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処方箋なき薬  作者: 由山
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第三章「陽だまりに潜む」


田島奈々の死の真相を追う柊は、削除された監視映像や社内ログの不自然な空白に疑念を深めていく。葵は同僚・柳沢恵から、田島が死の直前まで葵に何かを伝えようとしていたこと、誰かに怯えるような様子を見せていたことが明かされる。

かつて同じ施設で育った柊との再会の記憶が交錯する中、葵の胸には確信が芽生え始める——田島奈々は、何かを知り、それを伝えようとしていた。

突如スマートフォンにかかってきた非通知の電話。『お前も、あの女と同じになる』と告げる無機質な声。何者かが、葵に明確な“警告”を発していた。

葵にも、静かに“何か”が忍び寄っていた。


雨の日の午前。葵は、通話履歴の画面を見つめたまま、指先が冷えていくのを感じていた。

意識を逸らすように、立ち上がって給湯室へ向かう。


静かに沸き始めた湯の音が、胸のざわめきを少しだけ和らげた。

待つあいだも、スマートフォンの画面は消さずに手元に置いたまま。


「非通知」——あの一言だけの警告が、耳の奥で反響を繰り返す。


『お前も、あの女と同じになる。近づくな』


どういう意味かなんて、考えずともわかっていた。田島奈々と同じ運命を辿る。それが「近づいた者」の末路だと言わんばかりの、乾いた脅しだった。


だが、不思議と恐怖だけではなかった。


(これで……確信が持てた)


何かが確実に、社内で動いている。


心の奥底から湧き上がるのは、不安と同時に、怒りに近い感情だった。

それはかつて、誰からも守ってもらえなかったあの孤独な日々に似た、感情の火種。


「大丈夫か?」


背後から聞こえた低い声に、葵は肩を跳ねさせた。振り向くと、そこにいたのは柊だった。彼は、いつの間にか会社に来ていたようだった。


「……柊さん」


「顔色が悪い。無理はするな」


その言葉に、葵はわずかに頷いたが、何も答えなかった。スマートフォンの画面を伏せて、ポケットにしまう。


「何かあったのか?」


柊の目が細くなる。鋭い観察眼は昔と変わらない。


「……いえ。ちょっと、休憩が長くなっただけです」


あえて何も言わない。警察である彼にすべて話すべきだという思いと、誰にも巻き込みたくないという気持ちが、心の中で拮抗していた。


柊はそれ以上は追及せず、「もうすぐ監察医の結果が出る」とだけ言って、その場を去った。


(柊くんには、まだ言えない。……今は)


そう決めて、葵も再び歩き出した。




---




昼下がりの陽光が、ビルの窓ガラスに反射してまぶしく差し込んでいた。

光に包まれる中、葵のデスクの内線が鳴った。


「佐倉葵さんですか? 警察の方が来ていて、会議室へ案内するよう言われています」


事務担当の女性の声が少し緊張していた。



軽く深呼吸をして会議室のドアをノックして入った。


そこにいたのは、柊ともう一人——見慣れない男だった。


「初めまして。麻薬取締官の早乙女蓮さおとめ れんです」


明るい声色の男だった。スーツのボタンはラフに外されていて、どこか軽やかな雰囲気を纏っている。


「ちょっとだけ、あなたに聞きたいことがあってね。もちろん強制じゃないよ。任意で、ってことになってる」


「……はい」


葵が席に着くと、柊が言葉を引き取った。


「佐倉」


呼ばれて顔を上げた葵に、彼はいつもの無表情のまま書類を差し出した。


「監察医の正式な結果が出た」


受け取った葵の手が、わずかに震える。


「死因は——外部からの圧迫による窒息。自殺じゃなかった。田島奈々は、他殺だ」

柊はわずかに間を置いて、静かに続けた。


「首を絞められた後、すでに意識を失っていた彼女は……マンションのバルコニーから転落させられた。まるで、自殺を装うように」


空気が、音を立てて変わった気がした。誰かが強く息を呑むような、そんな静寂。


「……どうして、そんな」


声にならない葵の問いに、柊は視線を落としつつ言った。


「これで、自殺の線は完全に消えた」

柊は短く息を吐いてから、低く静かな声で言った。


「警察としても――田島奈々の死を、他殺として正式に捜査する」




---




「昨日見せたVPNログ、さらに掘り下げたら新しい事実が見えてきた。アクセス先のIPを洗ったら、そのうちの一部が、過去に薬物事案で警察にマークされたIT子会社につながっていた」


柊はそう言って、一枚の資料を差し出す。そこには、アクセスログのIPアドレスと企業ロゴ、簡易な関係図が印刷されている。


「田島さんが使っていたアカウントから接続されていたサーバーのホスト名と、このIT子会社が保有する共有IPが一致していた。直接の関係はないように見えるが……」


柊の指先が図の一箇所を指し示す。


「そのIT子会社——“エミスタ・ジャパン”。君の会社『オプトリス』のサブベンダーだった」


——つまり、田島奈々は偶然そのサーバーにアクセスしたのではなく、業務の中で何らかの機密に触れてしまった可能性がある。


「……薬物……ですか?」


思わず声が漏れた。早乙女は真顔で頷いた。


「あなたの会社とは直接関係ないように見える。でも、システム管理を請け負っていた」


「うちの会社が……その……」


「可能性の話だ。でも、田島さんは何かしらの形で、その“企業の裏側”を知っていた。そうでなければ、アクセスする理由がない」


早乙女が優しく言った。


「あなたは、田島さんと親しかった。彼女が話そうとしていたのは、もしかしたら、そのことだったのかもしれない」


三日前、田島が言いかけた言葉。


(“誰にも言えないことがある”)


(それが、薬物?)


脳裏に浮かぶのは、何かを訴えていた彼女の表情だった。


「……私に、何をして欲しいんですか」


「協力だよ。今後、会社内部の動きについて、何か不審なことがあれば教えて欲しい。

こちらとしても、佐倉さんの立場を理解した上で、あくまで“内側の目”として。現場にいて、空気を感じられる人の視点が欲しい。

もちろん、無理にとは言わない」


早乙女の言い回しは穏やかだったが、そこに含まれる意味は重い。


「……分かりました。できる範囲で、お手伝いします」


柊が小さく頷くと、早乙女がにこりと笑って立ち上がった。


「ありがとう。じゃあ、今日はここまで。……あ、俺は“蓮”って呼んでくれていいよ。漢字は花の方の“蓮”だから〜」


軽い調子で手を振る彼に、葵はわずかに眉をひそめた。


だがその軽やかさの裏に、どこか、鋭い観察者としての顔が見えた気がした。




---




会議室を出ると、柊が小声で言った。


「“非通知”の件。何かあったんじゃないか?」


一瞬、心臓が跳ねた。やはり見抜かれていた。

葵は逡巡の後、ポケットからスマートフォンを取り出した。


「……非通知から、こんな電話がありました」


彼女は音声メモで録音していた内容を、再生した。


『聞かれたかもしれない。気をつけろ』


『お前も、あの女と同じになる。近づくな』


音声を聞き終えた柊は、沈黙したまましばらく考え込んでいた。


「録音してたのか。……偉いな」


「……何があるか分からなかったので」


「すぐ専門の部署に回す。音声の解析で、何か分かるかもしれない」


葵はこくりと頷いた。


「佐倉。今回の件、お前はもう完全に“巻き込まれてる”。下手に動くな。危険な匂いがする」


その言葉に、葵は表情を引き締めた。


「でも……逃げません。田島さんのためにも」


柊は視線をほんのわずかに下げ、短く頷いた。それだけで、彼の内心は充分に伝わった。





---




「で、どう思う?」


車内に流れるFMラジオのボリュームを下げながら、早乙女蓮がハンドル越しに隣の柊へと視線を送る。


「……何がだ」


「佐倉さんだよ。正直、あの子は“ただの協力者”で済むタイプじゃない気がするんだよなぁ」


早乙女の口調は軽いが、その視線は真剣だった。


「彼女は田島奈々と近かった。おまけに、件の非通知まで受けてる。これがただの偶然とは思えないよね?」


柊はしばらく黙っていたが、フロントガラス越しの夕日を見ながらぽつりと言った。


「……あいつは、昔から他人の痛みに鈍感じゃない。だからこそ、無理をしやすい。巻き込まれるなら、たぶん自分の意志で、だ」


「なるほどねぇ。根っこが“正義感”なんだ?」


「そういう言い方は嫌いだがな」


早乙女は肩をすくめると、信号で車を止めた。


「まぁ、俺としては佐倉さんが“持ってる”気がする。あの非通知の録音、音声分析にはまわすけど、内容が中途半端すぎる」


「脅迫だけが目的なら、もっと具体的に言ってるはずだ」


「だよね。わざわざ“お前も同じになる”なんてまわりくどい。つまり“見てるぞ”って警告と、脅しの中間。裏を返せば、佐倉さんが“なにか近づいてる”ってこと」


柊は短く鼻を鳴らすと、助手席のファイルを開いた。

そこには今日、朝一番で報告を受けたばかりの情報が挟まれていた。


——葵が勤める会社「オプトリス」の下請け、エミスタ・ジャパン。

過去に一度、警察庁の薬物事案で名前が挙がったことのある企業だった。


「これが一番引っかかってる」


柊が差し出したのは、関係図とサーバー情報の簡易図解。VPN接続のルート、関連企業の構成、そして一部の契約書が並んでいた。


「エミスタの技術担当が、この一ヶ月で二人辞めてる。理由は“体調不良”と“家族の介護”。でも、どっちも海外転出してて連絡が取れない」


「煙のないところに火は立たない、か」


「それだけじゃない。エミスタの名義で、三年前に既に別件でMDMAの密売が摘発されてる。直接の関与は証明されなかったが、当時の営業責任者は失踪中」


早乙女が目を細めた。


「つまり、表向きはIT子会社。でも裏では、“運び屋”になってる可能性がある」


柊は無言で頷いた。




---




その日の夜、葵が就寝中に再び非通知の着信があった。


画面にはただ「非通知着信 一件」の記録だけが、冷たく残っていた。


(何がしたいの……? 私に、“何を知ってるか”確認してる?)


あるいは、次の動きに出る前の静かな脅し——そうとも取れた。


葵はしばらくスマホを見つめた後、柊にメッセージを送る。


> 【非通知からの不在着信ありました。】


すぐに「了解」の二文字だけが返ってきた。


(やっぱり……このままじゃ、何も分からない)


田島奈々が命を落としてまで伝えようとした“何か”。

自分がそれに向き合わなければ、また誰かが犠牲になる——そんな確信があった。




---




翌朝、警視庁の一室。

柊と早乙女、そしてサイバー班の分析官が集まる中、ひとつの画像がモニターに表示されていた。


「これがVPN接続ログと、田島奈々が最期に操作したファイルの位置情報だ」


地図上には、東京都内のビルが表示されていた。だが、それはオプトリスでも、エミスタでもなかった。


「ここ、レンタルオフィスになってる。法人登記は“バイオメト・リンク株式会社”」


早乙女が指差すそのビルは、IT関連企業が多く入居する新宿区の中層ビルだった。


「エミスタの別名義法人か?」


「可能性は高い。でも、面白いのはこの法人が、厚生労働省の一部業務の“外部委託先”に名を連ねてるって点だ」


「厚労省……?」


一瞬、室内に沈黙が走る。


「そう。“薬事関連情報システム”のサブ管理委託契約先の一つ。つまり——」


「薬物情報の中枢に、民間の“怪しい会社”が潜り込んでる可能性があるってことか」


柊が低く唸った。


「そして、オプトリスも、その全体システムの一部を受託している」


早乙女の声に、部屋の空気が凍った。




---




「佐倉さん、少しよろしいですか?」


社内の一角で声をかけたのは、営業部の部長・藤堂誠司だった。五十代半ば、無口で温厚な印象の人物だ。


「はい。どうかされましたか?」


「ちょっと、お話を……田島さんのことで」


応接室の奥、藤堂は静かにドアを閉めると、テーブルに手を添えて言った。


「……数日前、田島さんから“個人的に相談したいことがある”と話があったんです」


「相談……?」


葵の喉が詰まる。思いがけない証言だった。


「詳しい話は聞けませんでした。ただ、“誰かに監視されてる気がする”と、妙に怯えた様子で……」


(誰かに、監視……)


藤堂の言葉に、葵の脳裏に“非通知の着信”が重なった。


「他に、彼女が何か言っていませんでしたか?」


「“絶対に誰にも言わないでください”と念を押されました。だから黙っていたのですが……。

実は……“仕事で変な指示が来てるけど、誰にも言えない”って。で、その中に、“佐倉さんが知ってるかもしれない”って言葉があり佐倉さんを気にしてました」


「……私を?」


「はい。でも彼女、途中で口をつぐんでしまって……ただ、亡くなった今となっては、伝えておかないといけないと思って」


藤堂は、テーブルの上で組んだ手をぎゅっと握ったまま、視線を落とした。


「……本当は、黙っていようと思っていました。彼女にそう言われていましたから」


「でも、なぜ今……私に?」


葵の問いに、藤堂は小さく息をついた。


「彼女が亡くなった直後は、まだ信じられなかったんです。まさか、こんな形で……。でも、警察の方が社内に入ってきて、あなたの部署が“事情聴取を受けている”と聞いて……やっと現実味が湧いたというか……」


視線を上げ、ゆっくりと言葉を継いだ。


「佐倉さん、彼女は佐倉さんを気にしていました。……今はもう無理して聞き出すこともできない」


(……何かに気づいていた?)


田島奈々は、何かの“片鱗”に触れたのだ。

それが最期の行動に繋がった。




---




その日の午後、再び会社を訪れた柊は、葵と証言の内容を確認していた。


「営業部の藤堂が証言したのは、田島さんが死亡する前々日のことだ」


「藤堂部長が言ってたことが本当の事なら、田島さんは“何かに気づいてた”。それなら、私がそれを追わなきゃ意味がないですよね……」


「……そう思うなら、覚悟しておけ。これは間違いなく、裏に何かがある」


柊の言葉が、冷たく重く響く。


「もう一度、田島奈々の行動記録を洗い直す。社内ログだけでなく、プライベートのSNS、交友関係、すべて」




---




その夜、警視庁内の資料室。


柊は分析官から受け取った“田島奈々の最後の外出記録”に目を通していた。スマートフォンのGPSログから導き出されたそのルートは、奇妙なカーブを描いていた。


「……ここ、どこだ?」


新宿区。あるビジネスホテルの近くで、一度“立ち止まっている”記録があった。


田島奈々は誰かに会っていた可能性がある。だとすれば、その相手が“鍵”だ。


柊は立ち上がると、早乙女に連絡を入れた。


『おう、柊。どうした?』


「田島奈々が、死の前日に立ち寄った場所を突き止めた。新宿、グランセールビル前」


『グランセール? あそこ、元マトリの連絡拠点に近かった気が……』


「詳しく洗ってくれ。あと、ビル周辺の防犯カメラ。俺も今から現場に向かう」


『了解。……って、ちょっと待って。今、“厚労省の薬事局”から妙な問い合わせがあった』


「問い合わせ?」


『“バイオメト・リンク”って会社の“アクセス履歴”を警察が調べているか?って。

……どこかから情報が漏れている』


(……先に動いてきた、か)


敵が、こちらの動きを“掴んだ”ということ。

情報が漏れているなら、味方の中にも危険な存在がいるかもしれない。


「こっちも気をつける。ありがとう、早乙女」




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