14:バーキロット家の地獄のチェス大会
イチカがバーキロット家の通路を歩いていると、壁を凝視するハロルドを見つけた。
随分と真剣な表情をしており、その眼光の鋭さは睨むといっても過言ではない。遠目からでも重苦しいオーラが漂っているのが分かり、自宅の壁を見つめているとは思えない様子だ。
いったいどうしたのかと彼の隣へと並べば、視線の先にあったのは一枚のポスター。洒落た文字で綴られているのは、
『第十回 バーキロット家主催チェス大会』
という、近日行われるイベント。
それを見て、イチカが「チェス大会かぁ」と呟いた。以前にハロルドから、バーキロット家では定期的にチェス大会が開催され、そこで彼が散々な目に合っていると聞かされたのを思い出す。
だがハロルドが散々な目にあっていようが今回も開催されるようで、イチカが興味深げに記載されている詳細に目を通した。
このチェス大会は主催であるバーキロット家の者はもちろん、仕えている者達も参加可能。
上位入賞者には流石バーキロット家と言わんばかりの景品が与えられ、そのうえ入賞しなくても参加賞として有名店の菓子が配られるという。なんとも大盤振る舞いで、これもまた流石と言えるだろう。
気になる優勝商品は……と読み進め、大々的に書かれている説明にイチカが「おぉ」と思わず声をあげた。
優勝商品は物ではない。
優勝した者の希望をバーキロット家が叶えるという、つまり『何でも』という事らしい。
仮にも国一番、それどころか大陸一の家だ。『何でも』と宣言したからには権威を使ってでも叶えてくれるのだろう。――もちろん常識の範囲内なのは暗黙の了解だろうが――
「これは凄いですね。なんでもって、本当になんでも良いんですよね?」
「……確かに何でも良い。だがこれは不正だ、父さんが裏で糸を引いてるんだ」
「ロクステン様が?」
重々しい声色のハロルドに、イチカが首を傾げた。
チェス大会のポスターはアットホーム感に溢れ、誰かが裏で糸を引いているような気配はない。それに、他でもないロクステンがそんな不正をするとは思えない。
だがハロルドが嘘をついているとも思えず、イチカがどういう事かと尋ねた。
「いいか、確かにこのポスターには何でも可能と書いてある。多分チェス大会の話をする奴らは皆こぞって『何にしよう』と話すだろう」
「そりゃ、誰だってもし優勝したらって考えますよ。私は屋敷内に私専用のマッサージルームが欲しいですね。私がマッサージする側で」
「イチカ、お前まだマッサージ師の名残が……。とにかく、皆好き好きに話すだろうが、実際にその時になったら望むことは皆共通してる……。俺の性生活が自重されることだ!」
堂々と宣言するハロルドに、イチカがパチンと瞬きをした。
確かにハロルドの性生活は乱れに乱れ、歴史あるバーキロット家最大の問題とされている。仕えている者達も「ハロルド様はあの性格が無ければ……」と日々嘆いている程だ。
ハロルドの性生活が自重される、それはバーキロット家に関与する者達すべての願いと言えるだろう。
そしてこのチェス大会の主催がバーキロット家で、優勝賞品が『何でも』となれば、確かに性生活の自重を願われれば彼も叶えざるを得ない。問題児と言えどもハロルドもバーキロット家の一員なのだ。
だが、わざわざこんな豪華な賞品をそのために使うだろうか?
とりわけチェス大会を勝ち抜いて得たものなのだ。自分のために使いたいと思うものではなかろうか?
そうイチカが考えて首を傾げれば、察したのかハロルドが呻るような声色で話しだした。
「忘れもしない、あれは初のチェス大会が告知された日……。俺は父さんがメイド長達に話しているのを聞いたんだ」
『もしもバーキロット家以外の者が優勝したら、その時はハロルドの自重を望むようにと全員に言い伝えておいてくれ。なに、後日ちゃんと適当な理由をつけて何でも聞いてやるから』
「……俺は耳を疑った。まさか父さんが、あの父さんが不正なんて!」
「父親を不正に追い込んだのはご自身ですが」
「その話を聞き、俺は決意した。父さんに不正なんてさせない、父さんを止めるため、俺が優勝してみせる!」
「本音は?」
「俺のこのお気楽ハッピーライフを邪魔なんてさせない!」
はっきりと言い切るハロルドに、イチカが肩を竦める。
曰く、そのためにハロルドは記念すべき第一回から去年行われた第九回まで、全てにおいて優勝しているのだという。その執念に思わず拍手を送ってしまう。
貞操観念は重力を無視して舞い上がる軽さの彼だが、魔力と頭脳に関しては右に出る者はいない。天才等という表現が生温い程だ。
そんなハロルドが己のビッ活を掛けて全力でチェスに挑む……。なるほど、これは確かにどんなチェスのプロでも太刀打ちできないだろう。
そこまで考え、イチカがとあることを思い出した。
「だからハロルド様は妨害工作をされているんですね」
「そういう事だ。去年は睡眠薬を投与され、目隠しのうえ廊下の柱に縛りつけられたからな」
あれは辛かったとハロルドが話す。『睡眠薬投与に目隠しで縛り付けられる』等と、事情を知らぬ者ならば事件性を感じるだろう。
虐待だ。普通ならば同情が湧く。
もっとも、ハロルドに関しては自業自得の一言に尽きるのだが。
それは本人も自覚しているのだろう、恨めし気な表情を一瞬で切りかえ「まぁそれでも優勝したけどな!」と得意気だ。
そこに己の性生活を改める気は一切見られない。これは一生、何をしても彼は改めないだろう。自主的な自重を諦めて不正に走ったロクステンの気持ちが分かる。
「なんだか内情はどろどろしたチェス大会ですね」
ポスターを見つめ、イチカが溜息を吐いた。
先程まではアットホーム感に溢れて楽しそうに見えていたチェス大会のポスターが、今はどうにも色褪せて見える。
むしろアットホーム感を出そうとすればするほど痛々しい。なにせ実際はビッチ退治の不正チェス大会なのだ。
……だけど、
「これ、私も参加して良いんですかね?」
どれだけ色褪せて見えても興味はある。
もっともイチカのチェス経験は浅く、ハロルドと婚約をしてから彼に教わっている、まさに初心者だ。
本来であれば大会に参加できるレベルではない。だがこれは正式な大会ではなく、バーキロット家主催のチェス大会。そこにビッチ対策の思惑があろうと、身内で行われるものには違いない。素人同然が参加しても問題ないだろう。
「こういうのは挑むことに意義があるんですよ。私も、そろそろハロルド様とブランカ以外の人と指して経験を積む段階に来ていますからね」
「本音は?」
「参加賞のおかしです!」
記載されている店名は有名なところのもの。それに仮にもバーキロット家がクッキー1枚で終了とはならないだろうし、これは質も量も期待できる。
参加するだけで上質のお菓子が貰えるというのなら、これは参加しない理由がない。楽しくチェスを指して、美味しいお菓子……なんて素晴らしい!
そうイチカが訴えれば、ハロルドが不敵に笑った。
「イチカは一応俺の婚約者だからな、参加資格はある。良いだろう、決勝で待っていてやるから俺に挑むが良い!」
「余裕の表情でいられるのも今の内ですよ。魔剣士の力を見せてあげましょう! チェスには全く役立ちませんけど!」
勝利を確信しているのだろう煽るハロルドに、イチカも騎士らしく応戦的に返した。
・・・・・・・
「……あ」
とイチカが呟いたのは、ハロルドとチェスでの勝負を誓い合った数日後。まさにチェス大会の真っ只中。大広間の数か所にテーブルが設置され、各所でチェス勝負が行われる中の一画。
カツンと弾かれた自分の駒に声をあげてしまったのだ。それを聞いて、向かいに座る男が笑みを零す。勝利の笑みだが、勝ち誇るようなものではなく優し気な笑みだ。
ハロルド……ではない、クリストフである。
ちなみに今は決勝でもなく、二回戦目。ハロルドに決勝で待つと言われたのに、普通に二回戦負けである。
思わずイチカが「負けちゃった」と頭を掻きつつ盤面を覗き込んだ。見事な完敗、改めて見直すと数手前で勝敗は決していたようだ。
「こっちが手薄になってましたね」
「イチカらしい手だったが、少し分かりやすかったかな。だが始めたばかりなら一回勝てただけでも十分だ」
「そうですねぇ。まぁ私の目当てであるお菓子は確定しているので問題はありません」
「なるほど参加賞狙いか。また指そう、お菓子に紅茶もつけるよ」
「是非喜んで」
クリストフの言葉にイチカが頷いて返す。
彼との勝負は楽しかった。きっと自分が初心者で分かりやすい手しか打てないのを知っていて、楽しめるように気を遣って相手をしてくれたのだろう。
ハロルド程ではないか、クリストフも優れた頭脳の持ち主でチェスも上手いと聞く。子供の相手気分だったに違いない。
彼の性格に似た優しい勝負だった。それをまた、そのうえ紅茶とお菓子付きならば誘われて頷かないわけがない。
そうして改めて互いに頭を下げて一戦を称え合い、どちらともなく立ち上がった。
クリストフは次の勝負のため。対してイチカは手持無沙汰になり、他の勝負を見てみようと別のテーブルへと向かう。
他人の勝負を見るのも勉強の一環だ。……あと負けたので暇になった。
そんな中、一つのテーブルを前にしてイチカが立ち止まった。
「あれ、ここのテーブルは……ロクステン様だけですか?」
「イチカか、そっちはどうだった? 相手はクリストフだったよな」
「楽しかったけど見事に完敗です」
「そうか、だが一回でも勝てたなら十分じゃないか」
まるで娘の成長を愛でるようにロクステンが笑う。だがその視線はいまだテーブル上のチェス盤に向けられたままだ。声色は穏やかだが瞳は真剣で、一瞬の隙も見逃すまいとしているのが分かる。
……分かる、が、イチカが首を傾げたのは、チェス盤に向かっているのがロクステンだけだからだ。相手が居ない。空席である。
トイレにでも行っているのだろうか?
そうイチカが疑問を抱き、ロクステンの相手が誰だったかを思い出そうとし……チェス盤の駒が一つ、ズズ……と音を出して動いたことに目を丸くさせた。
誰も触れていない、白い駒。それがゆっくりと、まるで自我が芽生えたかのように動いている。
魔法のようではないか。……いや、魔法だ。
「ハロルド様ですか」
「あぁそうだ。相変わらず強くてな」
「でも、どこに居るんですか?」
「二つ隣の部屋だ」
監禁してる、とさらっと言ってのけるロクステンに、イチカが「監禁」と思わずオウム返しで呟いた。随分と物騒な事を口にするが、ロクステンに自覚は無さそうだ。
穏やかで優しい普段とのギャップが激しい。もっとも、イチカは驚きこそするが恐怖も畏怖も抱かないが。
「ちょっと見てきますね」
「くれぐれも逃がさないようにな。……む、その手でくるか」
やるな、とロクステンが呻くような声をあげる。どうやらハロルドに手痛い一手を指されたらしい。ここには居ないハロルドに。
どうやらそれが勝敗を決する一手だったらしく、ロクステンが盛大に溜息を吐いた。駒を動かす手もどこか気力が無く、負けを悟ったと言いたげだ。
それを横目に、イチカは会場である大広間を出て行った。
会場を出て、目当ての一室の前で立ち止まる。
耳を澄まして室内を窺ってもシンと静まっており、話し声は聞こえてこない。そのためか、会場からの賑やかな声が余計に耳につく。
一応の礼儀としてノックをし、そっと扉を開けて中を覗き込んだ。
ヒンヤリとした空気が漂う。
チェス大会会場との熱気の差だろうか。心なしか肌寒い。
イチカが軽く腕を擦りながら「ハロルド様……」と名前を呼び……。
後ろ手に椅子に縛り付けられ、上半身裸で震えるハロルドの姿を見つけた。
「失礼しました、間違えて拷問部屋に来てしまいました」
「バーキロット家に……そんな、部屋……あるか……」
「ハロルド様、どうしたんですかそれ」
「……チェス、大会の……ために、父さん達に……」
カタカタと震え、たどたどしい口調でハロルドが訴える。小刻みに体は震え、普段は妖艶な表情も今は青ざめている。視線も定まっていない。カクンカクンと頭を揺らし、声も間延びしている。
寒いのだろう、意識も定まっていないと見た。
「随分と酷い目にあってますけど、睡眠薬は?」
「ガッツリ盛られた……眠い。意識が、朦朧と……する……」
「ここまでしないと駄目なんですね。どうやってチェスしてるんですか?」
「魔法、で……遠隔……駒も……」
カクンカクンと意識を飛ばしつつもハロルドが説明してくれる。
それを聞き、イチカがなるほどと頷いた。それと同時に彼に対して感心してしまう。
ハロルドは二つ離れたこの部屋に監禁され、寒さに震え、後ろ手に縛られ身動きも取れずにいる。それでも魔法を使いチェス盤の戦況を眺め、そして己の駒を動かしているのだ。
なんと素晴らしい魔法の技術ではないか。並大抵の者では出来ない、魔力と技術と知力があってなせる業。
まぁ目的と自業自得なところを考えると心の底から感動は出来ないが、それでもお見事だと思えてしまう。拍手を送れば、虚ろな瞳のハロルドがこちらを向いた。
「……イチカ、は」
「私ですか。残念ながら二回戦でクリストフ様に負けちゃいました」
「兄さん、は……強い、から、な。……一回勝った、なら、立派だろ……」
微睡んだ意識ながらにハロルドが褒めてくる。だがすぐさまカクンと俯いてしまうのは、ギリギリのところで意識をもたせているからだろう。
どれだけ薬を盛られたのか定かではないが、この状況でチェスをしているのだから凄いとしか言いようがない。
そこまでして乱れた性生活を送りたのだろうか。……きっと送りたいのだろう。
「ハロルド様、魔法で暖炉に火をつければ良いじゃないですか」
「暖炉を、見てみろ……」
ハロルドに促され、イチカが暖炉に視線を向けた。
そこにはバーキロット家らしい豪華な暖炉がある。……のだが、その表面がレンガで塞がれている。
これでは遠隔魔法で火をつけたとしても、全てレンガが遮ってしまう。下手すれば火事になりかねない。
ならばこのレンガを壊せば……と、そうもいかない。
魔法は万能ではないのだ。
いかにハロルドと言えど、魔法を使っても出来ないことがある。とりわけ攻撃や破壊に関しては魔法の才でも限度が有り、そういった面は剣技の才を持つ者の独壇場だ。
そうやってこの世界は均等を保ってきた。
「ロープも……頑丈で、解けない……」
「徹底してますね。やっぱり拷問部屋じゃないですか」
「……寒い、眠い、寒い」
カタカタと震えながらハロルドが切なげに訴える。
元より寒がりなところ、上半身を裸にされ、そのうえ風通しの良い位置で拘束されているのだ。ハロルドにとってはこの部屋は雪吹雪く冬の山に等しいはず。遭難者だ。
そんな彼の姿に、イチカが肩を竦めて暖炉に近付いていった。レンガが敷き詰められており、これは魔法ではどうにも出来そうにない。
「暖炉だけ火をつけてあげます」
「……良いのか?」
「ロクステン様は『逃がすな』と仰いましたけど、『部屋を暖めるな』とは仰ってませんでしたから」
「そうか……。でも、レンガは魔法じゃ……」
「魔法じゃ壊せませんね」
そう告げて、イチカが何もない空間に片手を差し出した。
ゆっくりと意識を集中させれば、手元の空間が渦巻いて歪みだす。何も触れていないはずの掌に確かな感触が伝わり、ゆっくりと手を握れば何かを掴んだ。手を動かせば、あるはずの無い重さも加わる。
そうして何もないはずの空間から引き抜いたのは……イチカが持つには大きすぎる大剣。
魔法か剣技かどちらかしか得られないこの世界で、両方を使いこなすための魔剣。
これで世界を救ったのだ。懐かしい。
……今はビッチを救うためにレンガを壊すと考えれば、言い得ぬ感情が胸に湧く。
「まぁいいや、最近使ってなかったからたまには取り出して手入れしないと」
そう自分に言い聞かせ、引き抜いた魔剣を軽く振るう。
その瞬間に轟音があがり、隙間なく敷き詰められていたレンガが粉々に崩れていった。返しざまに再び振れば、暖炉の中に炎があがる。
「これで部屋は暖かくなるはずですよ。火の調節はご自身で行ってくださいね」
「……ありがとう、な。この礼は……ベッドで」
「消火します」
「嘘、嘘……俺の分の参加賞、で……」
「手を打ちましょう」
交渉成立、とイチカがにんまりと笑う。
ついでに室内にあった膝掛を彼にかけてやれば、虚ろな声で再び感謝の言葉が返ってきた。
・・・・・・・・・
結果として、第十回バーキロット家チェス大会の優勝はハロルドだった。第十回も、というべきか。
どちらにせよあの状況で優勝するのだから流石としか言いようがない。流石ハロルド、ビッ活にかける熱意は尋常ではない。と、イチカが参加賞のお菓子を食べながら感心する。
――ちなみにお菓子は有名店の立派な詰め合わせだった。とても美味しい。あまりに美味しい美味しいと絶賛していたら、クリストフからも貰ってしまった。チェス大会万歳――
「今回も優勝はハロルドか……。仕方ない、誰かあいつを連れてきてくれ」
溜息交じりのロクステンの言葉に、数人の使いが部屋から出て行く。
そうして彼等が運んできたのは、ぐんにゃりと四肢を投げ打つハロルド。もはやそこにバーキロット家子息の威厳は無く、普段のビッ活に励む行動力も見られない。打ち上げられて数分経った魚のようだ。
さすがにこれはお労しい……とイチカがドライフルーツの乗ったクッキーを食べながら思う。とても美味しい。
「ハロルド、よく頑張ったな」
「……父さん、の、鬼」
「優れた息子を持って私は嬉しいよ」
「……思っても、ない、ことを……駄目だ、もう無理、脳が溶ける……」
父と話すため辛うじて顔を上げていたハロルドが、耐えかねてガクンと俯く。もう意識を維持しているだけで精一杯なのだろう。
眠い、眠い……と譫言のように呟いている。
だがそんなハロルドに対して、ロクステンは眠らせるつもりが無いのか「ところで」と話を続けた。ちなみに、ロクステンは終始穏やかに笑っている。
「ハロルド、優勝したのはお前だ。望みはなんだ?」
ロクステンの言葉に、チョコチップの入ったクッキーを食べていたイチカがはっと息を呑んだ。これもとても美味しい。
いや、今はクッキーの美味しさではない。ハロルドの望みだ。
優勝したのだからハロルドには優勝賞品を受け取る権利がある。
そしてこのチェス大会において、優勝賞品は物ではなく、優勝者が望むこと。バーキロット家の権威を使い、何でも可能なのだ。
そもそもこの大会は、それを利用してハロルドの性生活を自重させるためのもの。だが優勝したのは自重させるべきハロルド本人。
つまり……、
ここでハロルドが『誰も俺の性生活に文句を言うな』と命じてしまえば、そこで終わりではないか。
仮に望みが一人のみに対して有効だとしても、それをバーキロット家当主ロクステンに指名すれば事足りる。それどころか、自分の乱れに乱れた性生活を応援しろと言っても良い。
そうすれば、もう誰も彼を止められない。
もしもハロルドがその事に気付いてしまったら……。
いや、他でもないハロルドだ。気付いていないわけがない。
止めなくちゃ……! とイチカが立ち上がりかける。
だがそれより先にハロルドが「望み……」とぼんやりとした声色で呟いた。ゆっくりと顔を上げるが、その視線は揺らいでいる。
「俺の……望みは……」
「ハロルド、お前の望みは?」
「……あったかい部屋で寝たい」
ポツリと呟き、再びハロルドがガクンと項垂れた。
それを聞いたロクステンが「そうか!」と声を上げる。その表情はどことなく晴れやかだ。
「皆聞いたか、ハロルドの望みは今年も『寝たい』だそうだ。よし、ハロルドを寝室に運んでやってくれ」
ロクステンの言葉を聞き、ハロルドを担いでいた数人が部屋を出て行く。
最早抵抗する気も起きないのだろう、もしくはこれで眠れると意識を手放したか、ハロルドは微動だにしない。
その後ろ姿がただひたすらに切なく、イチカは次はどれを食べようかと詰め合わせを眺めながらもチラと横目で見届けた。
「なんて茶番」
と小さく呟く。
だが来年もチェス大会が開催されるのなら参加するつもりである。




