ⅲ.
日が傾き始め、西の空が紅く染まっていく。血を垂れ流したかのような紅に、シンシアは目を細めた。
「そろそろ戻りましょう」
「はい」
目的の菓子も買い、シンシアはご機嫌だった。手にした白い箱を見てはふにゃりと頬を緩める。甘いものは疲労を和らげる。帰ってオーディンとお茶をするのだ。
不意に、シンシアは動きを止めた。
「……?」
辺りを見渡し、首を傾げる。シンシアがついて来ていないことに気付いたアルフが気遣わしげに振り返ってくる。
「どうかしましたか?」
「……何だか、変なのです」
「変?」
「魔力の、流れが……」
ほんの僅かだが、魔力の流れが澱んだ。普通なら気にもならない程度のものだが、シンシアは何か引っかかった。何だか、胸騒ぎがする。
ぎゅっとシンシアは胸元を押さえた。鼓動が速くなる。
《……なにかくるよ》
《あぶないもの……こわい》
《近付いてくるわ》
《冥い……澱んだ、ものだ》
耳に飛び込んでくる無数の『声』は自分にだけ聴こえるものだ。訝しむアルフを制し、シンシアは耳を澄ませる。
危ないものは何?
冥く澱んだものは、だれ……?
《――――逃げて!》
はっとシンシアは貌を上げた。同時に黒い疾風が駆け抜ける。
魔法により生み出された、明らかに人為的な風。悪意を孕んだそれに取り囲まれ、シンシアは貌を強張らせる。
「猫姫!」
呼ばれて視線を向けると、アルフが風を掻き分けるように手を伸ばしてきた。魔法を使えばこの風を突破できるかもしれない。けれど、ここはたくさんの者がいる街のただ中。今の彼女では周りにどれ程の被害をもたらすかわからない。シンシアは護衛の青年に向けて、風を掻き分けるように手を伸ばす。
あと少しで届く。だが風はより強まり、シンシアの手を弾いてしまった。
「あ……っ!?」
漆黒の髪が風で巻き上げられる。風が強すぎて、辺りがよく見えない。
足が地面から離れる。シンシアは1度歯を食いしばると、薔薇色の唇を開いた。
「――――……」
音にはならなかったが、これでいい。ほっと息を吐いた瞬間、意識が暗転する。シンシアは1日の疲労と相まって、思わず意識を手放してしまった。
脳裏に主人の端正な面差しが思い浮かぶ。帰った時、怒られたら素直に謝ろう。そんなことを考えて、妙に余裕があることが何だか可笑しかった。
意識が完全に落ちる前、シンシアは誰かの嗤う声を聞いた。
風が収まった時、シンシアの姿は街から消えてしまっていた。
「猫姫っ!」
アルフは辺りを見渡す。犬の獣人である彼は他の種族よりも嗅覚に優れている。なのに、シンシアの香りは全く残っていなかった。
突然の風によって騒然となっている街。近くの屋台は風の影響で酷い惨状だった。
アルフはシンシアの立っていたところに落ちている菓子の入っている箱を見出した。帰って王と食べるのだ。そうあどけなく笑っていた少女はここにはいない。
「くそっ!」
アルフは城へと走った。
* * * * *
シンシアが何者かによって攫われた。
不機嫌絶頂のオーディンを前に、護衛の任に就いていたアルフは半ば命の覚悟をしていた。
「で、風によってシアは攫われたと?」
「左様でございます」
「この間は勝手に出て行ったかと思えば、今度は誘拐に遭うとか……!」
ふざけている。低く地を這うような声で唸る主君に、側近たちは震えあがる。
苛々とだだ漏らしになっている魔力を受けて、窓硝子に罅が入る。かたかたと室内のものが動き出す。
「陛下、落ち着いてください」
「落ち着いている。ただむかついているだけで」
「ならそれを鎮めてください」
リムに諭され、オーディンはむすっとした貌で押し黙る。この城でオーディンに意見できるのは、今やリムとエドワード、ユリアくらいである。先王夫妻はオーディンの成人と共にさっさと王位を譲って隠居してしまった。
そのような時だった。
「――――こんばんは」
何の前触れも音も無く、エルディアナが執務室内に現れた。オーディンは落ち着いて動じていなかったが、城の者の間に動揺が走った。ルノーシェの城には強固な結界が張られている。その前に人間がクレスク河の結界を超えて来ることなど、できない筈なのだ。
「どうやって入ってきた」
「何だか凄く怖い気配がしたからそれを追って入って来たのだけれど……まずその殺気を私に向けないでくれる?」
エルディアナは執務机の前に立つと、真っ直ぐにオーディンと向き合った。物怖じしない彼女の態度に、エドワードはこのような状況下だというのに感心した。
「シアから伝言を預かったのよ」
「シアから!?」
「私はシアの眷属だから、多少離れていても意図して声に魔力を載せれば届くのよ」
誇らしげに胸を張るエルディアナの言葉の内容が、オーディンは何だか面白くなかった。いらだちを募らせる魔族の王を一瞥し、エルディアナは呟く。
「……まだ契ってなかったんだ」
気に入っているみたいだったんだけどな。ぼそりとした呟きは近くにいたオーディンにしか届かなかった。彼女の真意が解らず見返すと、仄暗い翠の双眸は何もなかったかのように眩い翠へと変わる。
「攫われた程度でどうこうなるシアではないけれど、ただちょっと、今回は危険」
「危険?」
エルディアナは端正な美貌を歪めた。忌々しげに吐き捨てる。
「シアが何者かを知った上で攫ったようであるから」
シア、ぴーんち!
怒ったオーディンは怖いのです。
なので、誘拐犯の行方がどうなるかちょっと楽しみだったり。




