17:やたらと過保護な保護者達
「ハロルド様が殴られた?」
そうイチカがバーキロット家の玄関口で首を傾げたのは、長閑な日中にゴルダナが駆けつけてきたからだ。
曰く、とある食堂で騒ぎになり、酔った男にハロルドが殴られたのだという。負傷しているため一人で帰すわけにもいかず、バーキロット家の者を呼びに来たらしい。
それを聞いて、イチカが困ったと頭を掻いた。
あいにくとバーキロット家の者達は本日多忙で、今屋敷に居るのはクリストフだけだ。
彼とは先程までチェスをしていたが、あと少ししたら来客があると言っていた。ハロルドを迎えに行く時間はないだろう。
他に誰か……とイチカが考えを巡らせ、次いで自分を指さした。
「それ、私でも構いませんか?」
「イチカ、来てくれるか?」
「えぇ、今日は特に予定も無いし、この後はフェイスマッサージの勉強を……。いえ、なんでもありません」
「まだお前は転職を諦めてないのか!」
「職業選択の自由! 職業選択の自由!」
イチカが必死に訴えるも、ゴルダナは眉間に皺を寄せるだけだ。
そんなやりとりを続けていると、「イチカ、どうしたんだ?」とクリストフが現れた。
事情を説明すればクリストフが困ったと溜息を吐く。――ちなみに説明の最中に二度ほど「本当にハロルドが原因じゃないんだな?」と念を押し、そして最終的には「でも結局は迷惑をかけてる」と謝った。ハロルド関係に関して、クリストフは謝り癖がついている――
「それでイチカが迎えに行ってくれるのか。すまないな」
「いいえ。お礼はさっきのチェスの続きで勝ちを譲ってくれればいいですよ」
「あの状況からか……。改めて勝負を始めて、そこで勝ちを譲るんじゃ駄目かな? あの状況から負けるのは、さすがに私でも難しい」
「そんなに逆転不可能でした!?」
そんな惨状だったかとイチカが慌ててチェスをしていた部屋に戻ろうとし……、
「さぁ行くぞ、イチカ」
と、ゴルダナに首根っこを掴まれた。
そのままずるずると馬車まで連れていかれる。なんとも強引ではないか。
そのうえ無理やり放り込むように馬車に押し込まれてしまった。
「ゴルダナ隊長、今の私は貴方の部下である騎士のイチカではなく、ナルディーニ家の令嬢かつハロルド・バーキロットの婚約者のイチカですよ。つまりこれは不当な扱い、無礼にあたります」
「はいはい、そうだな。……と、ところでイチカ」
「ブランカは今日は休みで、メイド仲間と買い物にいっています。残念ながら見送りはありませんよ」
「よし、出発」
ゴルダナの一言で馬車が動き出す。
イチカが肩を竦めつつ窓を覗けば、クリストフが穏やかに笑って手を振っているのが見えた。
ゴルダナに連れられて向かったのは、王宮の一室。
イチカが入れば中にはハロルドと数人の騎士が居た。ハロルドは氷嚢を右目にあてており、見るからに不機嫌なのが分かる。
騎士達はゴルダナに対して一度頭を下げ、イチカに対しては「非番なのにご苦労さん」と簡素な挨拶を告げてきた。
「ハロルド様、大丈夫ですか?」
イチカが声を掛ければ、ハロルドが目元に当てていた氷嚢を外して見せてきた。
目を瞑っているのは痛むからだろうか。目尻の周りがうっすらと青くなっている。殴られて直後にこれと言うのなら、更に腫れるだろう。
……だけど。
「治療魔法はかけないんですか?」
「証拠のためにとっておけって」
「なるほど」
納得とイチカが頷けば、ハロルドの眉間の皺が更に深くなる。
元より麗しい彼の不機嫌な表情は、普段とは違った魅力がある。……が、今はその魅力より労りの気持ちが勝る。
今回の件について、ハロルドは完璧に被害者なのだ。
「飯食ってだだけなのに絡まれて殴られるし、父さんが来るまで治癒魔法は使えないし……」
「ハロルド様……」
「それにここにいる騎士達は全員既婚者と恋人持ちときた。最悪だ!」
「なんてお労し……なにさらっと騎士を食べようとしてるんですか!」
隙あらば精神のハロルドの貪欲さと言ったら無い。
まったくと彼を咎めつつ、同時にこの配備を考えたゴルダナに拍手を贈る。
『ハロルドはどんな時でも隙あらば騎士をペロッと食べる』という信頼の無さと、『最低限の常識としてハロルドは既婚恋人持ちには手を出さないという』という信頼が合わさったうえでの名采配だ。
そうしてゴルダナを讃え、改めてハロルドに向き直った。
「そもそも、絡まれて殴られたって、どうしてそんな事になったんですか?」
「研究所の昼休憩で、気晴らしがてら外の食堂で飯食ってたんだ。そうしたら……」
食事を終えたハロルドが店を出ようとしたところ、三人の男が声を掛けてきたという。
「ヤらせろ」と。なんとも品の無い誘い方ではないか。それもハロルドの腕を掴んで、有無を言わさぬ乱暴さで連れて行こうとした。
これには流石のハロルドも拒否をしたという。男も女も誰であれ好意的に接する彼が嫌悪感を露骨にするあたり、きっと男達の粗暴はそれほどだったのだろう。
「無理やりって言うのも確かに燃えるが、それは双方の合意があっての事だろ。一方的なのはただの暴力。そんな奴には応じる気にはならない。というか俺は早く戻って研究がしたかった!」
「それで、断ったらガツンと」
「そう。すぐに食堂の他の客たちが押さえつけてくれたけど、最初の一発はまともに喰らっちまった」
ハロルドが不服そうに話す。きっとその一発が目元なのだろう。
いかに魔力が凄かろうが魔法が便利だろうが、咄嗟の攻防は当人の反射神経によるものである。片腕を掴まれて殴られれば、魔力に特化したハロルドでは碌に抵抗できなかっただろう。
「普通なら断っても相手はあっさり引いてくれるはずなのに……。おかしいな……」
「その三人はどこに居るんですか?」
「別室で取り調べ中だ。かなり酒が入ってたみたいだから酔いが覚めてからになるだろうな」
「身元は?」
「お隣さん」
あっさりとハロルドが答える。
「お隣さん」とは隣国の事だろう。ゴルダナが渋い表情をしているのは、これが国家間の問題になりかねないと考えているからか。
なにせハロルドは名家バーキロット家の三男、それも魔力と研究に関しては世界で右に出る者は居ないほど。性格こそ問題児だが素質は国宝級なのだ。
そんな彼の機嫌を損ねればどうなるか……。
危惧するゴルダナの胸中を知ってか知らずか、ハロルドが不満そうな表情で隣国との共同研究から手を引くと言い出している。これだけでも隣国にはかなりの損失で、そして自国内でも大騒ぎになりかねない。
「……一人ぐらい独身の騎士をつけておくべきだったか」
「ゴルダナ隊長、部下を犠牲にハロルド様のご機嫌取りしないでください」
イチカが咎めれば、ゴルダナが渋い表情で「でもなぁ」と呟く。
それを聞き、ハロルドがニヤリと笑みを浮かべた。
「来月入隊してくる左利きの背の高い騎士を差し出すなら、研究に関しては不問としてやろう」
「やだもうこの人さっそく……待ってください、誰ですかそれ!? なんで騎士の私より先に新人の情報を!?」
ハロルドの情報収集の早さにイチカが驚愕の声をあげる。
対して氷嚢を目元に当てながらのハロルドの得意げな表情と言ったら無い。
そんな会話の最中、コンコンとノックの音が室内に響いた。
騎士がロクステンの到着を告げてくる。それとラウルも。
二人の到着を聞いて騎士達が背筋を正し、室内に緊張の空気が漂う。
イチカからしてみればロクステンは父のような存在で――父のような、どころか義父になろうとしているのだか――、ラウルもまた緊張して迎える人物ではない。
だが実際にはロクステンは国一番の大家当主であり、ラウルに至っては国の頂点に立つ人物である。一介の騎士が緊張するのも仕方ない。
だが今のこの室内は、それ以上の緊張が漂っているような……。
そうイチカが疑問を抱きつつ首を傾げれば、ゴルダナが「今回は特別だ」と告げてきた。
心なしか、彼までも緊張しているように見える。
「特別って、何かあるんですか?」
「……そのうち分かる」
「そのうち?」
いったい何が分かるというのか。
だがそれを聞くより先に、ロクステンとラウルが部屋に入ってきた。
その立場ゆえに走ってとはいかないだろうが、少し息があがっていることから足早に来たことが分かる。
「ハロルド、大丈夫だったか!?」
「父さんわざわざ悪いな。治癒魔法使えれば大丈夫になる」
「あぁ、これは手酷くやられたな……」
ロクステンが痛々し気な声をあげる。
まるで自身が怪我をしたかのような声色ではないか。だが親からしてみれば、子の怪我というのは自身の怪我よりも痛いものなのだろう。
「ゴルダナ、父さんと陛下が確認したんだからもう治して良いよな」
「はい、お二人の証言があれば十分です」
ゴルダナの返事とほぼ同時に、ハロルドが自分の目元に手を添えて治癒魔法をかける。
一瞬にして腫れが引き、涼しげで麗しい目元に戻る。その手腕に数人の騎士がさすがだと呟いた。
「父さん、うちの馬車で来たんだよな。乗って帰っていい?」
「あぁ。だが家に戻ったら今日一日は安静にしていなさい」
「はいはい。イチカ、お前も帰るだろ」
ハロルドに促され、イチカも立ち上がる。
もとより彼の迎えのために来たのだ。それに、この後の手続きだの何だのはロクステンとラウルに任せた方が良いだろう。
「イチカ、帰ってからハロルドが大人しく過ごすよう見張っててくれ」
「随分と心配しますね」
「イチカ、俺からも頼む」
「陛下まで」
二人から念を押すように頼まれ、イチカが気圧されるようにコクコクと頷いた。
たとえばこれが子供ならば心配するのも分かるが、ハロルドは立派な成人男性だ。確かに野放しにするとビッ活に励む困った性格だが、父がこれほど自分を案じているのだから、さすがに今日ぐらいは大人しくするだろう。
貞操観念がホバリングしている彼だが、そういった点で人の気持ちを裏切るような事はしない。
とりわけ、相手が父であるロクステンなら尚更。迷惑こそかけているが、ハロルドは家族想いなのだ。
これは過保護すぎやしないだろうか。
だが今それを指摘することもないかと、イチカがゴルダナ達に別れを告げ、部屋を出て行った。
その間際、扉を閉める直前……。
「それで、ハロルドを殴ったのはどこのどいつだ」
「身元、出自、所属、全て洗いざらい吐かせろ」
という、ロクステンとラウルの冷ややかな声を聞いた。
扉の隙間から洩れる空気は重苦しく、先程いた部屋と同じものかと疑いたくなるほどだ。
ぎょっとしてイチカが振り返れば、ハロルドが「行くぞ」とさっさと歩き出してしまった。慌てて後を追うも、どうしても部屋が気になってしまう。
「……なんか、ロクステン様とラウル様の声がいつもと違ってましたけど」
「そりゃ、他の奴らのいざこざならまだしも、殴られたのは俺だし。そのうえ顔を殴られて倒れる時に頭も打った。父さん達が本気になるのも当然だろ」
「頭部と顔ってハロルド様の唯一の長所ですもんね」
「イチカ、帰ったらチェスしよう」
「チェス盤上で惨殺される予感!」
思わずイチカが悲鳴をあげれば、ハロルドが蠱惑的な笑みを浮かべつつ「今日一日安静だもんな」と笑った。これはつまり『一日大人しくしていてやるからチェス盤上で惨殺されろ』という事だ。
なんて恐ろしい。目元の腫れはすっかり引いており、その笑みのあくどさと言ったら無い。
そうして馬車に乗り込み、バーキロット家へと向かって出発する。
改めてイチカが「それで」と説明を求めれば、ハロルドが肩を竦めた。
「俺の魔力と研究については知ってるだろ。自分で言うのもなんだが、魔力量も知識も世界一、とりわけ知識が詰まっているのは頭だ」
「なるほど、ハロルド様自身が国宝級、それも何より大事な頭……」
「そういうこと。俺を傷つけるって事は、国を敵に回したって事だ。父さんと陛下が出てくるのも当然だろ」
誇らしげにハロルドが頷く。
「それに、断った時にあっさり引いて『いつまでも待ってる』なんて熱いこと言ってくれりゃ、俺は用事済ませて喜んで会いに行くし」
「それなのに、無理強いのはてに殴りまでした……。隣の国ならハロルド様の事を知らないわけがないし、そんなに酔ってたんですかね?」
「そうだな。……もしくは」
ハロルドが何かを言いかけ口を噤んだ。
どうしたのかとイチカが様子を窺えば、考え込むような真剣みをおびた表情をしている。
彼の指先がそっと己の左目の目元を撫でる。
話しているうちに殴られた感触を思い出したのか……だが、殴られたのは右目ではなかっただろうか。
「ハロルド様?」
「いや、何でもない。そういや、家にはクリストフ兄さんがいるんだよな」
「えぇ、ハロルド様を迎えに行く代わりに、チェスで勝たせてもらう約束をしてます」
「酷いなイチカ、俺を売るのか?」
「勝利のためならば!」
イチカが堂々と答えれば、ハロルドが楽し気に笑う。
そうして馬車がバーキロット家に到着すれば、メイドが迎えに出てきた。開口一番にハロルドを案じ、そしてクリストフからの伝言を伝えてきた。
まだ来客の対応中だが、心配なので顔を出してほしい……と。
これまた過保護な話ではないか。
「兄さんも心配性だよな」
「ハロルド様は優しい家族に感謝すべきですね。それに、自分の魔力と才能にも」
「俺が俺に?」
「そうですよ。もしも平凡な魔力と知識で強力な後ろ盾も無しなんて状態で、今と同じふわふわ貞操観念だったら悲惨ですよ」
環境と己の才能に守られているからこそのお気楽ビッチライフ。
そうイチカが訴えれば、ハロルドが紫色の瞳をきょとんと丸くさせた。意外なことを言われたとでも言いたげな表情だ。
次いで紫色の瞳を細めて笑った。……いつもとは違った笑みだ。
「そうだな、だけど平凡な魔力だったら……」
「ハロルド様?」
「いや、なんでもない。兄さんに顔見せて、さっさとチェス始めようぜ」
途端に普段の表情に戻り、ハロルドが屋敷へと入っていく。
その後ろ姿をイチカは首を傾げて見つめ、「早く来いよ」と急かされてようやく彼を追いかけた。




