四章
「……やはり、殿下は抜かりないな。」
夜が明ける前、まだ暗い闇に包まれる中、彼はとある部屋に立っていた。
目の前には眠るように意識を失っている、異界の、いや普通の少年。
抜いていた剣を鞘に戻してから、男はもう一度試すように目の前の少年に手を伸ばした。
「駄目か……。」
その指は、薄い黄色の結界によって弾かれ、触れることすら叶わない。
「こいつさえいなければ、姫は……。」
この少年を傷付けることに、迷いが無いわけではない。だが、それ以上にせねばならない事があった。
しかし、今回はもう時間がない。窓からうっすらと明かりがさしこみ始めた。夜明けの時間らしい。朝になればこの少年も、いつ目覚めるとも限らない。
男は窓に足をかけて後ろを振り返った。
「次は無いと思え。……冬夜。」
男は情を振り切るように藍とも紫ともつかぬ瞳を閉じると、長い茶色の髪をなびかせ、その場から消えた。
結局、俺に何が出来るんだろう……。
冬夜は肘をついて、授業そっちのけで窓の外をぼんやりと見ながら、昨夜のミエルの事を考えていた。
考えれば考えるほど、冬夜は自分の無力さを実感していた。結界を肩代わりすることも、彼女の辛さを取り除くことも出来ず、守ることも出来ない。
冬夜は小さく溜息を吐いた。
「―――や、冬夜ー?」
「え! な、何?!」
突然名前を呼ばれ、びくっとそちらの方を向くと、アシルがいた。
「もう、授業終わったよ。」
「あ、ああ、本当だ、いつのまに……。」
アシルによると、ついさっきチャイムが鳴って、休み時間になったらしい。冬夜は慌ててノート類を片付けようとした。しかし、よく見るとノートは最初の数行ほどしか書かれておらず、ほとんど真っさらの状態だった。
「悪い、ノート見せてくんね?」
「良いよ。でも、どうしたの? 今日は随分ぼんやりしてるよね。」
冬夜はアシルから借りたノートを写しながら、そうだな、と困ったように笑った。
「何て言ったらいいんだろうな、最近、夢見が悪…くて……? 嫌な夢じゃないんだけど……、いや、ある意味嫌な夢か。」
あんな不可思議な話、こうして体験しなければ、夢だと言わなければ、信じてもらえるはずもない。実際、人間の身体の方は寝ている間の事なので、夢といっても差し支えは無いかもしれないが。
本当に、何と言ったらよいうのか、分からないような夢だ。
「なんだか、ややこしそうだね。どんな夢なの?」
手が止まってる、と笑いながら、アシルはそう聞いて来た。冬夜は、慌てて手を動かしつつ、聞きたいか、ともう一度聞いた。
その問いにアシルが頷くのを確認すると、冬夜は大急ぎでノートを写し終え、そのノートを返すしながら言った。
「笑うなよ。」
「わっ……。」
ミエルは夜、自分の部屋から通ずるバルコニーに出ていた。少し風の強い夜で、髪が風に巻き上げられる。部屋には冬夜の猫の身体が眠っているが、夜が明けるまでは起きる事はない。夕食が終わり、部屋に戻るまでは冬夜と二人で、この物悲しいような静けさとは無縁だが、冬夜が眠ってしまった後は、部屋に一人きりだ。
今日は雲がたちこめており、輝く月を見ることは出来ないが、雲からぼんやりと見える光はそれはそれで、美しかった。
「冬夜……。」
昼間に彼から言われた事、傍にいると、言ってくれたことをミエルは思い出していた。
「嬉しかった……。」
ミエルはバルコニーの手すりに肘をついて、手で顔を覆った。嬉しさで涙が零れ、指の間を伝って落ちた。
いつからだろう、周りの人々が守ってくれる存在から、守らねばならない存在になったのは。兄であるサリスでさえ、数少ない甘えられる相手ではなったが、ミエルにとって守る対象だった。
あんなふうに誰かに縋ったのは、いつぶりか、思い出すことも出来なかった。
「冬夜、早く戻ってきて……。」
彼のいない夜は、酷く長い気がした。
「……たかが、夢、なんだけどな。」
冬夜は細かな部分は省きながらも、出来うる限りを話した。アシルはどう思うだろう。たかが夢じゃないか、と笑うだろうか。
冬夜はおそるおそるアシルの表情を窺った。
しかし、冬夜の予測とは裏腹に、真剣な、いや、それを通り越して少し怖いような顔をしていた。
「……アシル?」
「―――、ごめん! その、不思議な夢だなと、思って。」
冬夜がアシルに話しかけると、彼は、はっとしたように表情を変え、取り繕うように笑った。
それだけとはとても思えなかった冬夜だったが、あまり気にしない事にして、冬夜はアシルに同意した。
「そうだな、こう何度もだと真剣に考えちまってさ。自分には関係無い―――」
冬夜は口を噤んだ。
そう所詮は異界の事であり、冬夜の実生活には関係が無いはずだった。
しかし何故、こんなにも自分の言葉にショックを受けているのだろうか。たとえ、彼らがどうなろうとも、冬夜の生活には支障が無いと言うのに。
「冬夜?」
「ああ、何でもない。つまらない話聞かせたな。」
突然黙ってしまった冬夜を心配したのか、アシルが冬夜に声をかける。冬夜は、考え飛んでしまっていた事に気が付き、ふるふると首を振ってそう言った。
本当に「何でもない」のか、冬夜にも分からなかった。
冬夜はミエルの趣味満載の、ピンクのクッションが敷かれた籠から身体を起こした。のそのそと、その籠から這い出して思い切り伸びをする。
「あれ……?」
いつも冬夜が起きるような時間には、ミエルがいて、「おはよう、冬夜。」と言ってくれるのだが、今日はそんな彼女の姿が無い。冬夜は不思議に思いながら、きょろきょろと辺りを見渡した。カーテンが閉まったまま、ベッドメイキングもされておらず、夜から誰もいないような様子だった。
冬夜はぴょんと窓の近くに飛び移って、カーテンを頭で押し上げて窓の中から外を除いた。しかしそこには、誰もいない。
「今日は、静かすぎる……。」
もうこの時間であれば、城の使用人たちはとっくに起きていて、それぞれ朝の準備や仕事にとりかかっているはずで、こんなに水を打ったような静けさはあり得なかった。
「何かあった……?」
冬夜はぱっと床に飛び降りると、部屋の扉の方へ行った。
その扉は運良くというべきなのか、少し隙間が開いており、何とか外へと出られそうだった。
出られることにほっとする一方で、冬夜は嫌な予感が胸によぎるのを感じていた。
扉は意図が無く開いているはずもないが、だが、この状況で、冬夜の為に開いているとも考えづらい。
「ミエル……!」
傍にいる、って言ったのに……!
冬夜は扉をすり抜けると廊下を走って行った。
ミエルは部屋が明るくなってきたころ、ぼんやりと目を覚ました。知らず零れていた涙をぐしぐしと袖で拭いて、そっとベッドから抜けた。
いつもならもう誰かが起こしに来てくれる時間だというのに、誰も来る気配がない。それどころか城内は、異様な静けさに包まれている。
「……何かが起こっているのかもしれないわ。」
昨日の胸の痛みを思い出し、胸元をぎゅっと掴んだ。
ミエルは羽織るものを探して、肩に掛けると、隣の続き間に入って、冬夜の猫の身体が眠ったままであるのを確認しにいった。
一切起きる気配のない冬夜にミエルはほっとすると、そっとその身体を撫でた。
「眠っていてね……。」
ミエルは名残惜しげに身体から手を離すと、くるりと踵を返して部屋を飛び出していった。
ミエルはまず、近くにあるサリスの部屋を訪ねた。しかし、ノックするも返事が無いので、ミエルは思いきって扉を開けた。この時間なら起きているはずだ。
確かにサリスは眠ってはいなかったが、部屋にすら彼の姿は無かった。
ミエルはくまなく兄の部屋を探したのだが、やはり彼は見つからなかった。
「いない……。」
しかし、項垂れてもいられない。ここにいないとすれば、おそらくは。
ミエルは、顔を上げると、神殿を目指してサリスの部屋から出て行った。
「……!」
しかし、廊下を抜け、神殿へと向かう途中、倒れている数名の人間を発見した。
ミエルが慌てて駆け寄ると、眠ってしまっている様だったのだが、どうも様子がおかしい。ゆすっても起きないうえ、周りに散らばる仕事道具を見るに、まるで気絶したかのように作業中に眠ってしまっているようだった。
「どういう事なの……?」
異変が起きている事は明らかだった。
「お兄様、セーシェ……!」
ミエルはその使用人をそっと横たえると、神殿へと急いだ。
「セーシェ、無事かい?!」
「サリス殿下……!」
サリスは神殿の扉を開け放ち、中へと飛び込んでいった。サリスは、明らかにほっとした表情のセーシェの姿を認めると、彼女の傍に駆け寄って腕をとると、彼女を抱きしめた。
「サ、サリス殿下! 一体、何が……?」
走って来たのか、大きく息をしているサリスに暫く抱きしめられたままながら、声を上げた。
サリスはセーシェをそっと放すと、少し眉根を寄せて首を振った。
「分からない……。ただ、使用人たちが皆、眠ってしまっている。」
「こちらの者達もに御座います。今私しか動けませぬ。」
サリスは、そうか、と言うと、目を伏せた。何が起こるのか、どうしたら良いのかすら分からない。
つい先程の事だ。サリスはよく分からない悪寒を感じ、目を覚ました。その悪寒に、どうも嫌な予感のしたサリスは、少しだけ身支度をした後、部屋の外へと出た。そこで見つけたのは、異様な状況で床に眠りこけている使用人たちだった。
「魔法、で御座いましょうか……。」
「多分ね。」
その時、サリスが突然振り返って、セーシェを自分の背後に隠すようにして立った。
驚いてセーシェがその先を見ると、その先にはいつかの黒い人影と、酷似したものが立っていた。
サリスは、あの前の人影とよく似た目の前のそれが、姿は酷似しているものの、質が全く異なることを感じていた。
あれに攻撃されたら、防ぎきれる自信が無い……。
「セーシェ、逃げて。」
「な、何を仰いまするか?!」
サリスは、自分一人でも厳しいこの状況では、セーシェを守り切れる気がしなかった。だから、彼女には逃げて欲しかったのだが、案の定というべきか、やはり彼女は逃げようとはしなかった。
人影は、サリス達を見つけると、ふと笑って、ゆっくりと二人に近付いて来た。攻撃しそうな気配は無かったため、下がりはしなかったサリスだったが、足が逃げそうになるのを必死で抑えていた。
「やあ、久しぶり、といっても、この姿じゃ分からないだろうね、サリスくん。」
「残念ながら、分かりかねますね。」
異様なほど気さくに話しかけてくる人影に気を抜かぬようにしながら、サリスはそう答えた。人影は前の時とはうって変わり、表情などもはっきりと見る事ができた。しかし、顔の造形は何故かはっきりとせず、サリスの知り合いらしい口振りではあったが、誰かと判別する事は出来そうもなかった。
「さて、本題に入ろうか。―――ミエル姫はどこだい?」
やはり、ミエルが狙いか……。
サリスは思った。しかし、そうやすやすとミエルの事を言うわけにはいかない。ミエルを渡せば、どうなるかなど分からないうえに、拉致されようものなら結界もどうなるか分からない。結界が消えるのは、ミエルが最も危惧している事だ。
「言えませんね。」
「そうか。」
人影はその答えに、余裕の表情で微笑みを見せていた。そして、その表情のまま右手を前方、サリス達の方へと翳した。
「ならば、少し強引な手を取らねばならない、かもしれない。」
サリスはじりっと後ずさった。表情はあくまで穏やかだが、彼が何を言わんとしているのか分からないようなサリスではなかった。
殺されはしないかもしれない。ミエルの居場所を吐く必要がある間は。しかし、殺して城を家探しする可能性も無いとは言えなかった。
「言えません。」
サリスはじっと目の前のそれを見据えて、そう言い切った。ミエルを渡すわけにはいかなかった。
「そうか、なら仕方がないな。」
目の前の人影は、にやりと口の端を持ち上げて微笑んだ。前にかざされている手に魔法が集まっているのが見えた。色は体と同じドス黒い黒で禍々しまで感じるような気がした。
その黒が丸い球を成しはじめ、次第に大きくなっていった。
来る……!
サリスはそう察した。薄いこれで防ぎきれるだろうか。確信が持てない。
こうなれば、セーシェだけでも守らなければ。
サリスはそのまま受ける事を決意した。
程無く、案の定魔法が放たれる。後ろで息を飲む音が聞こえた。そして、高い靴の音。
「セーシェ?!」
魔法が二人の元に届く寸前。セーシェはサリスの肩を掴んで、彼の前へと飛び出した。
サリスは心臓が止まるのでは、とさえ思った。
もう、間に合わない……!
サリスは最悪の結果をも覚悟した。しかし―――
「来たな。」
人影はそう呟くと、ふと笑った。そして、少しだけ手首を返す。
「……!」
人影の放った魔法は、二人のいた場所からそれて脇を通過すると、その後ろの壁に当たって壁を破壊した。装飾の類が消し飛んだようになっているそれを見て、生きた心地はしなかったが、サリスは、何故突然攻撃を止めたのかの方が気にかかった。
そして、その理由はすぐ明らかになる。
神殿の扉がうっすらと開いた。
「ようこそ、ミエル姫。」
人影が笑った。
冬夜はミエルの部屋を抜け出し、廊下を駆けている最中、何人もの眠っている使用人を見つけた。
やっぱり、何かが起こってる……!
城内には人気が無く、今意識がある者がどれほどいるのかも分からなかったが、冬夜は少しの期待を込めて神殿へと向かっていた。ミエルが異変を感じて部屋を出たのなら、おそらくセーシェのいる神殿へと向かうはずだろう。
神殿へと辿り着いた冬夜は、その扉がまた少し、人ひとり分ほど開いている。昨日のように、セーシェが開けておいてくれた、わけではないだろう。
冬夜は意を決してその扉へと歩み寄った。そして、その扉の隙間から顔を覗かせる。
ミエルはいつかの人影と似たようなそれに、両腕を捕らえられ身動きが取れなくなっていた。
「―――ミエル!」
冬夜は気が付くと中に飛び込んでいた。
冬夜の上げた声に、周りの視線が冬夜に集まる。
「冬夜?!」
ミエルは腕を掴まれながらも、必死に後ろを向いて冬夜の方を向いた。
「冬夜! 駄目よ、来ないで!!」
ミエルだけではない。サリスやセーシェも来るな、と言っている。だが冬夜はその制止も聞かず、神殿の中へ、人影のいる場所へと走り寄った。
「ミエルを離せ!」
自分には力も何もない。だがそんなことは、冬夜にはもはや関係の無い事だった。
冬夜は人影に突進して、その足に噛み付く。しかし、すぐに人影に振り払うように蹴り飛ばされる。
ミエルが悲鳴のように冬夜の名前を呼ぶ。冬夜は腹に覚えた衝撃によろめきつつも、何とか立ち上がり、人影を睨みつけた。
「冬夜……、お願い、止めて……」
ミエルは今にも泣きそうな顔で冬夜を見ている。
冬夜は、ミエルを見上げた。ミエルは本当に人の事ばかりだ。今だって、危険な目にあっているのは自分だというのに、冬夜を心配して泣きそうな表情をしている。
もっと自分の心配しろよ。俺は大丈夫だから……。
冬夜はぐっと脚に力を籠めて立ち上がった。
ミエルを助けたい。
そんな思いが力となったのか、何か不思議な力が、身体の奥底から湧き上がってくるような気がした。
「!」
冬夜が薄い黄色のキラキラとしたもので包まれ、人影に向かって、光が放たれる。
人影が少しだけ表情を変えて、ミエルを捕らえたままその場所から飛びのいた。
「邪魔をするなら、こちらも容赦はしない。」
冬夜から放たれた光を横目に見たそれから、今までのどこか余裕のある様子は形を潜め、そう堅い声で言った。
そして、先程サリス達にしたように手を出すと、間髪入れずそこから黒い力が放たれた。
「冬夜―――!」
冬夜が最後に聞いたのは、名を呼ぶミエルの叫び声だった。