番外:地獄のチェス大会、再び(2)
「ロクステン様、おはようございます」
「おはよう、イチカ。ハロルドは……なんだ、まだ起きてるのか。しぶといな」
「父さん酷い……」
ハロルドが呻く。先程の呻きよりも恨みが籠っているが、当然と言えば当然か。
そんな父子の交流を眺め、イチカは首を傾げながらロクステンを呼んだ。
「ロクステン様、どうして今回もハロルド様に睡眠薬を盛ったんですか? 今までは睡眠薬投与もやむなしだったけど、今回は酷いですよ」
「今までだって酷いだろ……」
「今まではハロルド様の自業自得です」
「ぐぅの音も出ない……ぐぅ……」
「ぐぅの音すぐに出ましたね」
一瞬鼾を掻き、ハロルドが慌てて意識を取り戻す。
もぞと動いて顔だけ上げて、恨みが籠った瞳でロクステンをじっと見つめる。
イチカも回答を求めるようにロクステンへと視線を向けた。
「なぜ今回も、か……。イチカ、もしも私が睡眠薬を投与せずにハロルドが万全の態勢でチェス大会に挑んだら、どうなると思う?」
「どう、って……」
問われ、イチカはロクステンの言う通りの光景を想像してみた。
万全の態勢なおかつ意欲的なハロルド。彼の手に握られるチェスの駒。高らかに響く笑い声……。
「なるほど、そう言う事ですか」
納得したとイチカが頷いた。
過去十回に渡るチェス大会、ハロルドにはいつも容赦の無い妨害工作がなされた。だがそれでもハロルドは優勝し続けたのだ。
そこにはお気楽ハッピーライフを続けたいという意地もあるが、なによりハロルドの人並み外れた魔力と技術、そして頭脳あっての事だ。
それを一切の妨害工作無しでチェス大会に挑ませたらどうなるか。
誰も相手になどなりえない。始める前からハロルドの優勝は決まったようなものだ。これは面白みがない。
「それで投与したわけですか。確かにこれは仕方ないですね」
「うー……」
「分かってくれたか、イチカ。これはあくまで平等のため。参加者がみな楽しく期待をもって勝負に挑めるための処置なんだ」
「うー、ぐ、……ぐぅ……やべ、寝てた」
ハロルドの鼾交じりの唸りをBGMに、イチカとロクステンが分かり合う。
次いでイチカはハロルドへと向き直った。相変わらず眠そうだ。睨みたいのだろうが瞳は虚ろで、瞬きの間隔は普段より長い。
「そもそも、ハロルド様は眠いなら眠れば良いじゃないですか」
「ぐー……んっ、な、なんだ?」
「だから寝たらどうですか。今回は誰が優勝したって、別に構わないでしょう?」
いまのハロルドは自重した人並みの生活を送っている。性生活を賭けて優勝する必要がそもそも無いのだ。
チェス大会に参加できないのは残念だが、彼が誘えばみんないつだって喜んでチェスに付き合うだろう。
だから、とイチカが話せば、ハロルドがテーブルに突っ伏して顔だけをこちらに向け、
「いやだぁ……ここまできて、ここまでされて……優勝を譲るもんかぁ……。玉座は俺のものだ……」
そう唸りながら訴えた。
これを聞き、イチカはパチンと一度目を瞬かせた。なんという訴えだろうか。
「大人げないけど、私、ハロルド様の天才的な頭脳をもったうえで言動が頭悪いところ、大好きですよ」
「俺もイチカのこと大好きぃ……」
へら、とハロルドが笑う……が、眠気に負けたのかガクリと頭を落とした。
耳を澄ますと「寝るものかぁ……」という呻きが聞こえてくるので起きてはいるのだろう。
それを見ていると、ロクステンが上着から懐中時計を取り出した。
「そういえば、イチカは大会開始すぐに第一試合があったはずだ。そろそろ用意をしておいた方が良いかもしれないな」
「本当ですか? ならさっそく。ハロルド様はどうします? 広間に行きますか?」
「眠くて動けないから……ここで……遠隔で戦う……」
いってらっしゃい、とハロルドが片手を振ってくる。
……多分、振っているのだろう。力なく腕を上げ、パタ、パタ、と手首を軸に手が前後に揺れているだけに見えるが、きっと手を振っているに違いない。
婚約者のこの光景に、イチカはさすがに憐れみを抱き……、はせず、
「今年こそ私が優勝して、今までは空き部屋で臨時営業していた『リラクゼーションサロン・イチカ』を常設店にするんです!」
そう意気込んで、会場である広間へと向かった。
◆◆◆
そんなイチカが首を傾げ、
「あれ?」
と疑問の声をあげたのは、高らかな優勝宣言から二時間後のこと。
場所はバーキロット家の大広間、今日はチェス大会の会場でもある。その一角。
テーブルに置かれたチェス盤を凝視し、今度は反対側に首を傾げてみた。
戦況を見るに、自軍はだいぶ不利だ。いや、不利を通り越して敗戦の気配がしている。
むしろ負けの色が濃い。というかこれは負け確定だ。数手前から巻き返しの道は完全に断たれていた。
「こちらの手は完全に読まれてましたね」
しまった、と頭を掻きながらイチカが己の負けを認めれば、チェス盤を挟んだ向かいでラウルが笑った。
今まではバーキロット家と家に関わる者達だけのチェス大会だったが、今回からは外部からの参加可能。元より参加資格を持つ者が、家族や友人を一名招待出来るようになった。
ラウルはロクステンからの招待で参加したという。それを聞き、思わずイチカは「弱い人を呼んでくれれば良いのに」とぼやいた。
強いひとを招待したら己の勝利が遠ざかってしまうではないか。今がまさに。
「イチカは誰を招待したんだ? ゴルダナか?」
「はい。どうしてもと頼まれたので。あとゴルダナ隊長はチェスが弱いので、参加しても私の勝利を脅かさないと思って誘いました!」
「打算的だな。まぁ、事実あいつ弱かったけど」
「なるほど、陛下の一回戦はゴルダナ隊長でしたか」
剣技においては右に出る者のいない騎士だが、チェス盤に置いてはあっさりと打ち倒されたらしい。
見れば早々に負けたゴルダナはそれでも嬉しそうにブランカの試合を眺めている。ブランカの試合相手はユイコだ。彼女もチェス初心者ながらに楽しそうに駒を手にしている。
ここだけを見れば賑やかで健全なチェス大会だ。参加人数が増えたことにより更に賑わっている。
これがまさか開催目的がビッチ討伐で、どろどろした内情が隠され、なおかつ一名別の場所で睡眠薬に呻いているとは思うまい。
……いや、思うまいも何も、みんな知っているはずだ。
なにせ広間に来るためには中庭の前を通らねばならず、ぐったりしたハロルドを見ているはずなのだから。
「まぁどんな思惑があろうと、ハロルド様が呻こうと、既に私の狙いである参加賞は確実ですから良しとしましょう」
「イチカは相変わらずだな。しかし菓子の詰め合わせか。ロクステンが前回よりも豪華にしたと言っていたな」
これは期待できると楽しそうに笑い、ラウルが立ち上がる。
彼は次の試合に行かなければならない。その相手は誰だったかと考え、眉間に皺を寄せた。「ハロルドだ」と呟く声は渋いが、第一回からの王者が相手となれば仕方あるまい。
「陛下はハロルド様とですか。私、今からハロルド様の様子を見に行こうと思ってたんです」
「そうか、ちょうどいい。イチカ、ハロルドにこれを飲ませておいてくれ」
ラウルが上着の懐から小さなガラスビンを取り出した。
見ただけで高価そうなビンだ。飾りのついた蓋まで合わせてもイチカの親指程しかない。受け取って中を覗けば透明な液体が揺れた。
「これは?」
「睡眠薬だ」
「更に念を入れてくる……」
さすがにここまでくるとハロルドが哀れに思えてくる。
イチカは「飲ませませんよ」とビンをラウルに返し、これ以上物騒なことを頼まれる前にと席を立った。




