第二章「再会の記憶」
IT企業に勤める佐倉葵は、同僚・田島奈々の突然の転落死に動揺する。報道では自殺とされる中、会社に現れたのは、13年前に同じ施設で育ち、今は警視庁の刑事となった柊真志だった。葵は関係者として柊から事情聴取を受ける。やがて葵は、田島が死の直前に「誰にも言えないことがある」と漏らしていたことを思い出す。
翌日、葵のもとに届いたのは、匿名のメッセージ。「あのファイルを探して」。その直後、彼女が「R-7091-A」という謎のファイルを閲覧してたことが判明するが、ファイルはすでに消去されていたあとだった。
会議室のブラインドは半分閉ざされ、外からの光が床に淡い縞模様を作っている。
「田島奈々の件は、自殺か、事故か……それとも他殺か。まだ結論は出せない。ただ、状況証拠として“おかしい”点はいくつかある」
柊の声は静かだった。だが、その眼差しには確信めいた鋭さがあった。
葵は、胸の内にひやりと冷たいものが這い上がってくるのを感じた。彼の語る「おかしさ」は、自分自身が感じていた違和感と重なっていた。
「たとえば、監視カメラ。マンションの屋上に向かうエレベーターのログが消えてる。データ上は、事件当日の夜、誰もあそこには行っていないことになってる」
「……そんなこと、あるんですか?」
「あり得ない。セキュリティ会社のログも消されていた。外部からの操作じゃない。内部の人間、しかも技術的に精通している者の仕業だと見てる」
「つまり、何者かが記録を消したってこと?」
柊は頷いた。その仕草は迷いがなく、まるで既に核心を掴んでいるようだった。
「それともう一つ。田島さんのPC。通常、社内システムにアクセスした痕跡が残るはずなのに、最終ログインが三日前の午後四時。その後、一切アクセスがない。メールも送信履歴も空白だ」
「三日前って、ちょうど私が話した日……」
葵の指先が小さく震える。
会議室の中に、乾いた沈黙が落ちる。
どこかで何かが狂いはじめていたのに、自分は何も気づけなかった。そんな思いが、じわじわと胸の奥を締め付けてくる。
「田島奈々は何かを知っていた。それを誰にも話せないまま……終わった。そういう線が強い」
柊は淡々と続けたが、どこか感情を押し殺しているようにも見えた。
柊の視線が、ふと葵の顔をとらえた。鋭いが、どこか優しさを含んだまなざし。あの頃、施設で誰にも見せなかった彼の横顔が、今になってよみがえってくる。
「……佐倉。お前は、あのときと変わらないな」
葵の胸がわずかに震えた。冷静な声。けれど、その響きには懐かしさと、少しの温もりが混じっていた。
「……柊くん。こんな形で、再会するなんて思ってなかった」
本音が、ぽろりとこぼれる。会社の会議室ではなく、警察の捜査でもなく、ただの古い友人との再会だったなら、もっと違う言葉が出ていただろうに。
「俺もだよ。けど、いまは刑事として話してる。個人的な感情は、脇に置いてくれ」
淡々とそう告げる彼の表情には、かつて施設で見せていた寂しげな影が、ほんの少しだけ覗いていた。
二人の間に流れる沈黙。だが、それは苦しさではなく、互いの記憶を辿るための時間のようにも感じられた。
「佐倉。事件の真相に、俺は本気で迫ろうとしている」
葵は小さくうなずいた。その視線は机の上のメモ帳に落ちていたが、その奥で、奈々の声がどこかから響いてくるような気がした。
外は、夕立が降り出していた。水滴がガラスをつたう音が、静かに会議室に満ちていく。東京の夏は、再会と喪失と、謎の気配を孕んで、まだ始まったばかりだった。
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「あのさ、田島さん件って、もしかして“誰かに消された”とか思ったりしない? 私だけかな、そう思うの」
「……それ、本気で言ってるの?」
葵は思わず声をひそめた。
社内の屋上にある小さな休憩スペース。空を仰げば、分厚い雲が太陽を遮っている。
「私も信じたくないけど……田島さん、ずっと様子がおかしかったの」
そう言って肩をすくめたのは、同じフロアの派遣社員・柳沢恵だった。葵より一つ年下で、昼休みによく休憩室で一緒になることが多い。
「仕事中、何度もスマホを見てたし、会話中でも誰かの視線を気にしてるようで……特に夜の残業中は、誰もいないフロアでも振り返るような仕草をしてた」
「誰かに、つけられてたとか……?」
「ううん、そういう確証はない。でも、たとえば……」
柳沢は言葉を選びながら、慎重に続けた。
「田島さん、事件の一週間前から“夜のコンビニに行けない”って言ってたの。理由を聞いてもはぐらかされて……
でも、すごく怯えた顔をしてたのは覚えてる」
葵は喉の奥が詰まるのを感じた。
“誰にも言えないことがある”
あの日、田島さんが口にしたあの言葉が、背後で静かに響く。
「それと……」
柳沢が言いにくそうに目をそらした。
「なに?」
「……ごめんね、これ、言うべきか迷ったんだけど……佐倉さんのことも、ちょっと気にしてたみたい」
「……え?」
「いや、悪い意味じゃないの。むしろ頼ろうとしてたんだと思う。でも、何か迷ってたみたいで、声をかける直前で立ち止まったり……昨日も、帰りがけに“佐倉さん、明日空いてるかな”って言ってて……」
「昨日って……転落する前?」
柳沢はうなずいた。
「話したかったこと、あったんじゃないかなって」
息を呑む音が自分のものか、風の音か、分からなかった。
“なぜ、昨日のうちに気づけなかったんだろう”
そう思っても、後悔は時間を巻き戻してはくれない。
「ありがとう、柳沢さん。聞かせてくれて……」
「警察には言ってないけど、大丈夫かな……?」
「うん……私から伝えてみるよ。」
柳沢が小さく礼を言って立ち去ると、葵はしばらくその場を動けなかった。
屋上のフェンス越しに見える東京の街並みが、いつもより遠く見えた。
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午後一時過ぎ。
会議室は一時警察の控え場所になっている。会議室では柊が資料に目を通していた。
柳沢が立ち去ったあと、柊に連絡し会うことを取り付けた。
「さっき、別部署の柳沢さんから話を聞きました」
葵は、落ち着いた声で切り出し柳沢から聞いた内容を柊に伝えた。
「田島さん、私にお話をしたかったようです。昨日の夜、“明日、佐倉さんに……”って言っていたようで……」
その言葉に、柊の手の動きが止まる。
「そうか……」
「しかも、私のことを少し気にしているようにも見えたようでして。なにか……迷ってたのかもしれない…話すべきかどうか、悩んでた……」
柊は資料を閉じた。
「つまり、田島奈々は、誰かに怯えていた。そして最後に、佐倉、お前に話そうとしていた」
柊の声は穏やかだが、どこか強い芯がある。
「今、監察医の報告を待ってる。転落の角度や打ち所、外傷の有無で他殺か事故か判断がつくはずだ」
柊は資料から一枚のメモを取り出し、差し出した。
「これ、田島奈々が使ってた社外端末のログだ。ある時間帯だけ、特定の通信が跳ねてる」
「VPN経由で、都内の中小企業向けホスティングサーバーにアクセスしてる。匿名性が高い上、普段業務では使わない場所だ。
わざと足がつかないようにしてたとしか思えない。」
「何を送ったかは……?」
「分からない。ログが残ってない。データはすでに削除されたか、暗号化されてた。通信記録だけが、ギリギリで残ってた」
「それが……“誰にも言えないこと”だった?」
「あるいは、“言ってはいけないこと”だったのかもしれない」
柊の目が細められる。その目の奥にあるのは、確信と警戒。そして、わずかな迷いだった。
「民間人の佐倉を深入りさせたくはない。けど、今回ばかりは……裏を探らなきゃ辿り着けない気がする。」
柊は言った。
「だからこそ、お前が何か思い出したら、何かを気づいたらすぐ教えてくれ。どんな些細なことでもいい」
葵は深く頷いた。
柊は一拍おいて、小さく「ありがとう」と言った。
その言葉が妙に懐かしく、遠い記憶に引っかかった。
十三年前、あの施設で、背中合わせで、孤独を耐えていた日々が、一瞬だけ蘇った。
眠れない夜、カーテン越しに聞こえた、柊のかすかな寝息。あの静けさと安心感が、今もどこか胸に残っている。
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会議室を出た葵は、そのまま社内の廊下を無意識に歩いていた。
行き先もなく、ただ足が勝手に前へ進む。
田島奈々が、最後に何を伝えたかったのか。
“何かを知っていた”その確信は、確実に形を取り始めている。
けれど、それが何なのかは、まだ深い霧の中だった。
(私が、もっと早く声をかけていたら……)
そんな後悔が、胸の奥に重く沈んでいる。
ふと立ち止まると、社員用の給湯スペースがあった。
コーヒーの機械音だけが響く。
紙コップを手に取りながら、葵は自嘲気味に笑った。
(警察の人と、こんなふうに何度も話すことになるなんて……しかも、あの柊くんと)
十三年前の記憶が、ふと脳裏をかすめた。
まだ十代の終わり。
無言の中で食事を取り、夜は互いに背中を向けて寝ていたあの施設。
当時の柊は、言葉よりも静けさで人と距離を取る少年だった。
けれど今日、久々に聞いた「ありがとう」は、どこかあの頃と同じ温度を持っていた。
紙コップを握り直す。手のひらがほんのり熱い。
その時、スマートフォンが震えた。
画面には、「非通知」の文字。
胸の奥が一瞬、凍りついた。
数秒のためらいの後、通話ボタンを押す。
「……はい、佐倉です」
雑音まじりの沈黙。だが、すぐに低い声が聞こえた。
『聞かれたかもしれない。気をつけろ』
「……え?」
『お前も、あの女と同じになる。近づくな』
通話は、それだけで一方的に切れた。
葵は、息を呑んだままスマートフォンを見つめた。
汗ばむ手が小刻みに震えている。
(今の……誰?)
口の中が急に乾いていく。
恐怖とも、警告ともつかないその声は、妙に冷静で、逆に現実味があった。
(誰かが、この会社の中に……?)
コーヒーはもう冷めていた。
紙コップをゴミ箱に投げ入れると、葵はゆっくりと、社内の空気を見渡した。
見慣れたオフィス。
けれど、そこに潜む何かが、確実に変わり始めている。
目に映るすべてが、どこか薄暗く、遠く感じた。
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葵はスマートフォンを握りしめた手に、じっとりと汗が滲んでいるのを感じた。心臓の鼓動が、いつもより大きく耳に響いている。
足はすぐに動かず、数秒、立ち尽くしていた。
頭の奥がじんじんと痛み、背後に誰かの気配を感じた気がして、葵はそっと振り返る。……けれど、そこには誰もいなかった。
恐怖は、確かにあった。それでも——
葵は震える息を吐き出すと、ゆっくりと歩き出す。
その表情には怯えの色が消えずに残っていたが、同時に、かすかに灯った決意が、それを押しとどめていた。
(田島さん、私……ちゃんと、最後まで向き合うから)
脅えを抱えたまま、葵は自席へと戻っていった。
その背中を、フロアのどこかから、誰かが静かに見つめているとも知らずに——。
お読みいただきありがとうございました。