柾の背を眺めながら、尚は納得する。
「鍵、貰えばいいのに」
「いや、でも」
「今更遠慮するような仲じゃないだろう」
「確かにそうだけれど」
歯切れの悪い柾に、尚は理解できないと言いたげだ。
尚の投げた結論は至って正しい。
優にこれ以上守られてはいけない。
そんな自分の自立心が急に卑屈に思えてくる。
今はそんな自分と向き合いたくない柾は、話題を変えるべく口を開いた。
「ケーキがあるんだ。明日、翠も呼んで食べよう」
「何のケーキ?」
「ガトーショコラ、チョコレート」
「チョコレートか」
不満そうな声音に「いらない?」と聞くと、「いる」とはっきり答えが返ってきた。
寝台に潜ると尚が卓上灯の明かりを消した。
「そのくらいの明かりなら平気だよ」
「俺も寝るから」
窓にかかる天幕を通して月と街灯の光がうっすら室内に忍び込む。
ごおおおお、と外から音が響く。
一旦止んできた風が再び威力を増して吹き荒れている。
残りの山茶花も全滅かな、と柾は小さくため息をついた。
「なあ」
消灯後、尚が話しかけてくるのは珍しい。
「何?」
「もう休みの間は寮にいるよな?」
「そうなるね」
「うん、それならいいんだ」
単なる確認と普段は流してしまうような言葉が、今夜は妙に引っ掛かる。
「どうして?」
少し迷った後で訊ねてみた。
尚は黙っている。
もしかしてもう寝たのか、訝る柾は尚の方へ顔を向けた。
その途端に尚が呟いた。
「眠れないんだ、すぐ側に人の気配がないと」
闇に目が慣れても、その表情は見えなかった。
風はまだ吹いている。
隣室の物音は厚い壁に阻まれて一切聞こえてこない。
世界にたった二人しか残されていなくても、きっと気づかない。
尚はたった一人で夜明けまでの長い暗闇の時間を、誰かが紡いだ文字を辿って過ごしていた。
柾は目を閉じた。
体に触れるシーツは冷たく、皮膚を骨を蝕む。
尚の静かな寝息が聞こえる。
耳を澄ませているうちに、柾もいつか眠りに落ちていた。




