番外:地獄のチェス大会、再び(1)
イチカがバーキロット家の屋敷内を歩いていると、壁をじっと見つめるハロルドの姿を見つけた。
真剣な表情だ。見目の良い彼の真剣味を帯びた横顔は見惚れるほどに麗しく、これが研究所や研究発表会であったなら様になっただろう。だが自宅の、それも通路のど真ん中で浮かべる表情ではない。
どうしたのかとイチカは問おうとし、そういえば以前にもこんな事があったと思いだした。
「チェス大会ですか?」
イチカが声を掛ければ、ハロルドがこちらを向いて「そうだ」と答えた。
壁に貼られているのは一枚のポスター。書かれているのは今月末に開催されるチェス大会について。
やっぱり、とイチカは心の中で呟いた。思い返せば、以前のチェス大会の時も今と同じように壁のポスターを凝視するハロルドを見つけ、二人並んで話をしたのだ。
……そして、このチェス大会の裏にある思惑も説明された。
「また開催されるんですね。でもこのチェス大会って、ハロルド様のお気楽ハッピーライフを自重させるためのものでしたよね?」
「あぁ。父さんが……、あの父さんが不正に手を染めた悲しき大会だ」
「だから父親を不正に走らせたのはご自分ですって」
イチカが鋭く言及するも、ハロルドはしれっと「そうだっけ?」と誤魔化した。真剣な表情が一転して飄々としたものに代わり、果てにはべぇと小さく舌を出すではないか。
まるで子供のような仕草ではあるが、それでも麗しいのは流石だ。
だがなんにせよ、ハロルドがシラを切ろうとも、以前までのチェス大会はまごうことなく彼の性生活を自重させるためのものだった。
『チェス大会の優勝者にはバーキロット家が何でも希望をかなえる』
という豪華な優勝賞品を掲げつつ、その実、誰が優勝しようともハロルドの自重を希望させるようにと裏工作をしていたのだ。もしもロクステンの思惑通りにいっていたなら、ハロルドももっと早く魅了対策の研究を始めていただろう。
「でも今はハロルド様もちゃんとした生活してるし、魅了の研究も進めてますよね。なにも自重させるような事は無いのに、なんで開催するんでしょう」
「定期的に開催してたから今更やめるわけにもいかないんだろ。俺を自重させるっていう思惑はあったとしても、一応表立っては健全なチェス大会を装ってたわけだし。今やめると俺の自重のためのチェス大会ってバレるしな」
「もはや全員にバレてますけど。それにしても、相変わらず内情はどろどろしたチェス大会ですね」
相変わらずなチェス大会にイチカが肩を竦める。
もっとも、内情はどろどろしていようと今回も参加の意思は変わらない。『なんでも希望を叶える』という優勝賞品は魅力的だし、今回の参加賞も高級店のお菓子詰め合わせなのだ。
「ハロルド様は今回も参加するんですか?」
「もちろんだ。それに今回は俺への妨害工作も無いだろ」
以前までのチェス大会では、ハロルドの優勝を阻止するために彼への妨害工作が行われていた。睡眠薬投与、別室監禁、目隠し、手足拘束……と、その容赦の無さと言ったらない。
前回のチェス大会でその光景を目の当たりにしたイチカは、てっきり拷問でも行われているのかと思ったほど。
だが今回はハロルドの優勝を阻止する理由は無くなった、つまり妨害工作は無し。
「ようやく万全の態勢でチェス大会に出られる!」
晴れ晴れとしたハロルドの言葉に、イチカも頷いて同意を示した。
◆◆◆
「……だと、思ったん、だけ……ど、なぁ……」
というハロルドの声は消え入りそうなほどに虚ろだ。
先日の晴れ晴れとした声色とは大違い、と、彼の向かいに座るイチカは紅茶片手に思った。
場所はバーキロット家の中庭。そこに設けられたテーブルセット。
一時間後に控えたチェス大会開催を待っている最中だ。
「私も今回は妨害工作は無いと思ってました」
そう答えれば、ハロルドから「だろぉ?」という声が返ってくる。随分と間延びした口調だ。
今のハロルドは机にぐったりと突っ伏している。辛うじて返事はしているものの、傍目には寝ていると思われそうな体勢だ。
むしろ彼からしたら眠れるなら寝たいはず。薄れゆく意識をなんとか繋ぎ止めて会話をしている状態である。
「睡眠薬ですか?」
「……そう。朝、早く……おき……母さんと、父さん……が……」
随分と眠そうな途切れ途切れの口調で、ハロルドが今朝方の事を話し始めた。
曰く、今朝ハロルドは普段よりも早く起き、隣で眠るイチカが起きないようにと気を遣いながらそっと寝室を出て行ったという。
そうして準備中のチェス大会会場である広間を眺めていたところ、両親にお茶をしないかと声を掛けられた。
ハロルドがこれに応じないわけがない。彼はバーキロット家の問題児ではあるものの、家族愛に溢れているのだ。
そうして喜んで両親と共にお茶をしたのだが……、
「飲んだ紅茶、食べたクッキー・マフィン・タルト……、すべてに……睡眠薬が入ってた……」
「家族愛を感じさせるお茶会からの落差が凄いですね」
「しかも……意識朦朧としてたら……父さんが口の中に……睡眠薬の原液を……」
「さすがロクステン様、念には念を入れるスタイル」
イチカがロクステンの徹底さを褒めれば、ハロルドから呻き声が上がった。
これは睡眠薬による眠さへの抵抗の呻きか、もしくは両親からの不当な扱いへの呻きか、もしくは婚約者が不当な扱いを受けたと知ってもなお動じないイチカへの不満の呻きか。
どれかは定かではないが、呻き声は一瞬「ぐぅ……」と鼾に変わり、すぐさま起きたのかハロルドの体がガクンと揺れた。
「……あぶない、寝てた。……眠い、眠い……」
眠そうなハロルドの声に、イチカはどうしたものかと肩を竦めた。
「イチカ、ハロルド、ここに居たのか」
と、声が聞こえてきたのはちょうどその時だ。
振り返ればロクステンがこちらに歩いてくる。片手を上げて微笑み、その姿は名家当主の威厳を漂わせ、それでいて父親の穏やかさも纏っている。
実の息子に念入りに睡眠薬を投与した男とは思えない……、そう考えつつも、言及する気も咎める気も起きず、イチカは朝の挨拶を共に彼を歓迎した。




