15:たまには役立つご令息1
こちらの世界には、イチカが元いた日本のような季節の移り変わりは無い。
それでも雨が多くなったり肌寒い日が続いたり、木々や花が色を点けたりと多少の変化はある。
そんな中、カレンダーを眺めていたハロルドが「そろそろ初物の季節か……」と呟いたのを聞いて、チェス盤を睨んでいたイチカが顔を上げた。
初物の季節、とは何のことだろうか。
今はなにか美味しいものがあっただろうか……?
と考えを巡らせる。――けして惨敗の気配を見せ始めるチェス盤からの逃避ではない――
「ハロルド様、今って何が美味しいんですか?」
「美味しい? なんの話だ?」
「さっき初物の季節って言ってたじゃないですか」
その事だと告げ、イチカが己の駒を一つ動かす。
それを受けてハロルドが「あぁ、その事か」と答えつつ自分もと駒に手を伸ばした。彼の手が白のナイトに伸びる。――イチカが小さく息を呑み「逃げて!」と己の駒に撤退を促した。意味など無いのだが――
「初物ってのは別に食べ物の事じゃない。まぁ、食べるには食べるんだけど」
「食べるのに食べ物じゃない? どういう意味ですか?」
「いいか、俺が言う初物ってのは……」
ハロルドの持つ白いナイトが、黒のクイーンにゆっくりと迫る。
そうしてカチンと弾くと共に告げられた、
「俺の言う初物ってのは、処女と童貞のことだ」
という言葉に、イチカは二重の意味で眉間に皺を寄せた。
この世界での結婚適齢期は早く、そして社交界デビューも早い。
二十歳になってようやく成人と見なされ社会に出る、というイチカの以前の考えは早々に打ち砕かれてしまった。
中には社交界デビューより前に、それどころかまだ年齢が一桁の時点で婚約者を決められている者も少なくない。
そしてそんな若者達は、結婚の日まで節操を守った清らかな生活を送る……とは限らない。いや、もちろん清らかな生活を守る者が殆どだろうが、例外も居る。
「マールズ……」
とハロルドが記憶を引っ繰り返すようにとある人物の名を呟いたのを、イチカは彼の隣で聞いていた。向かいに座るのは赤毛の夫人。彼女は居心地の悪そうな表情で瞳を伏せ、それでもハロルドの続く言葉を待っている。
先程の初物発言のあと、ハロルドに来客がきているととブランカが呼びに来たのだ。――「もう少し早く呼びに来ても良かったのに……」とは、惨敗の跡地を片すイチカのぼやき――
ブランカ曰くその来客はイチカの同席も望んでいるらしく、ならばと二人で客室を訪れて今に至る。
「思い出した。夫人に似た赤毛で、瞳は父親似のダークブラウン。趣味は狩猟で身長が高めの男だ」
「その通りです。さすがハロルド様」
恭しく夫人が頭を下げる。彼女は件の青年マールズの母親であり、彼女の動きに合わせて赤毛がふわりと揺れる。
生憎とイチカはマールズについては思い出せないが、夫人の身形や二人の話を聞くに、そこそこの家柄だという事は分かる。
だがそれが分かっても、夫人の訪問理由が分からない。
バーキロット家への用事であればロクステンやクリストフを通すだろうし、かといって夫人やマールズとハロルドの間に個人的な関係も無さそうだ。畏まった空気から、楽しい話では無いのも分かる。
魔力や研究に関してだろうか? たとえば息子マールズの魔力量があまりに低いとか……?
だがそれだって普通ならば研究所を通すはずだ。
そんな疑問をイチカが抱いて居ると、夫人が「息子は……」と呟くように話し出した。
「息子は数日後に社交界デビューを控えています。ですがなにぶん、やんちゃな性格で……」
「あぁ、確かにちょっと危うい気はするな」
「お恥ずかしい話です。どうかハロルド様に導いて頂ければと思いまして……」
「よし分かった」
夫人の話も半ばに、ハロルドが任せろと頷いて返す。それを受け、夫人が安堵したように息を吐いた。
そうして深々と頭を下げ、念を押すようにハロルドに頼み込み、そしてイチカにまで頭を下げると手元に置いてあった荷物を取ると立ち上がった。
どうやら話はこれで終いらしく、夫人からは早々に立ち去りたいという無言のオーラが漂っている。
用件が終わったら少し談笑……なんて空気は欠片もない。むしろ気まずさすら感じさせる。
イチカは最初から最後までさっぱり分からないが、それでも夫人が退室するなら見送ろうと立ちあがった。
だがまるでそれを遮るように、軽いノックの音が室内に響いた。
「お話の最中、申し訳ありません」
「ブランカ、どうした?」
「ハロルド様にお客様です」
「……そうか、通してくれ。それと他のメイドに夫人の見送りを。くれぐれも来客と鉢合わせしないように」
「畏まりました」
ややこしい指示を出すハロルドに、ブランカが頭を下げる。
いったい何事かとか、どんな理由があるのかとか、そういった事を一切聞きもしない。むしろ疑問にすら思っていない様子だ。
まるで何度も繰り返したとさえ感じさせる二人のやりとりに、イチカは更にわけが分からないと頭上に疑問符を浮かべるしかない。
ハロルドの来客は誰なのか、どうして夫人と鉢合わせしてはいけないのか、なぜ夫人は気まずそうに顔を背けて聞かなかった体を装っているのか……。
それと、
「……私はどうしましょう?」
「イチカは俺の隣に座ってろ」
ほら、とハロルドがポンと己の隣を叩いて促してくる。
どうやら今回も同席を求められているようで、イチカもならばとそれに従って座り直した。
入れ替わるように来客室に案内されたのは、これまた貴族の夫人。
彼女は自分の娘であるヘレナの名を口にすると、控えめな性格でと溜息を吐いた。
ヘレナは去年社交界デビューを果たした年若い令嬢だ。
何事も消極的で、家で静かに本を読むのが趣味。どのパーティーでも輪の外で眺めているような性格である。友人ばかりの茶会に招かれても、終始聞き役に徹しているのだというからよっぽどだ。
その性格からか服装も飾り気が無く、いつも暗い色合いのお堅い服装を纏っている。
同年代の令嬢達が華やかに着飾っているのを横目に、飾りの無い黒や灰色ばかり。肌の露出をこれでもかと押さえ、体のラインを出来る限り隠し、目立たないように徹する彼女は『地味』とさえ言えるだろう。
イチカも、彼女とは話をしたことが無いがあまり明るいイメージは無い。常に暗い色合いを纏い、会場の隅で壁に寄り添っているところしか思出せないのだ。
「ヘレナは同年代の子達より少しふっくらとしていて……。そのせいか自分に自信が無く、いつも隠れてしまうんです。特に殿方とは、話をするどころか近付こうとすらしないんです」
「ヘレナ嬢か。確かにいつも暗い色のドレスで隅に居るな。俺も話をした覚えがないかも」
「娘には是非とも良縁をと思っているのですが、肝心の娘があのままでは他所に紹介する事も出来ず……」
このままでは婚期を逃がすと言いたいのだろう。
夫人が嘆くような声色で呟き、次いでハロルドへと向き直った。縋るような瞳だ。
「ハロルド様、何卒どうか」
「よし分かった、任せろ」
「話が早くて助かります……」
溜息交じりで夫人が頭を下げる。
それを見ても、イチカはさっぱりわけが分からず、ただ首を傾げるしかなかった。
その日以降もハロルド相手の来客が続き、時にはイチカも同席をした。
彼の客は皆相応の身分ある夫人で、口にするのは決まって息子か娘の事。そして内容はもこれまた決まって、反抗的でやんちゃな息子・消極的で奥手な息子または娘、である。夫人によっては多少表現が違うが、殆どがこれに当てはまる。
そういった話を聞き、ハロルドが何かを了承し、そして夫人はそそくさと帰ってしまう。
まるで決まり事があるかのように皆このパターンだ。
そのうえ、マールズを始めとするデビュタント以降ハロルドは多忙のようで、バーキロット家で見かけることも少なくなった。
朝は早朝から研究所に向かい、その後にどこに寄っているのか帰宅も随分と遅い。
イチカは一人でベッドに入り、一人のベッドで起きる日々を過ごしていた。時折深夜に起きるとハロルドが隣で寝ている、その程度だ。
寂しい……なんて事は一切無いが、疑問だけは募る。
「ハロルド様、いったい何をしてるんでしょうか? ゴルダナ隊長は何か知っていますか?」
そうイチカが尋ねたのは、騎士の詰め所でのこと。
訓練を終えて帰宅の準備をしている最中、そういえばと思い立ってゴルダナに尋ねたのだ。彼はイチカがこの世界に召喚される前からハロルドを知っている、となればなにか教えてくれるかもしれない。
そう期待を抱いて聞いたのだが、彼もピンとくるものはないようでイチカの問いかけに不思議そうにしている。
「ハロルド様がどうかしたのか?」
「最近まったく会ってないんです。初物がどうのって話をしてから忙しいようで……」
どうしたのか、と言いかけた言葉をイチカが飲み込んだ。
近くにいた騎士達が盛大に噴き出したからだ。
驚いて振り返れば、数人が露骨に顔を背け、数人が咳き込み、数人が急いで帰宅の準備を進めている。果てには窓の外を眺めて「気持ちの良い空だ」などと話している者さえいるではないか。どんよりとした雲が覆う日暮れの空の、いったいどこが気持ちがいいのか。
まるで何か知っていますと言わんばかりの彼等の態度に、イチカが怪訝そうに「どうしたの」と仲間達に尋ねた。
だが返ってきたのは、無言と咳払い、せいぜいが白々しい口笛である。なんて嘘がつけない仲間達だろうか。怪しいことこの上ない。
「……ゴルダナ隊長、これはどういう事でしょう?」
「イチカ、それは……その……。騎士は身分ある家の出が殆どだろ、だから結構な人数がハロルド様のお世話になっていてな……」
「ハロルド様のお世話に?」
「あ、あぁ……俺は違うんだが……その……」
しどろもどろで説明するゴルダナに、イチカが名前を呼びつつ先を促す。
――ブランカの前以外では――勇猛果敢で、――ブランカ以外の相手には――臆することなく凛として接するゴルダナらしからぬ態度だ。
もしやと周囲を見回すが、もちろんブランカは居ない。当然だ、今彼女はメイドらしく夕食の準備をしているはずだ。
「ゴルダナ隊長、説明してください」
「それは、その……! む、無理だ! すまないイチカ、俺に聞くな!」
「なら他に誰か……いない!?」
いつの間にやら詰め所はもぬけの殻で、仲間達の逃げ足の早さにイチカが思わず声をあげる。
そのうえ、その隙をついてゴルダナが「またなイチカ!」と逃げるように去ってしまうのだ。
つい先程までひしめき合っていた詰め所が途端にガランとした開放感に溢れ、イチカが全くもってわけが分からないと肩を竦めた。




