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私には父親がいない。
物心ついた時からずっとそうで、父の顔は写真でしか見たことがない。
名前も知らないというのは、父の話題を出すと、いつも母が悲しそうな顔をするから、子供の頃に聞くのを止めて以来一度も口にしたことはなかった。たしかその時名前を聞いたような気もするけど、何せ十年以上前のことだ、忘れてしまったっぽい。顔は覚えてるのになぁ。
祖父母に聞いた話では、私を身ごもった母を置いてどこかへ蒸発したらしい。その父のことに対しあんまりいい印象を持っていないということもあり、また女手一つで私を育ててくれた母が、【父親】がいないことを負い目に感じないよう努力してきたことも知っているから、ずっと父について深く知ろうとしないようにしてきたのだ。
育ててもらった記憶すらない父親がいないことは別に寂しくなかった。
いつかもし会うことがあっても、父親面なんかしたらぶん殴ってやろうと思ったりもした。
だから本当は、『おとうさん』なんて呼ぶ気もなかったのに。
そうだ、ただ名前を知らなかったから、反射的にそう呼んでしまっただけで――――。
榛色の長い髪は肩より下、肩甲骨ぐらいまで伸びている。整った顔立ちは写真で見た父親と似ていて、背丈は170cmくらいだろうか。空色の碧眼を持った、なんというか、美丈夫だった。イケメンという言葉でくくってはいけない気がするくらい、かっこいいし、綺麗な人。
着ているものはファンタジックな衣装だ。なんというか、神官とか神父とか、そういう類の職についていそうなヒトが着るような足元までを覆う白い法衣。それがなんとも現実離れしていて、違和感を持たせた。
それでも細やかな意匠が施されていてどこか高級感が漂うような衣類に身を包んだ『父』に似たその当の本人はと言えば、私を真正面に捉えて双眸を見開いていた。
驚いている、のだろうか。鼬とは違って表情の変化を隠そうとしない彼に、私は自分の手で口を塞いだ。
そんな私を見て、彼は数歩前まで近づき、私の頭の先から足元までを無遠慮にじっと見ると、ものすごく怪訝そうな表情をして口を開いた。
「一体どうしたんだ、その姿は」
「へ?」
訝しげに訊ねてくるその人に、私は固まった。
「いや、そもそもどうやって此処に? いくら君でも、この場所に立ち入ることは出来ないはずだろう」
「???」
何を言っているんだこのヒトは。
「あ、あの……? すみません、どこかでお会いしたことあります、か?」
「え?」
ないだろう。ないはずだ。だって私はRF-COにログインしてからまだ鼬とNPC以外のプレイヤーとは遭遇していない。いや、そもそも『此処』とは一体どこだ?
私の問いに、彼はきょとんとした表情を浮かべた。その表情には邪気がなくて、少しだけ幼く見えるのが何だか意外で、顎に手を添えたまま「ん?」と軽く小首を傾げる。でも父親の顔に似てるせいで憎たらしく感じるのは何故だろう。
ていうか、わかってはいたけど、――――。
(当然だけど、『おとうさん』じゃあない、か)
それもそうだ。小さい頃に見た写真。もう十年以上も前だ。その時と変わらない若い姿でい続けるなんて無理に決まってる。だから、そう、この人は父親に似てるんじゃなくて、父親の若い頃に似てる人。
でもさすがに、いきなりすぎてちょっと心臓に悪かった。
胸に手を当てて息を吐いて動悸を静める。
真っ直ぐに彼を見据えると、彼はまだ怪訝そうに眉を寄せて私に問いかけてきた。
「君は、ソウじゃないのか?」
また【ソウ】か!!
「わ、私はソウだけど【ソウ】じゃありません! って言葉で言うと余計ややっこしいな! ええと、なんだ、私はその【ソウ】のデータを偶然引き継いだだけで、同じ名前を使ってるんですけど違う人物でして本名は奏って言うまったくの別人です!」
「…………」
ノンブレスで一気にまくし立てるように言ったせいで、呼吸が乱れる。ぜぇぜぇと肩を揺らしていると、彼はまた眉を寄せて難しい表情で考え込んでしまった。
「……えぇと、つまり君は――――あぁそうだ、【アオイ】ではないんだね」
「アオイ……そ、そう! 違います! 【蒼依】さんじゃないです!」
思いっきりカナ口調だった気もするけど、蒼依というのは確か鼬が言っていた【ソウ】の本名のはずだ。
こくこくと頷いて肯定すると、彼は腕を組んで「それもそうか……」とどこか寂しげな様子で視線を落とした。
う。鼬といいこの人と言い、どうして【ソウ】に関わりがあった人はそんな顔をするんだろう。なんだかこっちが悪いことをしたような気分になるじゃないか……。
「――――。成る程、予言に出ていた出逢いの予兆はこのことだったのか」
「???」
なんのこっちゃ。今度は私が首を傾げる番で、何もない空間に立ち込める霧の中、私の前に立つ彼は私を見ると微笑を浮かべ、胸に手をあてて紳士のように一礼をする。
「改めて自己紹介を。私の名前はリヒト。公に出来ない身の上である為、ファーストネームのみの紹介で割愛させていただくことを容赦してほしい」
「う、あ、はい。えっと、ソウ……です」
「君はカナデというのだったね。差し支えなければカナデと呼んでも構わないだろうか」
丁寧な仕草と、柔らかい微笑を浮かべる彼――――えぇと、リヒト、さん? を見て、私は思わず視線を逸らしてしまう。いやだって、男の人なのに綺麗で、それでいて紳士的って、なんだ二次元に迷い込んだのかと思うくらいの待遇で心臓に悪い。
鼬もイケメンだったけどほとんど無表情だったから、表情がころころと変わるリヒトさんはなんだか新鮮だ。父と顔が似てさえなければ……っ!!
「えっと、はい、大丈夫です」
「ありがとう、カナデ。ところで、どうして君は此処に?」
「あ、えー……」
本題に戻すように訊ねてきたリヒトさんに、私は髪を書いて視線を霧の中にさまよわせる。
どうしてもなにも、根本的な問題があるわけで。
眉尻を下げてへらりとだらしのない笑みを浮かべながら、私は逆にリヒトさんに訊いた。
「いや、あの……此処はどこですか?」
現状が掴めないんだ!
そんな私の心の叫びを察したかのように、リヒトさんはまた少し意外そうな表情で瞬きをした後、少しだけ困ったような微笑を浮かべた。
◇
ここは、【鏡像の間】という場所らしい。
常に霧が立ち込めている場所で、暑くもなく寒くもなく、何もない。ここに入られるのは、今のところはリヒトさんだけらしい。だから私がここにいることにリヒトさんも驚いたのかー。あれ、じゃあ何で私が入ってるんだ? という疑問が浮かぶと、今度は私の事情を聞かれたので、私はRF-COにログインしたことや、その時のバグのことをかいつまんで説明した。
鼬に「アルカナ戦争のことは決して他言するな。相手がNPCでもだ」と耳にたこができるくらい言われたので、そこだけはとりあえず伏せる。
ていうかそもそも、リヒトさんは一体何者なんだろうか。RF-COのプレイヤー? それともNPC? いや、NPCはないかなぁ。濃厚な線としては、【ソウ】を知っているプレイヤーだと思うんだけど。
だとすれば、これもRF-COのシステムの一部なんだろうか。なんだろう、謎が多すぎてついていけないレベルだ。むしろいっそのこと何もかもが夢でしたー☆っていう夢オチならどれだけ楽だろう……。つか私気絶したんだし、確実に夢オチフラグじゃね。身体ごと此処に転送されたんだとしたら今頃鼬に心配かけてるかもしれないし、なんだか色々ありすぎたし、奏、あなた疲れてるのよ。うんそうに違いない――――。
「――――ナデ、……カナデ」
「はっ!」
意識が思考回路から帰還する。いかん、考えすぎると集中しすぎてしまうのは悪い癖だ。
僅かに前屈みになって私の顔を覗き込むリヒトさ――――近っ!!!
「近い!!」
真正面にリヒトさんの顔が迫っていて思わず三歩ほど勢いで引き下がる。うおおおい目の前に美丈夫の顔とか勘弁してよ別の意味で心臓が止まりかけたよ!!
そんな私にくす、と笑うリヒトさん。うぐぅ。何だか気恥ずかしいというか不意をつかれたというか、露骨な反応をしてしまった自分が恥ずかしい。
「大丈夫のようだね」
「う、はい……」
「詳しいことは解らないが、確かに君自身に及ぶ世界の理の影響が他者とは違っていることが要因なのかもしれないな……」
神妙な表情で頷くリヒトさん。やっぱり私がここにいるのはバグなのか……だけどこんなバグを連発されたらさすがに私も不安なんだけど……。
他人と違うシステムの不具合。さっきみたいに、急に意識が飛ぶようなことがあったら。今回は宿屋についてからだったからいいようなものの、これが戦闘中だったりしたら――――そう思うと、少しだけ背筋が寒くなる。
ていうか、そもそもそれ以前の問題として、此処からどう帰るかだ。
「あの、此処からどう帰ればいいんでしょう?」
「ん? あぁ……そうだね。今回は送ったほうが良さそうだ」
「え?」
リヒトさんは少し思案した後、そう呟いて私から少し離れた場所に移動した。
そして両手を合わせてすっと目を伏せる。その姿は、まるで神に祈っているかのように見えた。
『――――――――――――』
彼の口からつむがれた言葉は、私の知っている言葉ではない。
英語というよりも、ロシア語とかドイツ語とか、そっち系統にも聞こえてくる。だけど何を言っているのかはさっぱりだ。
低いテノールが詠うように唱え、光の帯がリヒトさんを囲むように生まれる。なにそれファンタスティック! その声が止まると光の帯は床に落ち、リヒトさんがそこから退くと半径1メートルほどの円となって光の渦が生まれた。なんていうか、風の強い日に木の葉が円を描いて舞うような、それと似た感じで光の粒子が渦巻いて上昇しては消えていく。
ま、魔法か何か?
「それともやっぱり夢か……」
思わずぽつりと呟くと、リヒトさんはまた少しだけ寂しそうな笑顔を私に向けた。
「成る程……確かにこれは夢かもしれない。きっと君と私が会えるのは、この場だけだろうから」
「え?」
……リヒトさんと会えるのはここだけ、ってことは、RF-COの世界にはリヒトさんはいないってこと?
つまり、リヒトさんはずっとここにいるってこと?
こんな、霧しかない場所にずっと一人でいるんだろうか。それはすごく寂しいんじゃないかと思える。
もしこの渦から私のいた場所に戻れるというのなら、一緒に、なんてことを一瞬考えてしまった。
そんな私の問いに、リヒトさんはどう捉えていいかわからない微笑を見せた後、私に近づいてきて、その手をとった。
「……私は此処でやらなくてはならないことがある。だから此処での出来事は、二人だけの秘密だ。いいね、カナデ」
そう言って、リヒトさんは私の手の指の付け根にそっと口付けをした。
といってもグローブの上からだったからそんなに嫌悪感はなく、どちらかというと紳士的な挨拶みたいな認識やら、美丈夫に接吻されたぎゃおす! という羞恥心やら、父親に似ているというなんとも形容しがたい感覚やらがない交ぜになって思考がフリーズする。
「また会おう。この夢の中で」
とん、と背中を押される。
同時に私はあの光の渦の中に身を投じ、振り返ると霧に包まれるように姿が隠れていくリヒトさんが私を見送っていた。
そして次の瞬間には、私の意識は引っ張り挙げられるように薄れていった。
結局、彼は一体何者なんだ?
その疑問だけは晴れなかった。
◇
「ん……」
ちゅんちゅん、とリアリティのある鳥の鳴き声が聞こえてくる。
窓から差し込む日差しが眩しく感じて目を擦りながら身体を起こすと、ぼんやりとしている思考が徐々に働いてきた。
見知らぬ部屋の見知らぬベッドで眠っていた私。仮想空間だけあって寝起き独特のあの睡魔の名残はない。ぱっちりと目が覚めた。
木造家屋の一室っぽく、なんだか狭い。あぁ、ベッドが二つあるからか……、ん? 二つ?
「…………」
「…………」
私が寝ていたベッドの隣。横向きになってこっちに背を向けてまだ眠っているのは、いや、うん、あの蒼い髪は間違いなく鼬、だよね。
えっ、同じ部屋なの? いや、何で同じ部屋なの? 一応私と鼬は性別のあれでこれでそれで問題があると思うんだけども、あれっ?
「――――」
私がフリーズしている間に、鼬がもぞりと寝返りを打った。
伏せられたままの目。僅かに寄せられている眉間。鎧は当然つけていなくて、内着の黒いU字ネックのシャツから見えた鎖骨が何か色気があるとか、寝顔が無防備だとか、シーツから出ている掌が意外と大きいとか、気付けば色々とガン見してしまっていた。
(……はっ! 同年代男子の寝起きドッキリやってる場合か!)
このままじゃ危険だ! 主に私の心臓が!
自分でも驚くくらい素早くベッドから降りると、隠密のスキルでも使ってるんじゃないかってくらいに気配を押し殺し私は静かに部屋を出る。
そうだ、忍者になろう。――――そんなどこかのCMのような台詞が脳内を流れる中、静かに扉を閉めた。
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「どうして男女別の部屋じゃないの! これは私がおかしいのか!?」
「いらっしゃい、休憩かい? それともお泊りで?」
「畜生NPCめ!!!!!」
二日目の朝。
宿屋のNPCを前に、私はカウンターに突っ伏すしかなかった。
夢の中でもイケメン。現実でもイケメン。なにこれ心臓に悪い。とか思ってる奏。
でも自分の身の心配をしてないあたりどっかズレてそうです。
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