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昼間でも暗く深い森の奥。不気味で地元民さえ滅多に立ち入ることのない森の前に、父娘は立っていた。
「……シア、ここは何処なんだ?」
「秘密です」
シンシアはそう答えると迷いなく森の奥に突き進んだ。エディオは不気味な森に躊躇いを見せたが娘の後に続いて足を踏み出す。
メティスがいた時には見えていた精霊。だが彼女が息を引き取ると同時に彼の目には見えなくなっていた。歌姫の加護が絶えたからだ。
だから、今の自分には彼らの姿を見ることはできない。彼らの声を聞くこともできない。
だというのに、森の中を歩くエディオは肌を撫でる風に彼らの気配を感じていた。
「――――お父様は以前、歌姫を喪わせてしまった自分には精霊の加護を受けることができないと仰っていましたね」
独り言のようにシンシアは呟いた。木々は自ら道を示してくれるため、森の中を歩くことなど造作もない。ただ先日まで臥せっていて、その上慣れない獣道に苦戦する父を気遣いつつ、ゆっくりと歩く。
「見えていた筈の姿が視えない。聴こえていた筈の声が聴こえない。お母様の御加護が絶えてしまったのだと」
「ああ。私にはもう、彼らを感じることはできない」
大切な歌姫を、喪わせてしまったからな。
「……本当に?」
「本当だ。現に今も見えないし、聴こえない」
「嘘」
自嘲気味に嗤う父を、シンシアは澄んだ漆黒の双眸で見つめた。嘘だと、彼女は繰り返す。
「シア?」
「歌姫の歌は無条理の愛。永遠に紡がれる調べ……たとえ、歌姫の命が消えてしまったとしても、途切れることはない」
滔々と語られる言葉に、エディオは顔を歪めた。ならば何故、感じることができない。
メティスの遺骸が歌姫の手によって運ばれるのと同時に、見えていた世界が変わった。
鮮やかに色付いていた世界は灰色に染まり、光は消えてしまった。
「お父様は見えないと思っているだけ。聴こえない、感じることができない、ただそう思っているだけ」
本当は、彼らを感じている筈だ。歌うようにシンシアは言葉を紡ぐ。
「枯れたキルトに恵みをもたらしたのはお父様を愛されたお母様です。ご存知ですか? 本当に今お母様の御加護が絶えてしまったのならば、キルトの大地は今頃お母様がいらっしゃる以前の姿に戻ってしまっています。本当に大地が以前のように実りあるものにするには、あと数年は神の加護が必要なのですよ」
思いがけない話に、エディオは目を瞠った。
メティスが現れる前のキルトは旱魃により乾き切った大地が広がり、民は喘いでいた。貴族はそのような状況を顧みることもなく、権力と富を得ることだけを考えていた。
エディオは何度か城を抜け出し、暗く沈む国の姿を見たことがあった。餓えや生活に苦しむ民を救いたいと、何度強く想ったことか。
今、危機は過ぎ、民は慎ましくとも穏やかな暮らしを送っている。政も大分安定し、あと2、3年もしないうちにカルティスに王位を譲る予定だ。だがそれは、大地に恵みが戻ったからこそ成し得たことだった。
死してなお、メティスはキルトを護ってくれていたというのか……?
シンシアは柔和に微笑んだ。
「だから、お父様には今でもお母様の御加護があります。お父様は、お母様に愛されていらっしゃるのです」
暗く生い茂っていた森に光が差す。
いつの間にか開けた場所に出ていた。先程までとは打って変わって日の光が穏やかに降り注いでいる。そこには白い花が辺り一面に咲いており、そのただ中にぽつんと白い石が覗いていた。
「なんだ……?」
近づいてみると、そこには文字が連なって彫られていた。
メティス・ディーヴァ・クリスフィア
夜の歌姫の紡ぎし人の調べ ここに眠る
愛しいひと、歌姫メティスの名。
「ここに来たことは婆様には秘密です。本当は、掟で禁じられているのですから」
シンシアの言葉に、エディオは頷いた。
メティスの遺骸は亡くなってすぐに歌姫たちの手によってキルトから運び去られた。エディオはキルト王族の墓に彼女の遺骸を入れようとしたのだが、歌姫たちはそれを許さなかった。
『掟により、歌姫はこちらで埋葬いたします』
ずっと、彼女が何処に眠っているのか知りたかった。シンシアなら知っているかもしれないかと思って訊いても、娘は頑なに答えることをしなかった。だから、彼女の墓に参るということは今日が初めてである。
漸く、彼女の許へ来ることができた。
「メティス……!」
墓標に手を伸ばすと、ひんやりと冷たかった。これが現実なのだと、伝えてくれる。
可憐に揺れる白い花たちは墓標を護るように咲いている。
その花の中、ちょこんと座る小さな少女の姿に、エディオは気付いた。柔らかく波打つ髪も、肌も、見慣れない衣装も、何もかもが白い少女。ただ瞳だけが澄んだ琥珀色だった。どうやら精霊のようだ。
「あ、よるのおひめさま!」
舌足らずな声で嬉しそうに少女は笑った。シンシアが笑い返す。
「こんにちは、メティ」
「こんにちは」
「この世界には慣れた?」
「うん! みんな、いろんなことをおしえてくれるの!」
無邪気に笑う少女を、エディオは信じられない思いで見つめた。幼さ残るが、端正な顔立ち。目の前にいる娘――――いや、その母親そっくりの面差し。
少女はきょとんとエディオを見上げた。
「だぁれ?」
「え、あ……」
人間からすれば、王も平民も変わりない。気紛れで興味を示すか、魔術師や歌姫と関わらない限り人間はただの人間だ。
それに彼女は何者なのか。何故、メティスと同じ顔をしているのか。
どう返答したものかと困惑するエディオを、少女は真っ直ぐに見上げた。
「にんげん。まえにもわたしとあったことがある? なつかしい……」
精霊は目を閉じた。閉じられた目蓋から、透明な雫が伝う。地面の上で弾けた涙は、そのまま白い花へと姿を変えた。
驚いたエディオはシンシアを振り返る。
「歌姫が眠る大地には新たな命が芽吹きます。その命は歌姫が姿を変えて精霊となったもの」
彼女たちは歌姫として生を忘れ、精霊としてまっさらな状態で生まれ変わるのだ。
生まれ変わった彼女たちは歌姫であった時のことを忘れても、歌姫として誰かに己が生涯を捧げた恋をしたことを魂の奥底で覚えている。誰かを愛し、愛されたことを知っている。
愛を知った彼女たちは、今度は精霊として世界を慈しみ、人々を愛する。何処までも深く身を焦がすような喜びを知ったから、忘れてしまっていても愛した者のいた世界を愛そうとするのだ。
「では、この子は……」
伸ばしかけたエディオの手を、シンシアは阻む。
「メティ、こちらにいらっしゃい」
少女はエディオから離れてシンシアの傍らに立った。エディオは恨めしそうにシンシアを見る。
「この子に触れてはなりません。生まれたての精霊は脆く、強い感情を持つ者が触れたのならその者の意識の呑まれて消えてしまうほどに儚い。ましてやこの子はお父様の愛したお母様の欠片。お父様は平静を持っておいでではありませんでしょう?」
シンシアは白い精霊と、墓標とを見下ろした。夜色の瞳に見つめられ、精霊は嬉しそうに破顔する。
「彼女は昨年、漸く芽吹いた命なのです。どうか、手折らないでくださいませ」
「……わかった」
すぐ目の前にいるというのに触れることができないというのはもどかしいが、再び失うことに比べたのならば遥かにましなことだろう。ここはもう1度出逢えたことに喜ぶべきだ。
たとえ、彼女が自分のことを覚えていなくとも。
「あなた、だぁれ?」
無垢に問いかけてくる彼女に、エディオは微笑した。
「エディオだ」
「……あなたが、えでぃ?」
少女が口にしたのは、かつて彼女だけに許した愛称だ。どういう意味かと尋ねると、少女は墓標の後ろを占めす。そこにも、文字が刻まれていた。
私の王 愛しいエディへ
私は貴方を愛しています
いつまでも ずっと 永遠に
「苦労しましたよ。他の歌姫には見えないように刻んで、文字に気付かれないように呪いをかけることは」
それでも母の最期の願いであったから、シンシアは掟を破るということであっても父をここに連れて来たのだ。
「あのね、うたひめはあいはわすれないの。たとえ、しんでうまれかわっても、あいはおぼえてるの」
少女はぎゅっと胸元で両手を握り締めた。
「わたしもおぼえてる。あいをささげられて、うれしかった。あいしてもらえて、ほんとうにうれしかった」
幸せそうに頬を緩め、優しい琥珀の瞳で王を見つめる。
「あなたは、うれしかった……?」
愛おしかった。その存在が。
哀しかった。その死が。
そして何より、嬉しかった。彼女を愛し、彼女に愛されることが。
「私も嬉しかったよ、メティ」
名を呼ぶと、彼女は嬉しそうにはにかんだ。ちょっと困ったような、嬉しそうな、笑顔。
懐かしい……
そう思って、エディオは苦笑した。
ずっと、彼女を想い出すことが辛かった。自分や国を救ってくれたというのに、自分は彼女を護ることができなくて。幼いシンシアには独り哀しい想いをさせて。
娘もいなくなった後は、愛するひとのいない灰色の世界に生きる希望を持てなかった。次第に気力と共に生気や体力も失い、臥せるようになってしまった。
今は、彼女のことを懐かしいと、彼女に出逢えてよかったと、彼女を喪って初めて穏やかな気持ちで想えた。
琥珀の瞳は、エディオと同じだったりします。




