5:ベッドは一つマクラは二つ
バーキロット家夫妻はもちろん、子息令嬢達とも親しくしている。彼等は両親に似て温厚な性格と才知に溢れ、イチカが異世界出身と知っても変わらずに兄妹同然の仲を築いてくれた。それどころか慣れぬ世界での生活は大変だろうと何かと手を貸してくれたほどなのだ。
そんなバーキロット家での食事となれば、いかに婚約云々の関係があろうが緊張や畏縮などするわけがなく、それどころか暖かく楽しく過ごすことが出来た。……ことある毎に彼等が今回の婚約話を謝って来なければもっと過ごしやすかっただろうが。あと、ことある毎に同情の視線を向けてこなければ。
「……あの人、どんだけバーキロット家の負担になってるんだろう」
そう思わずイチカが呟いたのは、夕食も終え入浴も済ませて寝室に戻る途中。
食事中どころか先程風呂に浸かっている最中にもバーキロット家夫人に謝罪され、長男にも呼び止められて改めて謝られたのだ。もちろんそれがハロルドとの婚約に対してであることは言うまでも無く、ロクステン同様に彼等もまたイチカしか頼れる者が居ないと考えているのだろう切なげな声には請うような色さえ感じさせた。
あぁ、お労しや……と、思わずイチカが目元を拭う。
普段は気丈な夫人が、聡明な子息様が、それどころか屋敷の使い達までもが、皆が一様に「こんなことになって」と謝り、そして「どうか前向きに検討を」と縋ってくるのだ。これを嘆くなと言う方が無理な話。バーキロット家に恩のあるイチカは言わずもがな、無関係の者だってあの声色には胸を痛めてしまうだろう。
だからこそ意を決し寝室に向かっているのだ。
最初は自室に簡易ベッドでも用意してもらい別々に寝ようかと思っていたのだが、それだとハロルドを自由にさせてしまう。『皆が寝静まった夜、ハロルドが自由』となればどうなるかなど言われなくとも分かる。通りすがりに見つけた『連れ込み用出入口』が大活躍してしまうのだ。――あれは明日にでもロクステンに報告しよう。きっとその時にはまた移動しているのだろうけれど――
「流石に初日だし、私が隣にいれば抜け出したり連れ込んだりはしないはず……。最悪、拘束しよう。私なら出来る」
ハロルドの魔力は尋常ではない。だがイチカも同様に人並み外れた魔力の持ち主だ。
本気を出して挑めば彼を拘束することも出来るだろう。……もしも彼が抵抗した場合、互いの魔力を考えるにちょっとした惨事が起こりそうな気もするが、まぁそうなったらそうなっただ。息子がビッチに夜遊びするか屋敷が崩壊するかの二択となれば、きっとロクステンは後者を選ぶに違いない。
もしくは鈍器で直接攻撃である。ハロルドは魔法に長けているが剣の扱いはからっきしと聞く、卑怯と言われるかもしれないがそこを突くのも手だ。魔法で拘束し、暴れるようなら剣の柄でガツン、最終手段は昔世界を救った魔剣で……いや、これは流石に止めておこう。本当に屋敷が崩壊しかねない。
いや、魔剣の威力とハロルドの魔力を考えると屋敷どころか世界規模の大惨事が起こる可能性も有り得る。何が悲しくてわざわざ呼び出されて救わされた世界をビッチ拘束のために崩壊させねばならないのか。
「一番はさっさと眠ってくれることなんだけど。睡眠薬とか飲ませてみようかなぁ。ハロルド様、入りますよ」
物騒なことを呟きつつ、寝室の扉をノックする。
だが待てども返事は無く、どうしたのかと首を傾げつつイチカがドアノブに手を掛けた。軽く回せばガチャリと簡素な音がして、ゆっくりと扉が開き……、
モワァ……と、暖かな空気が流れ出て来た。
それに一瞬眉を顰め、次いで中を覗き……唖然とする。
正確に言うのであれば中の光景に、もっと正確に言うのであればベッドの上で上半身裸で待ち構えるように横になるハロルドの姿に唖然としたのである。
その光景はなんとも言い難く、思わずイチカが息を呑む。老若男女問わず魅了する彼の美貌、そして鍛えられ引き締まった上半身が惜しげもなく白いシーツの中央で披露されているのだ。そのうえ彼はこちらを見つめると悪戯気に口角を上げ、ゆっくりと片手を差し出してきた。しなやかでいて節の太い手がまるで「おいで」と言わんばかりに誘い、下着が見えるか否かまで緩められたズボンの腰元がまた卑猥でいて蠱惑的に美しい。
彼の手に誘われるまま身を任せればきっと官能的な一夜を過ごせることだろう。それはもう、年頃の乙女が夢に画くような甘く刺激的な一夜に違いない。そこまで考え、イチカがそっと後ろ手で扉を閉め……、
「ベッド占拠しないでください。ハロルド様の領地は半分ですよ」
と冷静に告げた。
「ちっ、これでも無理か。面白味の無いやつめ」
「舌打ちしないでいただけます? というかこの部屋みょうに熱くないですか」
はたはたと己を扇ぎながらイチカが周囲を見回す。この際、己の色仕掛け失敗を棚に上げて「ちゃんと人間相手に欲情するのか?」と疑惑の視線を寄越してくるハロルドは無視である。失礼すぎて反論する気も起きない。
なにより、この寝室の室内温度が妙に高く感じられるのだ。風呂上りで体温が上がっているということを加味しても異様に思える。話しているだけでジンワリと汗が浮かびそうだ。
いったいどうしてと室内を見れば暖炉に火が灯っており、これが原因かとイチカが近付いた。
今夜は暖かい、こんなもの点ける必要も無い……と、そう考えて暖炉に手を伸ばす。だがその瞬間に待ったが掛かった。
「止めろイチカ、それを消すな!」
「ハロルド様、どうなさいました? この部屋熱すぎますよ」
「それを消したら俺が寒くて死ぬ!」
「パジャマを着てください」
きっぱりと言い切り、返答を待たずに暖炉の火を消した。魔法を使えばあっという間だ、煙も上がらなければ匂いもしない……ハロルドの悲鳴はあがるが。
見れば先程までシーツの上で魅惑的ば裸体を晒していた彼はいつのまにやら布団の中に潜り込み、おまけに「人殺し!」とまで言って寄越してくる。
「寒いならパジャマを着れば良いんです」
「……そうか分かった」
仕方ない……と言いたげに溜息をつき、ハロルドが布団から出てくる。
そうしてまるで自分が譲歩してやったと言わんばかりに盛大に肩を竦め、寝室から続く隣の部屋へと消えていった。向こうは確か彼の部屋だ。寝室を挟んでイチカとハロルドの自室が用意されているとメイドのブランカから聞いた。――それを聞いたときイチカは心の中で「気の利いた造りをしてくれおって……」と呟いたが、いったいどうして申し訳なさそうに話すブランカを前に言葉に出来ると言うのか――
とにかく、自室に戻ったということはパジャマを着るつもりになったのだろうと考え、ベッドの上で彼の戻りを待つ……わけがなく、さっさと布団に入った。彼を待ってやる義理は無い。むしろこのまま彼が戻ってくる前に現実逃避がてら眠ってしまいたい気分である。
それでもガチャと扉が開く音を聞けば顔を上げないわけにはいかず、「待たせたな」という彼の言葉に内心で「待ってません」と応え……再び唖然とした。
なんとも洒落たナイトドレスである。
紫色の妖艶なレースからは彼の鍛え上げられた上半身が透けて覗き、同じレース地のショーツからはまさに美脚といったしなやかな足が伸びる。ショーツに関して一部多大な問題を発生しかねないのだが、そこはレースを重ねることで辛うじて回避している。なんとも危なげで崖っぷちなデザインではあるがセーフはセーフだ、むしろギリギリを攻めようとするデザイナーの気概を感じさせる。何が、とも、どこが、とも言わないけれど。
そんなナイトドレスを纏ったハロルドは蠱惑的に一度笑い、紫色の瞳をまるで誘うように細めてこちらを見つめてきた。短く切られた銀色の髪を掻き上げる仕草がなんとも言えない色気を放っており、歩けばふわりとナイトドレスの裾を揺らす。
「どうだ、俺の勝負パジャマだ」
「布面積少なくなってどうするんですか。それ寒くありません?」
「…………すごく寒い」
「でしょうね」
馬鹿じゃないんですか、と思わずイチカが冷ややかに彼を見る。
確かにナイトドレスを纏ったハロルドは蠱惑的だ。男性が女性の下着を身に着けていれば普通は滑稽でしかないのに、彼の美貌がそれを倒錯的な色気に昇華させている。これは見事としか言いようがない……が、それだけだ。むしろイチカからしてみれば見事な馬鹿でしかない。
最早呆れてものも言えないと本日一番深い溜息をつけば、またも色仕掛けに失敗したことを察してかハロルドが悔し気に睨み付けてきた。不満を隠し切れないと眉間に皺をよせ、そのうえムグと口をへの字にするところがちょっとだけ可愛く見えたのは黙っておく。
「上半身裸も駄目だし、これも駄目。いったい何が良いって言うんだ」
「普通にパジャマを着ろと言ってるんです。はい、おやすみなさい」
もう相手をする気はないとイチカが布団を頭まで被る。
ハロルドの悔し気な唸り声が聞こえ、次いでガチャンと扉の音が聞こえた。どうやら再び自室に戻ったようで、また何か仕掛けてくるのか……とイチカが内心で溜息をつく。
上半身裸、セクシーなナイトドレス、その果てにあるものは全裸かコスプレか……。いざとなったら魔法を使って拘束か魔剣を使ってしまおう、思わず最終手段を放つ覚悟をしてしまう。
もしも屋敷を崩壊させてしまっても、あのナイトドレスを見ればロクステン様も分かってくださるはず。
そう己に言い聞かせれば、ナイトドレス姿のハロルドを横目に申し訳なさそうに謝罪してくるロクステンの姿が脳裏に浮かんだ。なんて哀れなのだろうか。ロクステンも、自分も、ついでに言うならハロルドの頭と貞操観念も。
そんなことを考えていれば再び扉が開く音がして、次いでベッドが揺れた。入ってきた……とイチカが心の中で呟く。
良いかイチカ・ナルディーニ、何があっても動じてはいけない。
世界を救ったあの時のように平常心を保つのだ、あの時より心的負担がかなり大きいような気もするが、私ならばきっと耐えられる。
そう心の中で己を鼓舞しつつ瞳を閉じて寝たふりを続ければ、モゾモゾと布団が揺れ「おやすみー」と間延びしたハロルドの声が聞こえてきた。
……おやすみ、である。
これには思わずイチカがパチンを瞳を開けた。灯りを落とされた真っ暗な部屋の中、うっすらと天井が見える。
おやすみ、とはそのまま「おやすみ」と言うことだろうか? つまり寝るという事か?
そんな疑問を抱いて隣を見れば、首元まで布団をあげたハロルドの姿があった。蠱惑的に笑うでもなく誘うように手を伸ばすでもなく、紫色の瞳を閉じて深い呼吸を続ける様はまさに就寝といった様子である。
「ハロルド様、寝るんですか? え、本当に、寝るの?」
「なんだよ、今更やる気になったのか? 俺もうグッスリ就寝気分なんだけど」
「……ちょっと失礼」
ひょいと手を伸ばして彼の胸元に掛かっている布団を軽く捲った。
見れば今の彼は上半身裸……でもなく、セクシーなナイトドレスでもない、きちんとモコモコした素材のパジャマを纏っている。ふわふわモコモコと随分と分厚い布地で、手先までしっかりと覆っている。ドヤ顔のハロルド曰く足先までモコモコと包まれているらしい。
これはなんとも暖かそうなパジャマではないか。思わずイチカが「失礼しました」と布団を戻せば、その戻し方が甘かったのかハロルドが己の首元までグイと布団を引き上げた。まさにスッポリである。これはもう布団をかけるというよりは頭だけ出していると言った方が正しい。
「寒がりなんですか?」
「着衣プレイが大好きなぐらいには寒がりだ」
「さいですか」
聞かなきゃ良かった、と思わず内心で呟きつつ、イチカが倣うように枕に頭を預けた。
そうして再び告げられる「おやすみ」という声に、ひとまず今夜の戦いは終わったのだと察して溜息をつく。
「おやすみなさい」と返しつつ。それと、魔法を使って暖炉に火を灯しながら。