ⅶ.
ちょっと長めです。
その夜、オーディンとシンシアはキルトに泊まることになっていた。
エディオとカルティスは以前の部屋をシンシアに勧めたのだが、彼女はオーディンと同じ客室にいた。寝台の上でくつろぐオーディンの傍らにシンシアは音も無く飛び乗る。
「オーディン、聞いて下さい! お姉様が私のことをシアと呼んでくださったのです!」
「アリアーヌ王女が? それはよかったな」
「はい!」
食事のときは王や王妃、兄や給仕たちの視線があったために、普段のように思ったことをそのままに声にすることができなかった。だが今ここにはオーディンとシンシアの姿しかないため、何の気兼ねなくいられる。いくら血の繋がりがあっても、10年以上別れていた父の前で他の男性に甘える姿を見られるというのは、何だか憚られた。
オーディンはシンシアの頭を撫でる。
彼には兄弟というものはいなかったが、代わりにエドワードやユリア、リムといった幼馴染たちに恵まれた。周りの者を信じられなくとも、彼らという支えてくれる存在があった。
キルトでは今、10年以上の時を経て漸くその絆が結ばれようとしている。
「明日は昼過ぎにお姉様とお茶をする約束を致しました! 王妃様にも今お伺いを立てております」
ほわほわと頬を緩ませるシンシアはとても嬉しそうだ。目がきらきらと子どものように煌いている。
「お茶菓子にルノーシェのお菓子を持って参りたいのですが、よろしいでしょうか?」
「わかった、リムにでも届けさせよう。希望はあるか?」
可愛い飼い猫の頼み、菓子程度ならば幾らでも用意してやれる。
「是非ともお菓子屋『ドゥーミィ』のほんにゃりぷわきらほわいとけぃきーとをパステルピンクピュモのシャーベットをお願いします!」
「……悪い、何を言っているのか全くわからん。書き留めてくれ」
* * * * *
「オーディンがお菓子を用意してくださいました!」
テーブル上に並べられた菓子の数々に、王妃とアリアーヌは目を輝かせた。
柔らかな白いクリームと宝石のように煌く飴細工の飾られたケーキ。色取り取りのシャーベットはひんやりとして、見るからに涼やかそう。
菓子を持って来てくれたリムが給仕をする。
「シンシア様はピュモとのご要望でしたが、他の果実のものもご用意させて頂きました」
今日のリムは機嫌がよい。いつも以上にシンシアを着飾らせることができたからだ。シンシアとしても姉と一時とはいえ母のように慕った王妃とのお茶会なので彼女の好きにさせていた。
夏らしい淡い青緑のドレスは膝までの丈のもの。足元は同じ色の編み上げサンダルで合わせ、丁寧に結い上げられた漆黒の髪には純白の真珠と共に白百合が差されていた。
キルトの者たちは魔族であるリムに若干の怯えを見せたが、それよりも卓上の菓子に目を惹かれたようだ。
「王族でもあまり氷菓子を口にすることは叶いませんのに」
「魔族は皆魔法が使えますので。夏はかなり出回っているのです」
そう言ってシンシアは菓子にかけられていた保冷のための魔法を解いた。その際に冷たい空気が流れていく。
「溶けてしまわない内に食べてしまいましょう」
王妃とアリアーヌは早速スプーンを手に取った。
一同は今、王妃の部屋の庭にいた。王妃は最初アリアーヌが同席すると聞いて驚いていたが、ならばと自分の庭園を提案してきた。
城内では王妃とアリアーヌの母はあまり仲が良くはないことになっている。実際に側室である彼女は王子を生んだ王妃のことをこの上なく嫌っていた。憎んでいたと言ってもよい程だ。
アリアーヌはむしろ王妃とカルティスのことを同じ王族として密かに慕っていたのだが、母の目があったために表に出すことはできなかった。
共有の場所であからさまに王妃とアリアーヌが仲良くしていようものなら、いい顔をしないだろう。なので今回のお茶会はこっそりと。侍女も衛兵も口の軽くない者を選んで開かれた。
幾ら魔法で風を操っていても、屋外なので屋内よりも暑い。シャーベットだけでなくケーキも早い内に食べてしまわなくてはならない。
シンシアもスプーンを取った。その時、生温い風が頬を撫でる。
「え……?」
涼やかな空気に割り込んできた、魔力を孕んだ風。本来、この国では感じることのない筈のもの。それが一同のスプーンを掠めて行った。
「――――食べないで!」
反射的にシンシアは叫んでいた。王妃とアリアーヌはぴたりと手を止めたが、2人は既にスプーンを口に運んでいた。
「スプーンを口から出して! 早く!」
2人は訝しみながらも彼女の言う通りにした。だが次の瞬間、咽喉を押さえて苦しみ出す。端正な美貌を歪め、喘いでいる。白い首筋には、黒い線が幾筋も浮かんでいた。
「リム、辺り一帯の風に混じる水の軌跡を追ってください!」
「御意」
空気中に漂う僅かな水を操り、リムは辺りの様子を窺う。
侍女たちが尋常ならぬ様子に駆け寄ってくる。シンシアは空を仰いだ。
「精霊たちよ! 私の声に応えて!」
それだけで数多の精霊たちが集まってくる。彼らははしゃぎながらシンシアを取り囲む。
「これは何? どのような想い?」
《呪いだね。相手の声を奪う呪い。咽喉を切り裂き、最後には相手の命を奪うもの。放っておいたら、3日で死ねるよ》
《姫、誰かに呪われるようなことした?》
歌姫は歌うことができなければただの魔術師だ。術者はそれを見越してこの呪いをかけて来たのだろう。
「私が歌姫であることを知っている者……魔力が同じだった。ルノーシェでも私を殺そうとした者」
リムが貌を強張らせる。空に浮かぶ精霊のひとりが苦笑した。
《女の嫉妬って、怖いねぇ》
「……全くね」
ふとシンシアは視線を感じて貌を上げた。王妃の侍女からは不安の、アリアーヌの侍女からは恐怖の、シンシアを見据える視線だ。衛兵たちも疑惑の眼差しを送ってきている。
いきなり帰ってきたシンシアが用意した菓子を食べて2人は倒れたのだ。疑われるのも無理はない。
「シンシア様。王妃様は……」
「呪いを、かけられました」
「呪い……っ!」
侍女たちから悲鳴が上がった。誰かが医師を呼ぼうと駆けて行こうとしたのをシンシアは押し留める。
「医師では呪いを解くことはできません。私が解呪します」
「そう言って、姫様を弑そうとするのではないの!?」
疑心暗鬼に囚われた1人の侍女の言葉に、シンシアは唇を噛んだ。王妃に伸ばしかけていた手を止める。
「そんな! シンシア様がそのようなことを」
「でも、シンシア様は追い出された王女よ。呪いをかけたのだって……」
侍女は疑いの眼差しを鋭くさせる。シンシアは貌を強張らせた。
他の侍女も、衛兵も、冷たく鋭い視線でシンシアを見つめる。
そのような空気を切り裂いたのは、リムだった。
「お黙りなさい」
彼女の言葉に、侍女は言い返そうと口を開いた。だが碧の瞳に気圧され、押し黙る。
「シンシア様はこのお二方に、スプーンを口にするなと、そう口にされたのです。もし仮にシンシア様がお二方を弑そうとするのであれば、そのようなことを口にすることはおろか、このように人目のある場でことを起こすという愚を犯す筈がありませんわ。夜、お二方のお休みになられていらっしゃられる時間に動かれる筈でしてよ」
それもそうだと何人かは視線を和らげた。件の侍女は未だ射殺さんばかりの視線を送って来ていたが、他の侍女に窘められる。
「シンシア様、解呪を」
強張っていた肩に、柔らかい手が添えられる。びくりと、シンシアは貌を上げた。穏やかに微笑む人魚の面差しに、力が緩む。
「大丈夫ですわ。だってシンシア様はわたくしたちを受け入れ、陛下を愛された方ですもの。大丈夫、わたくしたちはいつもシンシア様の味方ですわ」
「リム……」
「大丈夫ですわ。シンシア様」
シンシアはほうと息を吐いた。目を閉じ、気持ちを落ち着かせる。
絡み合う黒い糸のような呪いが、シンシアの目に映っていた。それを解きほぐすため、魔力を伸ばす。
「ささやかな綻び 糸の先 ゆるりゆるり解けていく……」
黒い糸を端から解いていく。絡まらないように、少しずつ。
誰かを呪うのは、冥く沈んだ想い。その想いは術者本人を滅ぼす脅威にもなり得る。この呪いが解けて術者本人を蝕んでしまわないように、シンシアは精神の全てを傾けていた。
どれ程の時が経っただろう。身体が怠い。冥い想いに意識が持って行かれそうになる。
今この瞬間、意識を明け渡せば楽になれるだろう。だがそうすれば、王妃の命もアリアーヌの命も消えてしまう。それだけでなく、シンシア自身も無事では済まない。
最後の絡まり。強い想いに、シンシアは触れる。
《…………どう、して……》
沈んだ声が脳裏に響いた。意識の中、シンシアはぼんやりと口を開く。
《ずっと、想っていたのね……》
《…………》
相手が動揺するのがわかった。今シンシアは呪いを通して術者に語りかけている。
《ずっとずっと想って……だから、私が邪魔だった》
《……そうよ》
憎しみが一気に雪崩れ込んできた。何処までも冥いそれに、シンシアは呑まれかける。
《ずっとずっとずっと――――誰よりも想っていたのに……》
シンシアは目を伏せた。白く細い手を握り締める。
《そう……でもね》
シンシアは真っ直ぐに絡まりの向こうの相手を見据える。
《でもね――――私の大切なひとたちに手を出すことは許さない》
指先から溢れ出す白銀の光。闇を切り裂くそれは、黒い糸を溶かしていく。
《私の家族に手を出さないで》
瞬間、冥い闇を光が灼き尽くした。
「――――シアっ!」
自分の名を呼ぶ声に、シンシアは目を開いた。霞む視界の中、紅い煌きが目に入る。
「……オーディン」
「シア……!」
オーディンは息を吐いた。シンシアは目を瞬かせ、何処か疲れたような面差しを見上げる。
「オーディン……?」
「夕方近くにお前が部屋に運ばれてきて、リムから呪いの話を聞いた。キルト王妃とアリアーヌ王女の解呪がなされているのに、シアが目覚めないと」
白い肌が青くなり、呼吸も浅く、もしかして目覚めないのではないかと気が気でなかった。
「目覚めてよかった……!」
「……ご迷惑をおかけしました」
抱き締められたシンシアは項垂れた。彼を癒す存在である自分が彼を追い詰めては意味がない。
オーディンは微笑を浮かべるとそんなシンシアの漆黒の瞳を見つめた。
「あまり無茶をするな。まだ歌を貰っていないというのにお前がいなくなるのは嫌だ」
ぽふんっと。シンシアの白い頬が真っ赤に染まる。耳まで染めたシンシアが可愛い。オーディンはよしよしと頭を撫でた。
シンシアは暫くされるがままだったが、不意にばつが悪そうな貌で見上げて来た。
「すみません……少し、血をください」
魔力を大量に消費してしまった。回復にはかなり時間がかかりそうだ。
それほどまでに、彼女の想いは強かった。
彼女とは誰でしょう?




