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18:ジメジメしてゴロゴロ



 雨が続いて湿度が高い。

 暑さこそないが梅雨に似たその気候の不快さに、イチカはうんざりとした気分で溜息を吐いた。

 じっとりとした空気は気分まで重くさせる。異世界であっても不快なものは不快なのだ。


 だけどこっちの世界には……と考え、イチカは一度瞬きをした。

 その瞬間パッと周囲が煌き、じっとりとしていたイチカの周囲に涼し気な風が吹いた。鬱陶しさが拭われ、清涼感に気分も軽くなる。深く息を吸い込めばミントの香りが漂い、なんて心地好いのか。


「……ん?」


 と小さく呟いて顔を上げたのはハロルドだ。

 読んでいた本もそのままに、キョロキョロと周囲を探る。


「イチカ、今なんか魔法を使ったか?」

「気付いたんですか?」


 さすがだとイチカが褒めるも、ハロルドは魔法の正体が分からないと不思議そうにしている。

 そんな彼に、イチカはならばとパチンと一度指を鳴らした。先程の魔法を今度はハロルドに使ったのだ。

 清涼感にハロルドが表情を輝かせ、感嘆の声をあげる。


「凄いなこれ! どうやったんだ?」


 紫色の瞳を輝かせ、ハロルドがグイと身を寄せて尋ねてくる。

 読みかけの本が彼の膝からバサと音たてて落ちたが、それを気にする様子はない。どうやら彼の興味は一瞬にして本から魔法へと移ってしまったようだ。

 まるで玩具を前にした子供のようではないか。その表情に思わずイチカは小さく笑みを零し、先程の魔法の種明かしをした。


 ……といっても、簡素な魔法の組み合わせである。

 同時に扱うため難解ではあるが仕組みは簡単。常人ならば「無茶を言うな」とでも言いかねないが、相手は他でもないハロルドである。

 現に話し終えるや彼は「なるほど」とあっさりと魔法を使いこなしてしまった。そのうえミントよりも柑橘系が好きだと香りを変えてしまう。


「気候に対して魔法を使うってのは考えなかったな」

「確かに、暖かくしたり涼しくしたりって魔法は無いですね。使えば便利なのに」

「暑い時は暑い、寒い時は寒い。昔からそういうものだし、やり過ごすものって考えが根付いてたのかもな」


 気に入ったのかパチンと指を鳴らして魔法を使いながら話すハロルドに、イチカはそういうものなのかと頷いて返した。

 元いた世界にはエアコンというものがあった。他にもストーブだの扇風機だの、床暖房というものもあり、寒暖に対する技術は常に進歩していた。

 対してこちらの世界にそういった便利な物はなく、あっても暖炉程度だ。寒い時には暖炉に火をつけて温まり、暑い時に至っては扇子で己を扇ぐ程度。


 それでやり過ごせる気候だから技術が発達しないのか、もしくは無意識に自然には抗うべきではないと考えているのか。

 どちらにせよ、イチカのこの魔法は斬新なのだという。


「もっと広範囲に使えば部屋全体を涼しく出来るな。継続性もつければ便利になる」


 応用が利くとハロルドが話す。

 それに対してイチカはこの魔法は他言しない方がいいと忠告すれば、彼の紫色の瞳が丸くなった。どうしてだ?と視線で尋ねてくる。

 確かにハロルドの言う通り、この魔法は改良すれば更なる応用が可能だろう。部屋中を、それどころか屋敷中を涼しくすることも出来るかもしれない。まさにエアコンだ。

 ……だけど。


「考えてもみてください。もし私がこんな便利な魔法を使えると騎士隊に知られたら……」

「知られたら?」

「詰め所の天井に貼り付けられます」

「俺ならこの屋敷の柱に括りつけられるな」


 絶対にバレないようにしよう、そう顔を見合わせて誓い合った。




 その翌日も雨は止まず、それどころか雨量は増す一方。

 イチカはうんざりしつつ――それでいて時折はバレないよう魔法で涼しくなりつつ――バーキロット家の屋敷を歩いていた。

 いかに国一番の名家と言っても気候には勝てず、絢爛豪華な屋敷も湿度でじっとりとした空気が満ちている。ブランカを始めとするメイド達は洗濯物が乾かないと頭を悩ませているらしく、ランドリールームは大忙しだと聞いたのを思い出す。

 そんな中、一室からバサッバサッと豪快な音を聞き、イチカは足を止めた。


 ロクステンの執務室だ。

 いったい何かと扉をノックして中を覗けば、上着をバサッバサッと仰ぐロクステンの姿。イチカが目を丸くさせれば、こちらに気付いて苦笑を浮かべて片手を上げた。


「イチカ、そんなところで突っ立ってどうした」

「……どうした、は今のロクステン様の方です」

「言いたいことは分かる。だが事情があってな。とりあえず入ってきなさい」


 ロクステンに促され、イチカが部屋へと入る。

 その間も彼は上着を振っているではないか。質の良い上着だ。見覚えが無いが、新しく仕立てたのだろうか。

 それにしても、ああも豪快に振る理由が分からない。イチカがじっと見つめていれば、その視線に気付いたのかロクステンが参ったと言いたげに肩を竦めた。……上着を振るのは止めないが。


「ロクステン様、いったい何をしているんですか?」

「乾かないんだ」

「乾かない?」

「このあと殿下と会議に出るんだ。他国の外交官も交えての重要な会議でな、そのために上着を新調したんだが……」

「なるほど、この雨続きで乾かないんですね」


 なるほど、とイチカが頷く。

 曰く、あと一時間程度で出発らしいのだが、上着はいまだ濡れた状態で袖を通すことも出来ないのだという。試しにとイチカが触ってみれば、確かにじっとりと濡れている。

 これはいくら振ったところで一時間では乾かないだろう。


「ロクステン様、私に任せてください!」

「イチカ、何か出来るのか?」

「えぇ、これがあれば……」


 言いかけ、イチカが何もない空間に手を添えた。

 指先に意識をやれば、ピリと電気のような刺激が走り……、


 そして、巨大な剣が何も無いはずの空間からゆっくりと現れた。


 イチカの手の平に柄が触れる。まるで主を求めて剣自らが擦り寄っているようではないか。

 これが魔剣。かつてイチカが世界を救う際に用いた、この世界に二つとない剣。

 その全貌が露わになれば、役目を終えた今なお衰えぬ威圧感に気圧されロクステンが表情を強張らせた。


「イ、イチカ……魔剣を出してどうするんだ……」

「これをどこかに……。この机が良いですね、まず魔剣を机に立てかけます」

「立てかけてどうするんだ?」

「上着を引っかけます。そうすると……」

「そうすると……?」


「三十分くらいで乾きます!」


 ドヤァ! とイチカが胸を張って宣言する。

 ……が、その後に続く者はなく、シンと嫌な空気が数十秒ほど流れた。その間に魔剣に引っ掛けた上着の裾がひらひらと揺れるのは乾燥中だからである。


 そんな何とも言えない沈黙を破ったのは、顎に蓄えた髭を撫でて心を落ち着かせようとするロクステンの溜息。

「そう、か……」という声は僅かに震えており、動揺が伺える。

 いったいどうしたのかとイチカが彼の顔を覗き込めば、何故か光を失った瞳で見つめ返してきた。「ありがとう」と感謝の言葉と共に頭を撫でてくれるが、どことなく生気が失われている。


「ロクステン様?」

「いや、いいんだ……イチカは私の事を思ってやってくれているんだからな。……そうか、魔剣で乾燥か……。便利だな……」

「あ、でもメイド達には絶対に話さないでくださいね。これが知られたら、雨が続いている間はランドリールームの天井に貼り付けにされちゃうんで」

「お前はうちのランドリールームを何だと思ってるんだ」


 盛大にロクステンが溜息を吐く。

 だがすぐさま扉へと向き直ったのは、バタバタと足音が聞こえてきたからだ。それが扉の前まで来るやノックの音が響く。

 急かすようなその音にロクステンが返事をすれば、待ってましたと言わんばかりの勢いで扉が開いた。


「なにかとてつもない魔力を感じた!」


 威勢の良い声と共に入ってきたのはハロルドだ。

 紫色の瞳をこれでもかと輝かせ、室内に入ると真っ直ぐに魔剣へと駆け寄ってきた。

 魔法に関する研究には人一倍どころではない熱意を抱く彼にとって、魔剣は何より興味を引くもの。イチカも今まで何度も魔剣を出させられ、研究につきあわされている。


「イチカ、今なにやってるんだ? 上に掛かってるのは父さんの上着か?」

「今の魔剣は乾燥モードです」

「なるほど、乾かしてるのか。よし、イチカが離れたら効果は落ちるのか試そう。それに上着をもっと濡らして乾燥の威力と、吸水した場合の排出先を」

「ハロルド様、今はロクステン様の上着を乾かすのが先ですよ」


 イチカが制止すれば、興奮していたハロルドがはたと我に返った。

 次いで上着に視線をやり「会議用か」と呟くと、ロクステンの上着にそっと手を添えた。魔法を使うのだ。

 その瞬間にロクステンが身構えたのは、魔剣とハロルドの魔力の接触となれば相当な事が起こると考えたからだろう。

 だが実際は魔剣にかけられた上着がふわりと揺れるだけで、めぼしい変化はない。無いなら無いで驚いたのか、ロクステンが目を丸くさせる。

 その反応とは真逆に、イチカは冷静かつ感心したと言いたげに頷いた。己の魔法にどんな介入をされたかは直ぐに分かる。


「おしゃれ着ソフト乾燥ですか」

「あぁ、金の糸は他の糸に比べて解れやすいし、ボタンも痛みやすい材質だからな」

「柔らかな仕上がりにするわけですね」

「でも上着だからな、多少パリッとした硬さは残したいところだ」


 真剣な表情で話し合えば、ロクステンが「おしゃれ着ソフト乾燥……」と呟いた。

 その口調は先程よりいっそう悲壮感を増しており、ついには額を押さえて肩を落としているではないか。

 失礼な、とイチカが不満を抱くも、呆れられる事に慣れているハロルドは気にする様子無く、それどころか「せっかくだから薔薇の香りをさせよう」とパチンと指を鳴らした。

 ふわりと室内に薔薇の香りが漂う。


「そうか、薔薇の香りか……。私のような中年が纏って良いものかは定かではないが……ありがとうな、ハロルド……」

「気にするなって。……あ、でも父さん、このおしゃれ着ソフト乾燥の事はくれぐれもメイド達に話さないでくれよ、もしバレたらランドリールームの天井に張り付けられる」

「お前達は何だってそんなにランドリールームを怖がるんだ」


 呆れを込めてロクステンが溜息を吐けば、ふわりと薔薇の香りが漂った。




 ロクステンが出発する頃には雨は一段と酷くなり、大粒の雨が窓を叩く音が会話に支障をきたすほどになっていた。その後もいっこうに止む気配はなく、それどころか酷くなる一方で遠くで雷鳴まで鳴り出す始末。

 といっても国一番の名家バーキロット家の屋敷だ、雨漏りなんてことはあり得ない。

 雷が酷かろうがゆっくりと身構えていればいいだけ……なのだが、イチカはどうにも落ち着かずにいた。

 就寝前のチェスにも今一つ集中出来ず、一つ駒を弾かれても焦りすらわかない。心ここにあらずだ。

 ちなみに向かいに座るハロルドも本を読みつつといった具合だが、こちらは余裕からくるものである。


「せっかく乾かして薔薇の香りまでつけてやったのに、父さん出かける直前まで微妙な顔してたよな。挙句に『魔力の無駄遣い』なんて失礼だろ」

「……そうですね」

「そりゃ俺の魔力もイチカの魔剣も世界規模で重要だけど、お洒落着ソフト乾燥だって重要だよな」

「……はい、そう思います」

「でもランドリールームのメイド達が『あんなに早く乾くわけがない』って探ってたな……。見つかったらランドリールームで乾燥機人生だ」


 あれこれと話すハロルドに対して、イチカはいまだ心ここにあらず。

 それどころかハロルドの駒に己のキングをコツンと弾かれても、今度は自分の番だとチェス盤に手を伸ばした。既に勝敗は着いて居るというのに。

 というより、何手も前から勝敗は決まっていたのだが、それすらも気付かずにいた。


 見兼ねたハロルドに「イチカ、終わってるぞ」と言われてようやく我にかえれば、溜息交じりの彼が窓へと視線を向けた。

 大粒の雨が窓を叩き、雷鳴も聞こえる。


「夜中がピークだろうな。ところでイチカ、どうにか隠し通したいようだが、バレバレだからな」

「……何がでしょうか」

「そもそも、ナルディーニ夫妻から『イチカは雷が怖いから、雷の夜は誰かイチカを抱きしめて寝てあげて』って言われてるんだ」


 あっさりと告げるハロルドの言葉に、イチカが思わず頭を抱えた。

 この年で雷が怖い、それも誰かに抱き締めてもらわないと眠れない……などと恥じでしかない。


「お父さん、お母さん……なんでよりにもよってハロルド様に……」

「いや、俺だけじゃなくてバーキロット家中に言ってきた」

「お父さーん! お母さーん!!」


 娘のプライドがー! とイチカが悲鳴をあげる。

 周囲に悟られまいと必死に冷静を取り繕っていたが、両親によって既に暴露されていたと考えると泣けてくる。

 盛大に肩を落とせば、チェス盤を片していたハロルドが「大袈裟だな」と笑った。


「誰だって怖いものの一つや二つあるだろ」

「そうですけど、誰かに抱き締めて貰わないと眠れないなんて迷惑じゃないですか」

「迷惑? 誰も迷惑なんて思ってないさ」


 ハロルドが穏やかに笑う。

 その表情には嘘をついているような色はなく、気落ちするイチカを想って心からの発言だと分かる。普段見せる妖艶な笑みとは違う、暖かく柔らかな微笑みだ。

 細められる紫色の瞳に、イチカの胸が落ち着きを取り戻し、ほっと安堵すると共にハロルドの名を呼んだ。


「……ハロルド様」

「それに、この話を聞いた時、イチカは誰を頼るかでバーキロット家中が三時間かけて言い争いになったからな!」


 ドヤァっと何故か得意気に語るハロルドに、彼の優しさに安堵していたイチカの胸がスゥッと音をたてて冷え付いた。


「三時間ですか」

「あぁ、それはそれは熱く激しい争いだった……」



 曰く、ロクステンは


『この中でイチカと初めて出会ったのは私だ。今では父のように慕ってくれている。頼るなら私に決まっている』


 と主張し、これに対し彼の息子達が反論する。

 中でもクリストフは、


『ですが父上、イチカは私を兄のように思ってくれています。気後れすることなく頼るなら私でしょう』


 と己こそがと名乗りをあげる。

 だがそれを彼の母でありバーキロット家夫人が制止した。


『男二人が何を言ってるのかしら。イチカはたとえ家族のように慕っていても、みだりに異性のベッドに入るような娘ではありません。つまりイチカが頼るのは同性、母のように慕う私です』


 高らかな夫人のこの宣言に、男達が反論出来ずに言葉をのみこむ。

 だがそこに待ったが掛かった。

 ブランカだ。

 普段ならば主人の話に反論などするはずのないこのメイドは、それでも今だけは引けぬと決意を宿した瞳で夫人を見つめた。


『失礼ですが奥様、イチカ様は私達メイドにも親しく接してくださっています。メイド故に気兼ねしない関係、だからこそ頼ってくださるのではと考えています』


 自分達メイドこそ、中でも親しく接している自分こそがとブランカが訴える。

 確かに説得力のある話だ。

 だがこのブランカの訴えを鼻で笑う者がいた。

 ……そう、ハロルドだ。

 今までのやりとりがまるで茶番だとでも言いたげな余裕の表情を浮かべ、皆の視線を集めるとわざとらしく銀の髪を掻き上げた。


『いいか、イチカは雷が怖いとはいえ魔剣士だ。この世界において最強ともいえる。そんなイチカが頼るとなれば、それ相応の相手に決まってる。この中でイチカと対等な強さは誰か……考えるまでもない』


 余裕の表情でハロルドが告げる。異例の強さを見せる魔剣士イチカに並ぶのは、これまた異例の魔力を要するハロルドである。

 誰もがそれを理解しており言葉に詰まる……が、ここで「しかし」とロクステンが声をあげた。


『こういう時に求めるのは強さだけではない。信頼や包容力だ。ハロルド、お前はそういった点で私より勝るというのか?』

『……ぐぬぬ』


 ハロルドが痛いところを突かれたと呻けば、再び自分こそがと他所から声があがった。




「……というやりとりを三時間続けてた」

「暇だったんですか?」

「暇なもんか。みんな多忙を極める中での討論だったんだぞ。でも結論が出なくて、決着は雷の夜に……ってことになった」


 話し終え、ハロルドが「さて」と立ち上がった。そのままベッドへと向かい、己の領地に横になるとバサリと布団を捲る。

 勝利を確信し、「おいで」とでも言いそうな笑みだ。紫色の瞳はじっとイチカを見据え、弧を描いた唇が蠱惑的に誘う。伸ばされた腕はしなやかでいて男らしい。

 もこもこのパジャマを着ていてもこの魅力、さすがである。この誘いに勝てる者はそう居ないだろう。

 だがイチカは溜息一つで一蹴すると、続くようにベッドへと向かった。もちろんハロルドの腕の中には入らず、自分の領地で横になる。


「今夜ぐらい大人しく抱きしめられとけよ」

「お断りです。ハロルド様に抱き締められてたら、何をされるか分かったもんじゃない。それなら他の人のところにっ……!」


 言いかけ、イチカが強引に引き寄せられて言葉を飲み込んだ。

 一瞬にして視界がもこもこパジャマの布で覆われ、窮屈とさえ言えるほどに体を強く抱きしめられる。

 突然なにをするのかと文句を言おうとし……地割れのような雷鳴に、出掛けた言葉を小さな悲鳴にかえた。咄嗟に身を強張らせれば、背中に回されたハロルドの腕がより強く抱きしめてくる。


「……ハ、ハロルド様」

「おぉ、今のでかかったな」

「あの、腕を……あ、あの……」

「あ、また光った」


 くるな、とハロルドが小さく呟く。

 次の瞬間には轟音とさえ言える雷鳴が響き、イチカは彼のパジャマの布を強く握りしめた。

 心臓が早鐘を打つ。大丈夫だと、離してくれと、そう告げて彼の腕から抜け出さなければと考えつつ、体はまったく動いてくれない。


「……ハロルド様、あの、もう、大丈夫です」

「どこがだ。いいから大人しくこのまま寝ろって」

「でも……」

「はいはい、話は明日聞くから。おやすみ」


 イチカの話を遮り、ハロルドが就寝の挨拶を告げてくる。

 その声色には誘うような色気はなく、普段雑談を交わすときのものだ。異性を腕の中に抱いている男の声とは思えない。


 ……信じても良いのだろうか。


 チラとイチカが見上げれば、ハロルドは既に目を閉じて眠ろうとしている。蠱惑的な紫色の瞳は長い睫毛に隠されている。こちらを見つめる事も、誘うことも無い。

 それを確認し、イチカはもぞと彼の腕の中で身じろいだ。寝心地を直して彼の胸元に身を寄せれば、ようやく大人しくなったとでも言いたいのか頭上から小さく笑う声が聞こえてきた。

 おまけに、ポンポンと背中を叩いてくるではないか。

 まるで子供扱いされているようで、なんとも居心地が悪い。


「変な事したら、直ぐに魔剣を出しますからね」

「変な事したら魔剣だしてくれるのか!」

「しまった逆効果か……。逆です、変な事したらこれから一生魔剣を出しませんし、血の一滴たりとて渡しません」

「それは困る。ならやっぱり大人しく寝るしかないな」


 楽し気にハロルドが笑う。

 そうして再び告げられる「おやすみ」という言葉は低く落ち着いており、イチカの中に微睡みに似た睡魔が生まれ始めた。




 真夜中を過ぎ、ゆっくりと窓の外が明るくなっていく。

 穏やかな寝息が続く部屋の中、イチカはふと目を覚ました。といっても意識はうつろで、夢現といった状態だ。一呼吸して目を瞑ればすぐにでも夢の中へと戻っていくだろう。


「……雷」


 イチカがポツリと呟き、ハロルドの腕の中で身じろいで窓を見た。

 雷はとうに去ったようで、数時間前が嘘のようではないか。あれほど強く叩いていた雨粒も今は弱々しく窓を伝っている。雨音も図分と弱まり、耳を澄ましてようやくしとしとと静かな音が聞こえてくる程度だ。

 これならば数時間後には快晴の空を仰げるだろう。

 イチカが安堵の息を吐けば、それに気付いたのかハロルドが「んぅ……」と小さく唸った。


「……イチカ……大丈夫か?」

「ハロルド様、もう大丈夫ですよ」

「……そうか、よかった」


 穏やかにハロルドが笑う。

 眠たそうに目を薄っすらと開けば、色濃い瞳が覗き……。


「……あれ」


 イチカが違和感を覚えて小さく声をあげた。

 ハロルドの瞳が紫ではなく赤く見えたのだ。薄暗いこの部屋の中でも、はっきりと分かるほどの赤。

 だが確認するより先に、ハロルドは目を閉じて再び眠りについてしまった。形の良い唇から寝息が漏れる。


「見間違いかな……?」


 自分も寝惚けていたのかもしれない、そう考えて、イチカはハロルドの腕の中で深く息を吐いた。彼の腕は離れそうにないので、ひとまず大人しく寝るほかない。

 一度寝て、朝になったら確認すれば良い。今日のお礼として明日は一日研究に付き合ってあげよう、魔剣も出して。彼の瞳の色を確認するチャンスは一日中ある。

 そんなことを考えつつ、イチカは緩やかな雨音を聞きながら眠りについた。



 翌朝、頭から膝までの巨大な麻袋を被ったハロルドの姿を見て、疑問も感謝の気持ちも一瞬にして吹っ飛ぶ事になるのだが、この時はまだ知る由もない。




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