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国守姫の使魔  作者: 桜 みゆき
本編
4/7

三章

「はぁ……。」

 冬夜は一人、深い溜息を吐いた。ミエルと出会って、もう既に一週間程経っていた。

 この一週間というものの、昼は地球で人間の姿で学校生活を送り、夜、とは言っても活動時間自体は日中なのだが、ともかくも異界にて、猫の姿でミエル達と生活をしていた。システムとしては、人間の身体が寝ている間に、猫の身体が活動をし、猫の身体が眠っている間に人間の身体が活動するように、ミエルの魔法で時間を調節しているらしい。

 冬夜はとぼとぼと城内を歩きながら、また溜息を吐いた。

 まさか、こんなことが夢じゃないなんて……。

 はじめの三日ほどは、たまたま夢が続いているだけだ、と思い込もうとしていた冬夜だったが、さすがに一週間もこの生活が続くと、そういった思い込みでは誤魔化しきれなくなり、受け入れざる得ない状況だった。

 今では城内の何人かが顔、というよりは姿を覚えてくれ、話しかけてくれるものもできはじめていた。毎日特にする事も無く、城内を歩いて回るぐらいしかする事がなかった為か、城の大体の立地も覚え始めた。

 今日、冬夜はウロウロと城を歩き回った後、一週間ぶりに神殿へと足を運んでいた。

 神殿の大きな扉は、冬夜を待っていたかのようにうっすらと扉が開いており、冬夜はその隙間に身を滑り込ませて中へと入った。

 中には部屋の真ん中で、祈りを捧げるように足をついて、手を組んだセーシェがいる。

 冬夜がそっと彼女に近寄ると、セーシェはそれを予期していたかのように立ち上がって、身を翻した。日本人でもなかなか見ないような、漆黒の艶やかな髪が揺れる。

「ようこそ、いらせられました。冬夜殿。」

 たおやかに微笑むセーシェは、天窓から差し込む陽光も相まって、さながら聖母のように見えた。

「俺が来るの、分かってたのか?」

 セーシェの穏やかな表情は、冬夜が一人でここを訪れた事に、何の訝しさも感じていないように見える。その上、あの少しだけ開けられた扉。彼女には先見の力でもあるのかと、不思議に思いながら、冬夜は彼女を見上げた。

「どことなく、そのような気がしたにすぎませぬ。」

 セーシェはにっこりと微笑むと、冬夜を腕に抱きあげる。

「ちょ、腕……大丈夫なのか?」

 セーシェの腕には包帯が巻かれている。一週間前のあの日に、あの人影に負わされた怪我が、まだあるのだろうと、冬夜は慌てた。もし、まだ痛いのなら動くのも良くないと、無理に逃げるようなことはしなかったが。

 セーシェはしばらくきょとんと、冬夜を見た後、自分の腕に巻かれた包帯を見て、やっと合点が言ったように頷くと、少し照れたように笑った。

「ああ…、この包帯の事でございましょうか。それならば、まだ傷跡が残っておりますゆえ、巻いているにすぎませぬ。もう、痛くはございませぬよ。」

 冬夜はその言葉の真偽を確かめるように、暫くじっとセーシェの顔を見上げていた。しかし、彼女の表情にも仕草にも、嘘や動揺は見られなかったので、冬夜はようやくほっと肩をなでおろした。

「それなら良いんだけどさ。」

 冬夜はセーシェに抱き上げられたまま、高くなった目線で辺りを見た。前来た時は、とてもではないが、じっくりと辺りを見渡す暇など無かったが、白いタイルや石で造られた室内はとても清廉で綺麗だった。よく手入れされているのだろう、清潔さは保たれ美しいが、造られてからかなり経つのか、新しさやそれにともなうピカピカした雰囲気は感じられず、古めかしさが良い感じで調和している。

 しかし、少し違和感を感じて床を見ると、一部だけ新しいタイルに直されている部分があった。おそらく一週間前の爪痕の補修だろうと思われた。

 セーシェは冬夜を抱きかかえながら、部屋の奥に向かってとことこと歩いていた。その方向を見ると、少し段があって、その上には二体の石像が立っている。誰の像なのかは勿論冬夜には分からなかったが、きっと成人なり、昔の君主なりだろうと冬夜は思った。

「そういえば、一週間前の、あの変なの……、何だったんだ?」

 床に新しいタイルとして残っている痕は、一週間前の事が、夢の類ではなかったことをはっきりと物語っている。

 セーシェは、うーん、と考え込むような表情をしながら、像の前の段差に腰を下ろして、膝に冬夜を乗せた。

「私にもはっきりとしたことは。……ですが、サリス殿下はオフスーテが絡んでいると、御思いの様で御座りましたね。」

 相手の黒い力、あれも魔法の一種らしいのだが、それにオフスーテ王家の力を感じたのだという。あの力をセーシェも受けたのだが、魔法の力を持たないセーシェには、魔法の違いなど分かるはずもない。しかし、サリスは自身も魔法を使え、分析も可能なのだろうと、セーシェは話した。ちなみに魔法は、このクライルだけでなく、ここ周辺の国の王家は皆、使えるのだそうだ。

「ここ暫くのオフスーテは、よく分かりませぬ。今まででは考えられないような行動をしておりますゆえ。」

 あの謎の人影の出没は、他国の王家でもここ暫く耳にするらしく、今のところ目立った被害は出ていないものの、得体の知れぬそれに、各国戦々恐々としているらしい。幸いなのは、クライルと同じく、セーシェのような軽い怪我を除けば、死傷者が出ておらず、床や壁の一部が破損した位のもの、ということだろうか。

「前のオフスーテは違った、ってことか?」

「そうで御座いまするね。」

 ここ数年はともかくとして、それ以前のオフスーテはかなり平和的な国で、ここ五代ほど周辺国と戦を起こした事も無く、国内の治安も良い国だったそうだ。

 しかし、ここ数年のオフスーテは人が変わったような変わりようで、突如好戦的になったという。しかし、新王即位の噂は無い。

「オフスーテ王の消息は、ここ数年不明となっておりまする。聞こえてくるのは、人が変わったようなオフスーテ王女エミリアーナ殿下の御噂ばかり、といった風でございますね。」

 オフスーテ王のただ一人の愛娘だというエミリアーナという少女は、ミエルとそう年も変わらず、少なからぬ面識があったミエルは、彼女の代わりように心をひどく痛めたらしい。昔は、大人しく優しい、どちらかといえば引っ込み思案なきらいのある少女だったという。

「ふーん……。」

 ミエルはよく笑う朗らかな人柄だが、同じ位感受性が強い。エミリアーナという少女の変わりようを知った時のミエルを思うと、冬夜は胸が痛んだ。




「ミエル?!」

 サリスは廊下の隅で蹲っているミエルの背中を見つけ、彼女に駆け寄った。

 苦しげに肩で息をしているミエルは胸を抑えて、脂汗を浮かべていうという、尋常ではない様子だった。サリスがそっと、ミエルの背に手をやると、ようやく兄の姿に気が付いたミエルが、苦悶に顔を歪めつつ顔だけで振り返った。

「お兄、様……?」

 兄を呼ぶたった一言、声を出すのも苦しげに、ミエルは言葉を切りながらサリスを見た。

 外傷は特に無さそうであったミエルだが、胸がひどく痛むのか、胸元の服をぎゅっと掴んでいる。サリスが、どうした、何があった、と聞いても、何かを言おうとしているのは分かるのだが、なかなか声が出せないのか、短く浅い呼吸を繰り返していた。

「ミエル……。」

「胸……。突、然…痛く……て。」

 切れ切れの言葉からは多くを知ることは出来なかったが、どうやら、つい先程、突然胸に激痛が走ったらしい。

 サリスは少しでも彼女の苦痛を和らげようと、優しくミエルの背中を擦っていたが、それもどれほどの効果があるのかは分からなかった。

「胸の痛み……。」

 サリスはどうにも嫌な予感がしていた。ミエルに胸の持病は無く、身体も特段弱くはない。また、刺されたりだとかいう外傷が無い事を考えると、この胸の痛みの理由はおのずと限られてくる。

「ミエル、まさか……。」

 ミエルは、サリスの言葉に頷く。

「多分……。」

 謎の身体の痛み。

 結界に何かあったのか―――?

 サリスは嫌な予感を振り払うように首を振った。通常なら、この痛みは守り人、つまりセーシェに現れるはずだ。

 少し痛みが治まって来たのか、ミエルの呼吸は幾分か苦しげな様子がマシにはなっていた。

 今なら動かせるだろうか、サリスはそう思い、周りを見渡した。ここから見える範囲に人は見えない。だが、ここでじっとしているわけにもいかない。

「ミエル、とりあえず医者を……。」

「―――やめて!」

 ミエルは叫ぶように声を上げ、サリスの言葉を遮る。

「まず、まずはセーシェに知らせないと、駄目よ。騒ぎになったら……。」

 それはサリスも分かってはいたが、この苦しみから、早くミエルを救ってやりたかった。

 私が結界を張っていれば……!

 だが、今は後悔している時ではない。

 しかし、ミエルが医者や人を呼ぶ事を拒否しているならば、あとサリスにできるのは、ミエルに負担が無いようにセーシェの元に連れてゆく事、ぐらいだ。

 サリスはぐっと決意を固めると、ミエルを抱え上げた。

「お兄さ……。」

「掴まってて。」

 サリスは出来る限り早足で、セーシェの元へと急いだ。




「てかさ、そもそも、魔法って何なんだ?」

 冬夜は相変わらずセーシェの膝の上で、ころんと丸くなったままそう聞いた。

「私にも詳しい事は…。ですが、元々はたった御一人の方が御持ちになっていた力だそうでございます。」

 もう何百年も昔、まだ国がこうして細かく分かれる前の時代。一人の若者が小さな都市国家を幾つも統一して、巨大な国家を創った。

 その若者には、人を惹きつける魅力、一種のカリスマ性と、そして、常人の持たぬような不思議な力を持っていた。伝説では、神から授けられたというその力は、彼の子孫が受け継ぎ、こうして今、大国が解体した後も各国の王によってその力が受け継がれている。

「その始祖様が、後ろの右側の御像にございまする。」

 ちなみに左側は、この国が「クライル」という名を冠し分かれた時の初代王だそうだ。

「セーシェは使えないのか?」

「私は一般庶民の出でございますゆえ。」

 結界の守り人になっても、魔法の使用は出来ないらしい。

「……ですが、冬夜殿であれば、多少話は変わってきましょう。」

「俺?」

 冬夜は驚いて顔を上げた。王家の人間でないどころか、この世界の者ですらない自分に魔法など使えるわけがないだろう、そう冬夜は思った。

 セーシェはそんな冬夜の内心を見抜いたのか、少し残念げに肩を竦めて、冬夜殿御自身は分かりませぬが、と前置きをした。

「冬夜殿、貴方はミエル殿下の御使魔でございましょう。使魔であるならば話は別だ、という事にございます。」

「俺?」

 使魔は王家の人間が、自分の補佐役として、過去の死者の魂を何かの身体に入れたり、擬似的に生物の身体、魂を作ったりだとかで、使役する人語を解する動物型の魔法生命体と言われるものだ。

 そうした使魔の多くは、使役者、冬夜の場合のミエルと幅はあれど同程度の魔法を使える。

「ですが、冬夜殿は異界出身でございますゆえ、少し勝手が違うやも知れませぬね。」

「異界出身って、珍しいのか?」

 セーシェは冬夜のその問いに頷いた。

 そもそも使魔の使役例自体少なく、大方は過去の王を使役して教えを請うという目的が殆どで、使魔の使役にはひどく力を使う為、そこまでして使役をするメリットが見出せない事が殆どだという。

 その中でミエルのした、異界から魂を呼ぶという方法は、今まで聞いた事すら無いような事だった。

「……そこまでして、何で俺?」

 冬夜は今ひとつミエルの行動が解せなかった。何故異例の事をしてまで、異界の人間を呼ぶ必要があったのだろう。

 ミエルのはじめの説明を信じるならば、わざわざ異界から連れて来ずとも、死者の魂では駄目だったのだろうか。

「さあ……、そこまでは。ただ……これは私見に過ぎませぬが、ミエル殿下は生者の魂が欲しかったのでは、と予想しておりまする。」

 同じ魂であっても、死者よりは生者の魂の方が力が強い。

 それが関係しているのでは、とセーシェは話した。

 生者の魂を使う場合、身体は生命活動を続けながらも、意識を持たない為、使役が終了した時に帰る身体の無事を確保しなければならない。

 その点、異界の人間であれば、身体は異界に残る為、危険の迫るクライルの人間よりは、危険にあう確率が少ないと思われた。

「なるほど。」

 そこまで考えて、異界の人間を選んだのだろうか。

 セーシェの言葉が真実ならば、周りの人間を思っての判断だったのだろう。誰一人、誰かも分からなかったはずの冬夜さえも守る方法。ただ一人、この守護から外されているのはミエル自身、ただ一人だった。

「でもさ、異界出身って珍しいんだろ? その割には、みんな受け入れ早いよな。」

 セーシェは、そうですねと、手を顎に当てて考えているようだった。

「王家の一員でいらせられます、ミエル殿下のなされた事だから、かも知れませぬ。各国王家は、その魔法の力もあり、ある意味畏れられておりますゆえに。」

 一般国民にとって王家とは、守るべき、だが詳しくは知るべきではない存在で、心底敬愛する一方で、同じ位畏れ多い存在だとも思われている。

 決して遠い存在なわけではない。だが、両者の間には、はっきりとした差があった。

「魔法といえば、魔法は王家によって、得意分野、というものが御座います。クライルでいうならば、守りの力で御座いまするね。」

 セーシェはそう言って、自分の背後に立つ二柱の像を見上げた。

 始祖であるという右側の男は、その全てを合わせたような力を持っていたらしいが、世代を経るごとに、それらの力が分散していったとされる。始祖の生きたとされる時代は、神話期というとても古い時代の事の為、真偽の程は定かではないが、結果として、国の王家ごとに性質は分かれている。

「守り……。国の結界とか、俺らを守ってた薄い黄色のやつ、とか?」

「そうで御座います。」

 あんな薄いバリア一枚で、攻撃の盾となるのは、冬夜にとってつくづく不思議だったが、それが魔法の不思議さなのだろう。

 しかし次の瞬間、ゆったりと微笑んでいたセーシェが、パッといきなり立ち上がった。彼女の膝に乗っていた冬夜は、落ちるかと思ったが、身体が猫の為か、自身でも驚くほどの身軽さで地面へと、難なく着地した。

「セーシェ?」

 セーシェは神殿の外と繋がる扉をじっと凝視していた。冬夜が入ってきたときの薄い隙間はそのまま開いており、特に変わりは無いように見える。

 しかし、セーシェはその先に何かを見たかのように、パタパタとその扉の方へ走り始めた。

 その背中を呆然と見た後、パッと視線を扉の方へ移すと、その時、扉が蹴り開けられた。もっとも、重い扉の為、人が二人並んで通れるか、という程度にしか開かなかったが。

「セーシェ!」

 扉の間から現れたのは、ミエルを抱えたサリスだった。




「それで、どういう事なんだ?」

 今はサリスもセーシェもこの場にはおらず、冬夜はミエルと二人きりで、ミエルは先程のセーシェと同じように像の前で腰を下ろし、冬夜はその隣に寝そべっていた。

「ちょっと…ね。胸が痛くなって、敵の浸入かもしれないって……。」

 普通なら守り人に現れるはずの、身体の痛みが、何故自分に現れたのかは分からない、と言いつつもミエルは、結界の異変だと確信しているようだった。

 サリスに抱えられ、神殿へと来たミエルは、セーシェに結界を見てもらうように頼んだ。

 しかし、はじめこそサリスとミエルの様子にただならぬものを感じたのか、深刻な顔をしていたセーシェだったが、次第にその顔は困惑の色が強くなっていった。

 そして、こう言った。「異常は見当たらない」と。

「ああ、それで……。」

 冬夜はようやく納得し、そう呟いた。

 つい先程の、サリスとセーシェが神殿を飛び出して言った事についてだ。

 ミエルがつい先程の強烈な胸の痛みを話すと、セーシェも顔色を変えて、結界サリスとセーシェは国の最高責任者たる王に、指示を仰ぎに行ったのだった。

 なるほど、と思っていた冬夜だったが。その時、はたと思った。

「な、なあ、ミエル、それ、本当に敵の浸入だったなら、ここで二人きりって、マズいんじゃ……?」

 普通に考えても、結界の要であるミエルは真っ先に狙われるはずだ。そうであるのに、ここにいるのは、何の力も持たない猫一匹。自分には何もすることはできない。

 しかし、ミエルはあっけらかんと笑って、隣にいた冬夜を抱き上げて、自分の膝の上に降ろした。

「お兄様が私達だけで大丈夫、って判断したのだから。きっと大丈夫よ。」

 兄妹ゆえの信頼だろうか、兄弟姉妹のいない冬夜にはよくは分からなかった。しかしそれでも、ミエルの表情は、サリスに全幅の信頼を信頼を寄せ、心からそう信じているのだ、と物語っている。

 だから、冬夜もそれ以上この事については追求しない事にした。

「分かった。……それより、だ。今は大丈夫なのか?」

 もちろん、ミエルの身体の痛みの事だ。

 見ている限りでは、どこかが痛かったり、というようには見えなかったが、それでも無理をしていないとも限らない。

 冬夜があまりにも、心配げな表情をしていたからか、ミエルは冬夜の両脇を持って少し持ち上げて目線の高さにすると、こつんと額をぶつけて、穏やかな顔で目を閉じた。

「大丈夫。もう、治ったから。」

 あまりにも至近距離にある彼女の顔に冬夜は、少照れからか目線をそらす。

「なら、良いんだ。……でも、無理はすんなよ。」

「分かってるわ。」

 そこまではいつものミエルと何ら変わって見えなかった。

 しかし突然ミエルは、冬夜の脇を持っていた手をずらして、冬夜の身体をぎゅっと抱きしめた。

 そして、でもね、と言った。突然のミエルの行動に驚いてバタバタしていた冬夜だったが、その声を聞いて動くのを止めた。

 その声は少し沈んだ声で、その声も、そして冬夜を抱きしめる腕も、微かに震えていた。

「ちょっとだけ、ちょっとだけ……、怖かった。お兄様が来るまで、私、独りだったから……。」

 その声はミエルの言うように「ちょっとだけ」、ではないのを物語っていた。

 俺が今、人間だったら……。ミエルを抱きしめ返す事も出来るのに……。

 冬夜は黙って聞いてやることしか出来ない無力さを感じていた。この猫の短い手では、ミエルを抱きしめる事など、到底出来そうもなかった。

 それでも、何か一言でも、少しでも、彼女の心を軽くする事ができたら、冬夜は強くそう思った。

 だから冬夜は、ミエルに出来る限り身体を寄せた。

「次がもしあったら、今度は俺が傍にいる。何もできないけど、傍にいるから。」

 冬夜の頭に何かが落ちた。

「ありがとう……。」

 ミエルの声は、先程とはまた違った震えをしていた。




「まぁ、案の定というか、だね。仕方ないけど。」

「そうで御座いますね。」

 サリスとセーシェは王の元を辞した後、並んで神殿への道を辿っていた。

 結果として、結界の異変云々はよく分からないため、指示を仰ぐといっても、今まで以上に注意をするように程度のことしか、言いようがない。その予想に違わず、王の命はそういった趣旨のものだった。

「申し訳御座いませぬ。私が至らぬばかりに……。」

「そんな事ない。良くやってくれてるよ、ありがとう。」

 ミエルには確実に異変があったというのに、本来察知すべき役目のセーシェが何かを感じることが出来ないこの状況は、異様なことこの上なかったが、だからといって、セーシェを責める気にはなれなかった。相手も巧妙になっているのかもしれない、そういう恐ろしい予感もあった。

「それよりも、セーシェ。君は大丈夫かい?」

「問題ございませぬ。何故にミエル殿下が、御苦しみになるのだろうと、思うほどには。」

 サリスはセーシェの言葉に頷いた。

 今回のことほど、自分が結界を継いでいれば、と思った事は無かった。

 ミエルが結界を継ぐと決まった時、渋々ではあったが受諾したのは、その当時は今のこういった危険な情勢になるなど、夢にも思わなかったからだ。

 噂に聞くだけだった、敵が結界に侵入したときの身体を引き裂かれる様な痛み、それをサリスは自分の目で見ることも、体験することもないだろうと、いや、そんなことが起こるかもしれない事すら、考えていなかったのかもしれない。ましてや、守り人でない妹の苦しむ姿を見ることになるなど、誰が想像しただろうか。

「やはり、私が結界を張るべきだった……。」

「殿下……。」

 セーシェはサリスの服の袖をちょんと抓んだ。

「私は、サリス殿下、貴方様が苦しまれるのも、見とうございませぬ。」

「……うん。」

 サリスは自分の服の袖を掴んでいた手を、きゅっと掴んだ。

「結界なんてない方が良い、そう思うのは我儘かな……。」

 セーシェは小さく首を振って、掴まれた手を握り返した。

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