ⅵ.
*4/27 改行入れてみました。
オーディンが部屋に戻った時、シンシアは深い蒼の薄絹でできた寝間着を纏って寝台の上で寝そべって本を読んでいた。彼女は主人の姿に気付くと、身体を起こしてふわりと微笑む。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。城内はどうだった?」
いくら遠見で様子を見ていても、彼女の心情まではわからない。彼女は読んでいた本を掲げて見せた。
「ずっと読みたいと思っていた薬草図鑑を、サンティが貸してくださいました! 今度人間領では既に絶版になっている魔導書も貸してくださるという約束も致しました!」
「それはよかったな」
「はいっ!」
尻尾があればぴんっと立っていたかもしれない。それ程までにシンシアは喜んでいた。
オーディンは煌く真紅の双眸から視線をそらすと、寝台にも広がる緩やかに波打つ黒髪を掬い上げ、指に絡める。
「図書館のことなんだが……悪かったな」
「はい?」
何故謝られたのか。図書館のことで謝られることなどあっただろうか。ぱちぱちと目を瞬かせ――――あ、と思い出す。そう言えば、誰かに本を上から落とされたのだった。
シンシアがオーディンの傍らにいることを好く思っていない気位の高い令嬢の仕業だろうとのことだったが、サンティが読みたかった薬草図鑑を貸してくれたことが嬉しすぎて、すっかり忘れてしまっていた。
「確かに、あれは貴方の日頃の行いのために起こったことのようです」
「……普通、そこは否定しないか?」
「貴方の普通が私の普通とは限りませんので」
嫋やかでいながらもきっぱりと言い放つシンシアに、オーディンは押し黙る。
「ですが、貴方が気に留められる必要はありません。あの程度のこと、魔術師であった私には脅威になりえませんので」
魔族と違って、魔力を持つ人間はごく一部――――大国アウルレクスでも約50人、小国では2、3人いればいい程しか存在しない。
大抵は宮廷に仕えて魔術師と呼ばれる彼らは、神の眷属であり世界に満ちる自然そのものである精霊の加護を得て、魔法を使用している。加護の程度により保有する魔力には個人差があるのだが、魔術師は皆、世界に愛されているとされていた。
世界に愛されている彼らは、知らず知らずのうちに災いを回避する。それは、精霊たちが愛する者を護ろうと力を揮うからだ。
「それにこう見えても、私は弱くはありませんよ。一応、戦闘経験もあるので。ご心配なく」
晴れやかに笑うシンシアに、オーディンは眉を顰める。
「だがあまり無理はするな。お前はまだ子どもなんだ」
「では、無理にならない程度に無茶を致しますね。子どもらしく」
あどけなく笑う少女。不意にその真紅の双眸から感情の全てが消え去る。
「貴方の枷や障りになるつもりはありませんので。飼い猫は、偶に愛して貰える、それだけでよいのです」
私は貴方の癒し。着飾り、与えられた玩具で戯れて貴方の目を楽しませるもの。そんな私を、貴方はただ愛でるだけでよいのですよ。
彼女の少女らしい可憐さや女性らしい柔らかさはそのままだというのに、その眼差しだけは何処か他人行儀めいていて、酷く冷たかった。
* * * * *
草木も眠る真夜中。
彼女は寝台に腰掛けてぼんやりと闇に沈む室内を眺めていた。
月が替わったばかりのため、静謐な光はここにはない。だが彼女の漆黒の瞳には昼間と同じように映っていた。
闇に溶け込む深い蒼の寝間着から覗く白い足が無造作に組まれる。肌蹴た寝間着から覗く細く長い足や華奢な肩から鎖骨は、闇の中でも存在を誇示する艶めかしさを漂わせている。誰も見ていないことをいいことに、彼女は平然と真珠の肌を曝していた。
寝台に手を突いて虚空を見つめていると、脳裏に甦る声がある。
『貴女だけは変わらず、そのままでいて欲しいんだ』
王という存在に惹かれて近付く者はいる。けれど、彼の威に畏怖して誰もが頭を垂れて距離を取る。
王という名の、孤高の存在。跪く者はあっても、オーディンという1人の存在と寄り添える者はいない。
『だから、その純粋な無垢を持ったままで、陛下の傍にいて欲しい』
真摯過ぎる眼差しで、魔女はそう言った。
畏怖されていても、オーディンは多くの魔族に慕われている。王位に就いてからはアウルレクス以上の実力主義の者の多い魔族の中で、あまり魔力が強くなく他者の力に怯える者でも生きていき易いように政策を立ててきた。またルノーシェ領と人間領との狭間で諍いがあると、すぐさま憤る魔族を鎮め、意気がる人間をその威をもってして黙らせた。今も魔族と人間が共にあれるように人間に非友好的な魔族たちに呼び掛けているのだという。
多忙を極める王が少しでも癒されるように、寄り添える者を王に近しい者たちは探していた。そしてある日突然王が連れ帰った人間の少女を見ても、何も言わず王の意に従った。
「……言われずとも、私が変わることなどはない……」
漆黒の双眸で眠る魔族の王を見下ろす。臣下の前では決して見せることのない疲労の滲む美貌に、彼女は息を吐いた。何故これ程までに彼が疲弊しているのか、聞かなくとも風が教えてくれていた。
「いくら貴方が素晴らしい王であろうとも、今の貴方は私の王足り得ない。いくら周りが望もうとも、私が本当の意味で貴方のものになることはない」
密やかな呟きは眠る彼には届かない。だが彼女は構うことなく言葉を紡いだ。
白く細い指が白金の髪を梳く。険しかった寝顔が安らかなものとなる。
「けれども……このような時だけでも、貴方のものであったのなら……」
闇色の双眸の奥に、熱が揺らぐ。
「――――」
薔薇色の唇から洩れた声は、音になることはなく。熱い吐息となって静かに夜闇に溶けていった。
暫く無言で王の顔を見つめていた彼女だったが、はあっと半ば大袈裟に彼女は息を吐き、乱暴な手付きで射干玉の髪を掻き上げる。
「今の私には詮無きことよ……」
そう言って、彼女は薔薇色の唇を開いた。一拍を置いて、高く澄んだ声が旋律を紡ぐ。
今宵も彼女は歌う。民を想う王に、安らぎをもたらすために。




