高崎山と瓜生島(創作民話20)
豊後の国、高崎山の眼下に広がる豊後湾。
そこには、昔。
瓜生島、大久光島、小久光島、東住吉島、松崎島など、いくつかの島々が浮かんでいました。なかでも瓜生島はひときわ大きく、東西はおよそ四キロメートル、南北は二キロメートルほどありました。
島の西側は水深が浅く、大潮で干潮を迎えると砂浜が顔を出し、向かいの高崎山と陸続きになりました。かたや東側は豊後湾でも一番の深さ、およそ七十メートルほどもありました。
またこの瓜生島は、東のはしに大岩と呼ばれる大きな岩山があり、そのほかのところはほとんどが砂でおおわれていました。
そうしたことから島には、田んぼはおろか畑もろくになく、緑といえば砂地に、背丈の低い草が生えるぐらいでした。
ひきかえ対岸にある高崎山は、田や畑こそなかったものの緑にあふれ、びわ、栗、柿、いちじくといった山の幸に恵まれていました。
こうしたことから干潮の日を迎えると、瓜生島の人々は砂浜伝いに高崎山に渡り、果実を求めました。
ただ、高崎山にはもとより猿が住みついており、山のふもとの果実は人間たちのもの、山の奥の果実は猿たちのものと、昔から長い間、それぞれ山の幸を分け合っていたのでした。
およそ四百年ほど前。
この瓜生島には、濱村をはじめ五つの村に五百戸ほどの家があり、多くの島民が暮らしていました。
一方、高崎山では猿が増え、そのころすでに千匹を超すほどまでになっていました。そして、なおも数を増やし続ける猿は山をおりてきて、ふもとの果実にまで手を出すようになりました。
「出て行け、こん泥棒が! ふもとん実は、昔からワシらのもんやぞ」
人間が追い返そうとしますが……。
「なにをいうか。こん山んもんは、ワシらんもんやけんな」
猿たちは一歩も引き下がりませんでした。
その後も争いは絶えることはなく、島の者に怪我人まで出るようになりました。
そんなある日。
瓜生島の長は各村の長や若い衆を集めました。
「みなん衆、どげえしたらいいかのう?」
「高崎山から猿を追い出すなんち、とてもできんこっちゃしのう」
島で生まれ育った年寄りが、なかばあきらめたようになげきます。
「そんとおりじゃ。猿んヤツ、そりゃあすばしっけえし、それにかしこいけん」
瓜生島のだれもが、高崎山の猿はすばしっこいうえ賢いことを知っていたのでした。
「あん猿たちも、いのちきをしなけりゃならんけんのう」
「さあーて、どうしたもんかのう?」
集まった者たちは首をひねるばかりで、これといった名案がいっこうに思い浮かびません。
そうしたなか……。
島の長がつと顔をあげました。
「いいことを思いついたぞ。猿んヤツと取引きしちゃどげじゃろう」
「なあ、長どの。猿と取引きっちゃ、いってえどうなさるんじゃ?」
若い衆が首をかしげます。
「綱引きじゃ。瓜生島と高崎山とに綱を渡しち、ワシらと猿で綱引きするんよ。そしち勝った方が、高崎山ん食いもん、いただくちゅうことにするんじゃ」
「そげなこと、ヤツらが受けるじゃろうか?」
「なあに、名案があるんじゃ。みなん衆、ちと耳をかしちくりい」
全員をそばに集め、島の長は耳打ちするように話し始めました。
「綱引きすりゃあ、力んつええワシらが勝つに決まっちょる。じゃからな、ワシらが百人で、ヤツらは山におるもん全部ちゅうことに。そうすりゃ、ヤツらも喜んじ受くんはずじゃ」
「そげんことをすりゃあ、ワシらが負けち、もともこもねえんでは?」
「そこでじゃ……」
島の長は名案とやらを話して聞かせ、最後にこう言い添えました。
「そんうち猿んヤツ、きっとくたびるんはずじゃ。そこんところを見はかろうちな、ワシらが一気に綱を引き返すという算段じゃ」
島の長は高崎山に出向くと、さっそく親分猿に綱引きの話を持ちかけました。
「なあ、どげじゃろう。ワシらが負けたら、こんりんざいここにはこんけん」
「そん話、喜んじ受けちゃろう。じゃけんど、ワシらをえろうみくびったもんじゃのう。こん山に、仲間がどんだけおるか知らんようやな」
「猿どんこそ、ワシらをみくびらんほうがいいで」
島の長は言い返してから、
「綱ん方は、こちらで準備しちょくからな。そんじゃあ、三月後の大潮の日に勝負じゃ」
親分猿をにらんで勝負の日を告げました。
「よかろう」
親分猿がキッキッキッと笑います。
まわりにいた猿たちも、声をそろえてキッキッキッと笑いました。自分たちの勝ちが、すでに決まっているかのように……。
人間百人、猿千匹で引くゆえ、綱は長くて丈夫でなければなりません。その日から島民たちによって、昼も夜もなく、綱引きに使う綱が編まれたのでした。
綱を編みあげるだけで三カ月が過ぎ、猿と約束した大潮の日がいよいよやってきました。
勝負当日の朝。
島民らの手によって、陸続きになった砂浜に綱が渡されました。その綱の太さは大人の腕ほどもあり、長さも瓜生島の東側から高崎山の中腹までありました。
瓜生島では男衆百人。かたや高崎山には、猿の大群がすでに集まっていました。
砂浜のまん中あたりには、瓜生島の長と高崎山の親分猿が立っています。
「はじめー」
島の長の合図と同時。
島の若い衆が東に、猿の若い衆が西に向かって、いっせいに旗を振り始めます。
東側には瓜生島の百人の男衆、西側には高崎山の猿の大群、それぞれがいっせいに綱にとびつきました。
長く伸びた綱が砂浜から離れて宙に浮きます。
ワッショイ、ワッショイ。
エッサ、ホイサ。
綱は東にも西にも動きません。それもそのはず、綱の東側のはしは大岩に結ばれていたのでした。
猿たちは、みながひっしに綱を引いています。
ひきかえ島の男衆たちは楽なもので、綱を引くまねをするだけでいいのです。猿たちがくたびれるのを待って、一気に引き返すという手はずなのでした。
ところが半刻ほどが過ぎても、猿たちはくたびれるようすがありませんでした。かけ声をあげて、ゆるむことなく綱を引き続けています。
エッサ、ホイサ。
それ引け、エッサ。
それ引け、ホイサ。
エッサ、ホイサ。
それ引け、エッサ。
それ引け、ホイサ。
いつの間にやら猿は増えていました。鶴見岳や由布岳をはじめ、豊後の国じゅうから集まっていたのでした。
綱引きが始まって一刻後。
高崎山の中腹にまで伸びた綱には、千匹どころかその何倍もの猿たちがとりついていました。
それ引け、エッサ。
それ引け、ホイサ。
親分猿のかけ声に合わせ、猿たちの大合唱が高崎山じゅうにひびきわたります。
エッサ、ホイサ。
それ引け、エッサ。
それ引け、ホイサ。
エッサ、ホイサ。
それ引け、エッサ。
それ引け、ホイサ。
潮が満ち始めるころ、瓜生島にとんでもないことが起きました。
綱を結んでおいた大岩が、地面からスッポリ抜けてしまったのです。さらには大岩の抜けた穴に、海水が勢いよく流れこんでいきました。
このとき。
大きな波が豊後湾にいくつもでき、それらは津波となって、島の四方から押し寄せたのでした。
瓜生島が豊後湾に沈んだのは、およそ四百年前の一五九六年のことです。
一方の高崎山には、今ではおよそ千匹の猿が住みついています。
「こん山はワシらんもんやけんな」
どの猿もほこらしげに観光客をにらみつけ、わがもの顔で食べ物をうばいとります。
あの綱引きの日。
高崎山は猿のものとなったのです。




