ⅸ.
ぺちぺちぺち。半眼で頬を叩き続けるシンシアを暫く呆然として間近で見つめていたアンジェは我に返った。かっと白い頬が赤く染まる。
「な、何をするのよ!?」
「今私は怒っています。なので、こうしてその意思表示を行動で現しているのです」
「何をふざけたこと――――にょおっ!?」
むにーぃっ。頬を左右に引っ張られ、アンジェの言葉はふにゃふにゃと途切れてしまう。抵抗しようと手を振り上げるが、緑の蔓が両手に絡み付いてままならない。
「にゃ、にゃんにゃにょにょっ!?」
「あら、私は貴女と静かにお話がしたいだけですわ」
「うちょちゅくにゃっ――――はにゃちぇーっ!」
むにーっと頬を引っ張られ、アンジェはもがく。もがけばもがく程に蔓が絡み付いてくるのだが、頭に血が昇ってしまっている彼女は気付かない。
遠くから2人の様子を窺っていた者たちは、ぽかんと呆けた姿を曝している。オーディンでさえ頬を引き攣らせていた。
ふっと。むにむにとアンジェの頬を引っ張っていたシンシアは哀しげに両の眼を伏せた。長い睫毛が空に浮かぶ月の明かりに照らされて白い頬に影を落とす。
「私、争いは嫌い。ただただ虚しいだけですもの」
ぞっとする程に冷たく、深く沈んだ静かな面差しが直視できなくて、アンジェは憮然として貌を逸らす。
「そのようなこと、わたくしだって知っているわ……ずっとクリスフィアの祭壇を護るために引き籠ってきた一族だから、お前の持っているものよりもずっとずっと少ないのかもしれないけれど」
忘れることはない。2000年前に幕を閉じた血に塗れた世界の記憶を。そして2000年前から続く哀しい記憶の数々を。
「故に私は誰かが傷付く様を見とうはございません。自分が傷付けられるということは勿論のこと、大切に想っている方が哀しそうなお顔をなさるようなことはもっと嫌いです。だから、今の私は貴女が好きではありません」
「……当然だわ。お前を手にかけようとしたのだもの」
「そのような些細なことを申しているのではありません――――貴女は私が邪魔だと仰って、私の大切な方々に毒を盛られました」
夜空のようだと思っていた瞳が、底の見えない果てなき闇に移ろう。
呑み込まれる。彼女の家族であるキルト王族を毒殺しようとしていたことを半ば忘れかけていたアンジェは、恐怖に貌を強張らせた。
逃がさないと言わんばかりにシンシアは両手でアンジェの頬を包み込む。細い指が首筋を這う感触に息を詰める。
「私が誰か他の女性と同じ方を愛したのであるのならば、私は私の全てを以ってしてその方を愛し、また愛して頂けるように努めます。それでもその方が他の女性を選ばれるというのなら、私はそのふたりの幸せを祈り、未来の安寧を歌いましょう」
2000年の時の中で、とある歌姫が言った。
失恋はぽっかりと心に穴が開いてしまったようで、急に寂しくなるけれど。それならばそれ以上の恋を見つければいいのだ。幸せにしたいと、して欲しいと想える者に出逢えばいいのだ。
歌姫の力を以ってすれば、容易く恋敵を排除することは可能だ。だがそれでは愛する者が哀しむだけで、また必ずしもその者に愛して貰えるとは限らないのだから。
決して多くはないが、過去の歌姫は至高の恋を見つけて穏やかな幸せを掴んだのだ。
「こそこそと隠れて卑劣な行いを重ねるというのではなく、同じ舞台に上がっていらっしゃい。愛する方に向けて精一杯に歌いなさい」
「歌う……?」
「ええ。折角同じクリスフィアの血を引く歌姫として生まれたのですもの……私は力の限りに貴女と歌いたいです。そして決して負けません」
歌姫にとって歌うことは生きることと同義だ。喜びも怒りも、哀しみも愛おしさも、清濁併せ以って歌う。
逃げることはしない。毅然として前を向き、未来への希望を歌うのだ。
アンジェはぼんやりとオーディンを見つめた。
「……お前はわたくしがオーディン様を取ってもよいというの?」
「私は私だけを愛して貰えるように努めるのみですわ」
澄ました顔をするシンシアに、アンジェはむっとした。だが反論の余地が見つからず、アンジェは拗ねたように唇を尖らせる。夜空に消え入りそうな声で、けれど確かな意思を以って言葉を紡ぐ。
「わ、わたくしだって…………わたくしだって、オーディン様に……お前よりも素晴らしい愛の歌を、捧げてみせるのだから」
頬が真っ赤に染め上がり、ぴくぴくと白い耳が動く。ぺちんっと長い尻尾が揺れた。
シンシアは花の貌を綻ばせた。
「負けませんよ」
「ふわり 綻び始めた淡い花
まだまだ曖昧で頼りない小さな花よ
あなたはなあに わたしはだあれ」
蔓が緩まり、アンジェに身体の自由が戻ってくる。金と青の瞳をぱちぱちと瞬かせ、柔らかく歌うシンシアを見上げた。
「ふわふわり 強い風がやってきて
ふくらんだ色がはじけちゃった
あなたは遠くへと行ってしまう わたしはどこにいくのかしら」
紅茶色の花は光の粒子になって夜空いっぱいに広がっていく。星屑が舞うような幻想的な光景に、遠くから恐る恐る状況を窺っていた令嬢たちが歓声を上げた。
シンシアは空を仰ぐ。
以前はひとの営みが眩しくて、自分の意志で森に独りでいたというのに、置いて行かれるような錯覚に陥って寂しくなることもあったけれど。
けれど、今はこれからの未来が楽しみで楽しみで仕方がない。
アンジェの手を引き、穏やかに微笑を浮かべているオーディンへと宙を滑る。伸ばされた大きな手に空いていた方の自分の手を重ね、強く握り合う。
歌が、心から溢れてくる。
「ふわふわり ふわふわり
ひらひらり ひらひらり
澄んだ蜜色 甘い香り
広がる青 芽吹く奇跡
いつか散ってしまうこの命 いずれ消えてしまうのなら
今この瞬間を めいいっぱいに楽しみたい」
きらきらと舞い落ちる光が地面に触れると、そこに緑が芽吹く。まるで何事もなかったかのように、荒れた庭も崩れた城壁も元通りになる。
静かな夜闇の中、ルノーシェ城は月明かりに照らされて、輝いて佇んでいた。
失恋は人それぞれでしょうが、私の瞬間はかなり虚しかったです。
いいひとに逢えるかな……
今回入れた詞は曖昧で不確かな自分を歌いつつ、
未来への希望を持てたらと思い、作ったものです。
現実ではこの詞で創作してたりします。




