ⅳ.
日が沈んだばかりでまだぼんやりと明るい空を見上げると、柔らかくぼやけた月が見えた。
完全な円ではなく、少々欠けている弓張の月だ。窓から見える庭を見下ろすと、枝先に付く固かった筈の蕾から、目覚めの気配がする。気の早い花はもう綻んでいるようだ。
始まりの季節が、またやって来た。
シンシアは弾む足取りで廊下を駆けて行った。
* * * * *
オーディンとの外出に、リムは朝から張り切っていた。大勢の女官を引き連れ、部屋の隅で身を縮めて震えているシンシアに艶美に微笑みかける。
「さあ、シンシア様…………お着替えの時間ですよぅ?」
「ひ……っ!」
短い悲鳴がシンシアの唇から漏れる。嫌々と首を横に振っても、じりじりと彼女らは距離を縮めてくる。
「じ、自分でできます……っ!」
「シンシア様、わたくしたちからごらく――――基、たのしみ――――でもなく、お仕事を奪わないで下さいませ」
「せめて公私は分けて欲しいですっ!」
「分けてますわ――――多分」
高く細い悲鳴が、広いルノーシェ城に響き渡った。
普段日が昇って辺りが明るくなって来た頃に起きるシンシアが、異様な気配を感じて飛び起きたのは、日の出も間もない頃だった。寝惚け眼に映った多数の影に――――シンシアは寝起きでよく回らない頭だというのに状況を把握した。そうせざるを得ない状況だった。
ずらりっと寝台を取り囲む女官たち。彼女たちは期待に満ちた眼差しで、丸くなって眠っていたシンシアを見つめていた。
四方八方から伸びてくる手に寝間着を剥ぎ取られ、花の香の立ち上る浴槽に沈められ、容赦なく磨き上げられる。香油を丹念に塗り込まれ、四肢を丁寧に揉み解される。
昼近くになるとこれまた丹念に漆黒の長い髪を梳られた。同時に爪を整えられていく。
「紅はどれに致しましょう」
「あまりにも濃過ぎる色は駄目よ。お召し物に合うものにしなくては」
「御髪は結い上げる? それともそのまま流す?」
「飾りは――――」
「色は――――」
きゃいきゃいと黄色い声を上げて…………彼女たちはとても楽しそうだ。着々と精神力が削られていっているシンシアは、げっそりと生気なく鏡に映る自分を見返す。
こんこん。扉を叩く音に一同は口を閉ざした。扉の向こうからくぐもった声が聴こえる。
「おい、身支度だけで何故これ程までに騒がしくなるんだ?」
オーディンの声だ。彼ならこの状況から助けてくれるに違いない。希望が見えたような気がして、漆黒の双眸に光が宿る。
「オーディン――――ふゎっ!?」
助けを求めようと開いた口は、後ろから伸びて来た手によって塞がれた。
「そもそも出かけるのは日が暮れてからだ。別に今から支度しなくてもよくないか?」
「女性の身支度は殿方のそれとは大きく異なりますもの。時間もたくさん必要なのですどうか楽しみにお待ちになって下さいませ」
「…………ユリアの支度はここまで騒がしくはなかったと思うんだが」
「ユリア様はユリア様、シンシア様はシンシア様、ですわ」
「………………そうか」
そこで納得しないで助けて下さい! 声を大にして叫びたかったが、目の前の女官が目元に紅を差そうとしながら、喋るなと視線で脅してくる。
見た目はどれ程麗若く美しい容姿をしていても、流石は長らく王に仕える熟年な女官。その鋭い眼光に、魔族として遥かに若輩者のシンシアは凍り付いた。恐怖に震えることさえもできやしない。
大人しくなったのをいいことに、彼女たちは思い思いに、しかしひとつの目的を目指してシンシアを飾り上げる。
――――その時の私は、ほぼ吸血鬼の本能で恐怖を感じました。
後のシンシアは遠い目をして、頬を引き攣らせる魔王オーディンにそう語った。
* * * * *
身支度が終わろうという時、その頃には既に日が傾いでいた。
「…………できましたわ」
最後の仕上げに髪飾りを直していたリムが吐息交じりにそう言った。シンシアを囲っていた女官たちはほうっと思い思いに溜息を漏らす。
少々疲弊していたシンシアは、気怠げに姿見に映る自分の姿を見た。
まず目に入るのは、身に纏っている肩や腕の剥き出しになっている純白のドレスだ。裾は繊細なレースが幾重にも重ねられていて、華奢な彼女の姿がうっすらと浮かび上がっている。
まだ幼さを残す貌に施されているのは、落ち着いた紅を基調とした化粧だ。白い肌に紅が生え、いつもよりもずっと大人びて見える。
ずっと首元で煌いていた銀の鈴はそのままに、それに合うように小粒の紅玉を幾つも連ねた銀の飾りが、ほっそりとした首筋と耳元を彩っている。
漆黒の髪は大方が結い上げられているが、一部の髪は垂らされ、丁寧に巻かれた後に首飾りと似た意匠の飾りが絡められている。
いつもとは違う装い。いつもとは違う雰囲気。纏う色彩はいつもと同じ白と、黒と、紅だというのに、全く異なって見えた。
まるで自分ではないかのように――――否、大人になったかのようだ。呆然と、鏡の中の輪郭を指で辿る。
「如何でしょうか」
「…………すごい」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
満足げに笑みを浮かべ、女官たちは退室していく。彼女たちに感謝の礼を述べながら、シンシアはふと視線を窓の外に向けた。暗がり始めた東の空に、丸い月がぽっかりと浮かんでいる。欠けたる箇所のない、完全な月の姿だ。
「――――やっと終わったか」
女官たちと入れ違いに入って来たのだろう。愛しい声が聴こえた。シンシアはゆっくりと振り返る。
「――――」
彼の貌には少々呆れが滲んでいたが、そのようなものはすぐに消えて行った。宵色の瞳で、真っ直ぐにシンシアを見つめる。
「……凄いな」
とても猫には見えない。わかってはいたが、痛切に実感する。
「……行こうか」
差し出された手に、シンシアは小さく頷き、頬を染めて手を重ねた。
月の輝く空に、共に舞い上がる。
シンシアがオーディンと共に行きたいと思った場所。
それは始まりを告げた場所だった。
シンシアはリム含む女官さん皆の着せ替え人形です☆
本気になれば本能的に逆らえないことをよく知っています.




